“この世界は絶望だらけかもしれない。美しいとは言えないかもしれない。”
 
 
 
 
 
 
 
イブ・ハート
〜戦士よ、り高くあれ〜
五:リアル・メシア
 
 
 
 
 
 
 

 最初の惨状を思えば、片付けだけで三日三晩は費やすだろうと思われた。しか

しバダップのおかげで、研究所の大掃除はなんとその日の夕方に終了する事が出

来た。

 

「スッキリ−!」

 

 わーい!とカノンは嬉しくなって叫ぶ。ゴミが散乱しブラックGの巣窟となっ

ていた居間はきちんと整理され、床も壁もピカピカに磨き上げられている。

 ああこの研究所の窓に、きちんと顔が映る日が来るだなんて。今までの凄まじ

さを知るからこそ、感動もひとしおだった。

 

「やー、整理整頓がきっちりされてるの、こんなにも空気が美味しいもんなんで

すねえ」

 

 深呼吸しながらしみじみ言うキラード。その彼に、やや意地悪な笑みを浮かべ

てカノンが返す。

「でしょ。だから日頃から片付けすべきって言ってるんです。これからはこの状

態を限りなく保てるように頑張って下さい」

「あははー…多分無理です」

「努力くらいして下さい。ってか、しろ」

「かかかカノン君眼が笑ってません…!」

 まあ、あんまり期待はしてないのだくど。確かに広くて管理の難しい屋敷なの

は間違いないので、せめてハウスキーパーを呼べばいいのではないか。まあ、雇

ったハウスキーパーにあっという間に逃げられなければの話だが。

 遊びにきた筈が、掃除だけで半日を費やしてしまった。しかし、これも悪くな

かったかな、と思うカノンである。バダップと話すいいきっかけになった。これ

も運命の巡り合わせと言うべきか。

 

「…と、そうそうバダップ君」

 

 ピカピカになった居間でお茶をしつつ。カノンの言及から逃げるように、バダ

ップに話題を振るキラード。

 

「君、何か用があって尋ねてきたんじゃありませんでしたっけ?まさか片付けが

目的じゃないでしょう」

 

 そういえば、とカノンも思い出す。バダップは一番最初に、幾つか質問がある

と言っていたっけ、と。その内容は予想がつくようでつかない。十中八九例の一

件に絡んだ事だろうが。

 

「…幾つか確認したかっただけだ」

 

 口を開いたバダップに、居住まいを正すカノン。これから語られるだろう話は

自分にとっても少なからず重要に違いない。きちんと拾わなければと、そう思っ

たのだ。

 

「まず一つ。…先日の一件にて。八十年前の世界に円堂カノンを送ったのはキラ

ード博士、貴方だな?」

 

 一応疑問文の形はとっているが−−それはほぼ最終確認に近いものだった。キ

ラードは答えない。しかしバダップは気を悪くした様子もなく、続ける。

 

「何の為にあんな事をした?誰に頼まれた?」

 

 緊張が走る。少し前までのキラードとの会話を思い出したのだ。

 オーガを率いたバウゼン大佐。そして大佐に指示を出したと推測されているヒ

ビキ提督について。

 ヒビキが関わったという物理的証拠は無い。しかしヒビキの思想を敵視する政

府の一部が、今回の件を使ってヒビキを失墜させようとしている。キラード博士

はその反ヒビキ派に依頼されて、物証を見つけよう徹夜作業をしていたのだ。こ

の事実、ヒビキ派(と推測される)バダップには一番聴かれてまずい話題だった

のではないか。

 

「誰に依頼された…か」

 

 キラードは、先程までの間抜けた様から一変、済ました顔で紅茶を啜った。

 

「残念無念。…答えられると思います?そんなこと」

 

 博士が正式には誰に依頼されたのか。それはカノンも知らされていない事だっ

た。守秘義務、という奴だろう。そもそも下手に口にすれば命にさえ関わりかね

ない情報。いくら友達でも自分には語れなかったのだ、と今更ながら理解する。

 

