“ねぇバダップ。最期に君に、訊きたい事があるんだ。” ブレイブ・ハート 〜戦士よ、誇り高くあれ〜 序:ラスト・エンジェル
−−西暦2090年。
誰かが歌う声がする。声変わりを済ませた少年の、しかし大人になりきれない涼やかな音色。
耳に心地良い、そう思うのは癪だったが仕方ない。
ミストレはうっすらと瞼を開け、まどろみかけていた意識を覚醒させる。歌声の主が誰かなど、
目を開ける前から分かっている。ただ少し、意外だっただけで。
「…バダップ」
ベッドに寝ころんだまま、ミストレはその名を呼んだ。
「君…歌も上手いんだな。初めて聞いた」
こちらに背を向け、隣のベッドに腰掛けていたバダップが振り向く。窓から差し込む朝日が、彼
の銀髪をキラキラと飾り立てていた。ああ、不覚にも見惚れてしまいそうである。まったく、頭も能
力も容姿に至るまで嫌みなほど欠点のない奴だ。
だが、その性格は難だらけだとミストレは知っていた。無愛想で無口、表情すらも凍りついてい
る。それは見たままでも十二分に見て取れることだが−−ついでにかなりの天然気質である事
が、近くにいるとよく分かるのだ。頭は良いのにあちこち非常識。おかげで自分やサンダユウが
いつも苦労をかけられている。
トモダチの数なら負けないんだぜ、といつも心の中で呟くのだ。自分は女が途切れた事もない
し、独りで時間を潰す必要がまず生じない。唯一ミストレがバダップに勝ると自負する点だった。
最も、取り巻き達が本当の意味で“トモダチ”であるかを問われると些か微妙ではあったけれど。
「起こしたか?」
バダップが歌を止める。
「悪いな。そろそろ狸寝入りだと思っていた」
「……まぁそりゃそうでございますけども」
そろそろ起きて当たり前の時間だろう、と暗に告げる言葉。多分、イヤミのつもりすらない。最
初は誤解していちいち腹を立てていたものだが。単に言葉が足らない、天然過ぎて空気が読め
ないのではどうしようもない。
頭の出来は恐ろしく良いくせに。バダップはあまりに言葉を持たない少年だった。彼と頻繁に
会話するようになるまではまったく気づけなかった事だ。
時刻は、午前七時。自分達の今までの生活習慣を考えれば、少々遅い時間なのは間違い無
かった。夜着は着ていない。風呂には入ったものの、昨夜は制服という名の軍服で眠ったので、
着替える必要は無い。
顔を洗って、歯を磨いて。ポットの湯はバダップが沸かしているだろうから後は−−そこまで考
えて、ミストレは自嘲する。こんな日でも考える事はいつもと同じだった。今までと同じ生活が出
来る保証など、何処にもないというのに。
ミストレとバダップ−−あともう一人、エスカバの三人は今、この部屋に軟禁状態だった。理由
は単純明快、任務に失敗したからである。いや、事実としては単純なのだが−−この状況を形
作った背景は案外複雑かもしれない。
だってそうだろう。オペレーション・サンダーブレイク−−久々の大きな仕事だった。それをポカ
したオーガ小隊の隊長各三人が、独房にも入れられず自室に軟禁されるだけなんて。
「おかしな事が多すぎて。正直、ぐっすりなんて寝てる場合じゃないよな」
ミストレの言葉を、バダップも無言で肯定する。自分達の現状の理由を問えば、バウゼンから
は“処分は追って連絡する”とだけ返ってきた。ヒビキの返答も似たようなもの。つまり、上の決
定を待て−−だ。
納得していない、訳じゃない。しかしそれでも腑に落ちないのである。処分を決めておく間から
懲罰房に入れておいてもおかしくないだろうに。とりあえずとはいえ自室で謹慎だなんてあまり
に甘すぎる。
「どうなるんだろうな、俺達は」
窓の外を見つめて、バダップが言う。
「軽くて独房。もしくは降格。オーガの解散や…メンバー見直しも高い確率で有り得るだろうな。
最悪の場合…」
そこで彼は言葉を切った。しかしミストレがその先を察するには充分で−−つい舌打ちしたくな
る。バダップに、ではない。今の状況を理不尽だと感じる自分、理不尽かもしれないと気付いて
しまった自分を呪いたかった。
最悪の場合。自分達は、“処刑”される。
無論表立ってされる事ではない。バレたら世論が許さないだろう−−実質政権を握る軍部の
立場も危うくなる。穏健派や保守派が騒ぎ出すのも間違いない。
しかし。実際はあるのだ−−そんな事実も。軍に所属し、此処まで上り詰めた自分達は知って
いる。この場所がどれだけ大人達の陰謀で汚れているかを。
それでも構わないと思っていたのだ−−昨日までは。
「バダップ」
ずっと尋ねてみたかった事だった。だからミストレは口にした。
「後悔してる?ミッションを引き受けた事…円堂守と会った事」
ぎしり、とベッドのスプリングが鳴った。そのあとに満ちるのは静かな間。バダップが考え込ん
でいるのは明白だった。悩んでいる訳でも迷っている訳でもない。それは多分、言葉を選ぶ為
の、間。
やがてゆっくりとバダップが口を開く。
「円堂守。…国の思想を衰退させ、人々を享楽主義へと逃避させ、その最たる“サッカー”を蔓延
した諸悪の根元。…我々は長い間そう教えこまれ、信じてきた」
そうだな、とミストレは頷く。
確かに“サッカー”はスポーツとして古来より親しまれてきた競技だ。しかしその目的は“勝利
者を決める手段”であり、“強者と弱者を明白にする方法”であった筈だというのに。
紛争。テロリズム。災害。世界的に治安が悪化する中、いつしか広がっていたのは“娯楽とし