「なるほど、答えられないというならつまり」

 

 済まし顔の博士。それに対し小さく−−ほんの小さくだが、バダップが挑戦的

な笑みを浮かべた。

「守秘義務が発生している。貴方の独断ではなく依頼された結果である事は間違

いない。…そうなるな」

「お見それします。さすがは中尉殿」

 キラードは肩を竦める。実際、これくらいならバレてもいいか、くらいには思

っていたらしい。余裕の笑みは崩していない−−お互いに。

 

「ま。でもこれだけは言わせていただきますよ」

 

 冷静に、ごく物静かに。キラードは告げる。

 

「例え政府の認可が下りずとも。…私は独断で首を突っ込んでいたでしょうね。

…カノン君を消さない為に」

 

 バタフライ効果。過去の時間軸に僅かでもズレが生じれば、まるでドミノを倒

すがごとく未来にまで影響が出る。オーガ出撃はその結果に期待したものであ

り、実際彼らのミッションが功を成していれば、影響が出たのはカノンやサッカ

ーに限ったものでも無かった筈だ。

 だがそれでも、カノンは嬉しかった。自分の為だと言うキラード博士の言葉を、

押し付けがましいとも思わなかった。自分の為に一生懸命に尽くしてくれる人が

いる。それが嬉しくない筈はない。

 

「その事でだ。もう一つ疑問がある」

 

 珈琲カップを手に取り、バダップが続ける。

「今朝上から報告があった。…円堂守が絶対的確定要素である事が明確になった

とな。…貴方はそれを知っているか?或いは最初から知っていたのか?」

「…最初から知っていたなら、あんな面倒な真似したと思います?」

「だろうな」

「ちょ、ちょっと待って待って!」

 勝手に話を進める二人に、慌ててストップをかけるカノン。カノンからすれば

絶対的確定要素って何じゃほら?である。

 

「俺の分かんない話で盛り上がらないでよ!こっちは一般人なんだから!」

 

 一人だけ蚊帳の外にされて面白い筈がない。寧ろムカつく。

 円堂カノン。可愛い顔して実は超腹黒キャラ疑惑あり−−とか周りに噂されて

いるのはここだけの話。

 バダップは頬を膨らませるカノンを目を丸くして見た後、暫し沈黙、やがて合

点がいった様子で口を開いた。

「絶対的確定要素というのは」

「うん」

「歴史上稀に存在する、確実に軸から外れない者を言う。絶対的確定要素に関わ

った全ての事象は時間軸上けして揺らがず、外部から時空の流れに介入した場合

それが顕在化する。つまり、いかに歴史への侵入者が書き換えを行おうとも、絶

対的確定要素に関わってしまえば全て平行世界化し、侵入者の時間軸への影響を

相殺してしまうんだ。ここまでは理解したか?」

「……ごっめん、無理」

 頼むから難しい言い回しは無しにして欲しい。カノンに説明する気が無いの

か、単に天然なのか。

 今までの言動や行動からして−−多分後者なんだろうなあ、と思う。

 

「まあ簡単に説明しますとね」

 

 ヘルプを求めるカノンの視線に苦笑しつつ、キラードが言う。

 

「円堂守。君のひいおじいさんは、歴史の上でも特異な存在なんです。彼の存在

に関わった過去は、我々未来の人間がいかにいじくり回そうと変える事が出来な

いんですよ」

 

 キラードは、バダップと比べ遥かに簡単な言葉で説明してくれた。

 我々が過去に飛べば、何もせずともそれだけで必ず時間に揺らぎが出る。多か

れ少なかれ歴史に変化が出る。だからタイムワープの技術に規制がかかったの

だ。

 しかし。

 オーガが過去に介入した事で変わった筈の歴史が−−何故か記録上まったく

変わっていないのだという。八十年前のフットボールフロンティア決勝は、史実

通り雷門VS世宇子のままだ。では何故こんな事になったのか?

 

「円堂君が特殊な存在…絶対的確定要素だったからです。故に、我々が関わった

時間軸が、我々の過去ではなくなってしまった」

 

 平行世界、というものについて、カノンはここで初めて知った。そもそも自分

達の生きる世界の他にも世界がある、そんな考え方自体が新鮮なものだった。

 要は。自分が助っ人を率いて円堂守を助けに行ったあの過去は−−パラレルワ

ールドにになってしまい、自分達とは別の世界の過去になってしまったのであ

る。こんな事は誰にとっても予想外だった−−無論、オーガを送り込んだ者達に

とっても。

 

「可能性の一つとして、頭になかった訳じゃないですがね」

 

 絶対的確定要素の人間なんてめったにいるもんじゃないんですよ、とキラー

ド。

 

「昨日、影響を調査し直して…驚きましたよ。まさかと思いましたね。ぶっちゃ

け、私達の過去が変わらないと分かっていたら、カノン君に動いて貰う必要も無

かった訳ですから」

 

 なるほど。カノンも漸く理解が追い付いた。仮にもしあの世界で雷門がオーガ

に負けていたとしても。自分達の世界で雷門が優勝した事実は揺らがなかったの

である。

 早い話が無駄足だったのだ。自分達がやった事も、オーガがやった事も。やや

ガッカリして、カノンは俯く。

 けれどそんな思考を読んだかのように、バダップが告げた。

 

「全てが無に帰した。…だが俺は、あの出来事が無駄だったとは思わない」

 

 カノンは顔を上げてバダップを見た。バダップは真っ直ぐに−−未来を見つめ

る者の眼をしている。

 茶色の瞳に映り込んだ夕焼け空が、綺麗だと思った。

 

「過去に責任転嫁して、現状を諦めていた俺達こそ変わるべきだったんだ。奴ら

は俺達にそれを気付かせてくれた。見失っていたモノを取り戻させてくれた」

 

 あの試合の時にいた、殺意にも似た憎悪をたぎらせ、大人達の強いたレールを

走っていた彼はもう−−いない。

 

「だから、無駄じゃない。そして後悔しない。これから先…どんな未来が待つと

しても」

 

 一瞬よぎったその表情に、カノンははっとさせられる。まるで痛みを堪えるよ

うな、あまりにも悲痛な覚悟を決めたような−−そんな顔。

 これから先、どんな未来が待つとしても。

 その言葉がカノンを不安にさせた。

 

「…ねぇ、バダップ」

 

 そうだ。自分も訊かなければ。机に手をついた拍子に、カチャンとマグカップ

が音を立てた。壊れもののような音が、胸の中の暗雲に拍車をかける。

 

「ミッションに失敗したんでしょ。…オーガは、どうなるの?」

 

 軍部や王牙学園の厳しさは半端じゃないと訊く。体罰も茶飯事と専ら噂だ。だ

からずっと気になっていた。見たところバダップに変化はないが、今大丈夫だか

らといってこれからも大丈夫とは限らない。

 バダップは笑った。それは微かだが、優しく、何かを慈しむような笑みだった。

 

「…カノン」

 

 そしてフルネームじゃなく−−カノンの名を呼んだ。

 

「もしかしたらまた…俺の大事な誰かに、危機が迫る時があるかもしれない。も

しかしたらそれはお前の大事な誰かでもあるかもしれない。…お前が俺を友達だ

と思ってるなら、頼みを聴いてくれるか」

 

 穏やかな声。なのにどうしてこんなにも。

 

「いつか、その時が来たら」

 

 こんなにも、胸を締め付けられるのだろう。

 

「助けてくれるか。例えそれが、この世界のお前の曾祖父でなくとも。お前のか

つての敵だとしても」

 

 黄昏時。オレンジの光に照らされた少年兵の顔は美しかった。残酷なほどに。

 

「バダップ君。貴方、もしかして…」

 

 キラードが何かを言いかけて、口ごもる。もうバダップは何も言わなかった。

ただ静かに微笑んでカノンを見ていた。

 
 
 
 
NEXT
 

 

本物の、救世主。