てのスポーツ”だった。つまり−−“楽しむ為のサッカー”。
人々は現実から目を背ける為に楽しみを求め、ちゃらけた風潮に身を任せている。それは実に
嘆かわしく、ゆくゆくは権力武力を用いてでも変えていかねばならない−−それが敬愛するヒビ
キ提督の口癖だった。そしてその流れの原点が誰であるかという事も。
「そう…信じたままなら。多分俺達が迷う事は無かっただろうな。そして知らないままならばその
方が幸せだったかもしれない」
「そうか」
「…でも」
バダップが一つ、息を吐く。哀愁と憐憫と悔恨。そこには複雑な幾多もの感情が込められてい
た。
「後悔は、しない」
静かに、しかしはっきりと彼は言い切った。
「奴らは何かから逃げる為にサッカーを楽しんでいた訳じゃない。どんな絶望を前にしても諦めな
い心を…立ち向かう勇気を、ちゃんと持っていた」
ゆっくりと立ち上がり、バダップは勢いよく窓を開いた。バダップのベッドは一番窓際にある。勢
いよく流れこんできた風はほんのりと夏の香りを連れてきて、バダップの銀糸の髪を揺らした。
「逃げていた者がいたとすればそれは…奴らじゃなく、今の時代を生きる俺達の方だろう」
それは−−遠回しながら、自分達の信じてきた思想の殆どを否定する言葉だった。しかしミス
トレももはや糾弾や反論をするつもりは無い。認めざる負えなかったからだ。間違っていたのは
自分達の方であると。
十四歳の円堂守。あの時代から八十年。この国は大きく変わった。あまりにも悲しい事が、悪
い夢のような惨劇がたくさん起きた。
徴兵制の復活。憲法第九条の撤廃。そうせざるおえなくなったのは、積み重なった悲劇と世界
的大不況が背景にある。とはいえバダップ達が物心ついた時にはこの現状で、特に世界に疑問
を持つ事も無かった。比較対象など有りはしないのだから。
ヒビキ提督の事は今でも尊敬している。だが彼の憎しみはお門違いにして逆恨みも甚だしいも
のだった。悪いのはサッカーではなく、こんな世界にしてしまった後の世の人間。円堂守に罪が
あるわけじゃない。きっと心の底で自分達は気付いていながら、知らないフリして目を背けてきた
のだろう。
知って。立ち止まったり迷ったりするのが怖かったから。上官という名の大人達の命は時に理
不尽だったが、それでも従う事は楽だった。その結果に責任を持つのは自分達では無かったか
ら。
「大切なのは戦う勇気…か」
ミストレはため息をついてベッドにひっくり返った。
「オレ達も立ち向かっていかなきゃね。…どんなに辛い先が待っていても」
辛い、先。それは自分達の処遇は勿論、今後の世界の行く末を案じての事だった。これから何
が起きるかなんて想像もつかない。それでも戦い続けるしかないのだ。
生きる為に。
生きて幸せになる為に。
「そういやバダップ。二つばかり訊きたいんだけど」
ごろん、と転がりながら問いかける。
「その一。エスカ何処行った?謹慎中なのに」
「正確には外出禁止命令だ。寮の中から出てはならないという事ではない。その辺りをうろいて
るんじゃないか」
「ふうん」
まあ、基本的にエスカバはアウトドア派なわけで。自室にじっとしているのは性に合わないの
だろう。それに彼は同姓の取り巻き(子分とも言う)が多い。今回の極秘ミッションの内容は小隊
メンバー以外に知らされていないが、それでも何らかの重要任務についていた事は皆が知って
いる。心配されている筈だ−−友人の多い彼なら特に。
ああ見えてエスカバは頭脳明晰で弁も立つ。どれだけ親しい間柄でも機密を漏らすような馬鹿
ではない。特に自分達は、まだ士官学校を卒業していないながら部隊に所属し位も持っている。
誘導尋問の訓練やマインドコントロールは徹底的に叩き込まれている。
「質問その二。…君がさっき歌ってた歌。なんて曲?聴いた事ないけど」
曲調はゆっくりで、どちらかというと暗めだ。歌詞も明るいとはいえない。しかし何処か耳につく
歌だった。バダップの落ち着いたテナーによく合っていたのもある。
「…小さい頃、誰かに訊いた。それからよく歌っている。なんとなく」
誰に訊いたかも覚えていないけど、とバダップは言う。目を細め、まるで過去を慈しむかのよう
に。
「どんな悪夢のような現実でも…必ず朝は来ると。絶望を乗り越えよ、と。そう歌った歌らしい」
彼はどこか遠い場所を見つめる。空の彼方か、あるいはさらにその先を。
「だから…掴み取りたい希望がある時、歌う事にしている。他ならぬ、自分の為に」
ざあ、と強く吹いた風にバダップの髪が靡いた。まるで銀色の雨のよう。自らの美貌にはそれ
なりの自負とプライドを持つミストレだったが、それでも認めている事があった。
バダップには。自分とは異なる種の美があると。
「ミストにバダップ。どうせ起きてんだろ、入るぞ」
ノックも面倒だと言わんばかりに、エスカバがドアを開けて入ってきた。少し前から近付いて来
る軍靴の音は耳に入っていたので驚かない。ただノックは一応してくれよとミストレは思う。
「雑談タイム終了だぜ、お二人さん」
「何だい、仕事話か」
「一応な。幾つか報告来てたし出さなきゃなんねぇ書類もあるし」
ついミストレは嫌な顔になる。昨日はバタついていて報告書を出していないのだ。
「上の方々な、相当落胆してたぜ」
エスカバは苦い笑みを浮かべた。
「曰く……円堂守は絶対的確定要素、なんだそうだ」
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