“そして今、空の向こうで笑っていてくれますか?”
ブレイブ・ハート 〜戦士よ、誇り高くあれ〜 十八:ペインフル・フラジール
あの日の事を−−ミストレは一生忘れられないだろう。
バダップがどんな姿で生還したか、正確にはミストレは見ていない。ただ 帰投した時の凄まじさを、バウゼンから聞いたのみだ。 服はズタズタで、剥き出しの太ももや腕は血が幾筋も伝っていた。目は濁 り、折れた右足を引きずり、ふらつきながらも、愛銃と荷物を握りしめて歩 いてきたという。歩く度に血の川ができて、近付くだけで凄まじい血の匂い がしたそうだ。血と、腐臭と、死臭が。 営倉から出されてすぐ、ミストレは仲間達と共にバダップが収容された病 院に飛んでいった。彼はまだ集中治療室から出られる状態になかったが、ガ ラスごしにその姿を見る事は出来たのである。 そして−−愕然とした。 包帯や衣服に覆われていないのは顔だけだ。ぽっかりと開かれたままの瞳 は何も映していない。呼吸器から聞こえる音がなければ、死んでいるも同然 の姿。 さらには−−バダップの、左肩から下がなくなっていた。ショック死しな かったのが不思議だよと医師は言っていたらしい。 左腕の切断。十三カ所の骨折。一部内蔵破裂に筋断裂。身体右肩や腹には、 撃たれた弾丸が貫通せず埋まったままになっていた。地獄の苦しみだった筈 だ。そんな身体で任務を成功させてきたなんて、もはや才能云々のレベルで はない。 瀕死の傷だが。今の技術ならば、左腕以外はなんとか治せるだろうと医師 は言う。しかし彼いわく、本当に恐ろしいのは怪我そのものではないそうだ。
『拷問に尋問。だが…それだけじゃない。バダップ君の身体の中にはおぞま しいモノがたくさん入ったままになってたし、痕跡も嫌というほど残ってい た』
後で知らされた情報を元に、ミストレなりに調べてみたのである。バダッ プが相手にしたテロ組織、レッド・マリア。そのボスであるアルフレッド= シュタール。その巨漢と剛腕、軍人時代に築いた人脈が武器であるその男は、 身の毛もよだつ悪趣味があった。 幼い子供をいたぶり、慰みものにし、悲鳴を何よりも愉しむ。時には取り 巻きの化学者達に命じて、獲物の身体を好き勝手改造する事もあるという。 資料には、両足を切断されて魚のような尾をくっつけられた少年や、身体の 半分が植物になってしまった少女の写真があった。 バダップは、そんな男の捕虜になってしまったのである。 彼の実力ならば、捕まる事なく逃げ切るくらいは出来ただろう。だが任務 の内容はレッド・マリアの壊滅と資料の回収。失敗は許されない。千人もの 武装勢力を相手にそれを遂行する為には、どうしても捕虜になって相手を油 断させ、探りを入れるしか無かったのだ。 バダップの身体には麻酔もされずメスを入れられた後や、アルフレッドの 趣味に合わせて腹の中や胸の中をいじくり回された痕跡が山ほどあった。資 料の子供達に比べて見た目はさほど変わらなかったものの、バダップの身体 が遺伝子レベルで両性化させられていると聞かされた時は本気で吐き気が したものである。それだけで男がバダップを何に使ったかが見えるようだっ た。
『…スリード大尉が…ああ、失礼、バダップが今回の功績から一階級昇格に なったのは知っているな?彼が持ち帰った資料の中には、施設の防犯カメラ の記録を入れたメモリーカードもあった。見てみるか?』
極秘任務だった筈だ。それを何故バウゼンがわざわざ自分達に見せたの か。今から考えると、自分達の精神的揺さぶりが目的だったとしか思えない。 オーガは既に邪魔な存在だったのだろう。自分達の戦意を挫く為に使ったに 違いない−−隊長の、あまりにも無惨な姿を。 そこにはバダップがアルフレッド達に拷問され、陵辱され、実験道具にさ れる一部始終が記録されていた。映像の中、泣き叫ぶバダップ。それはアル フレッドを喜ばせ、油断させる為の演技だっただろうが−−結果を知ってい る自分達の胸を抉るには充分だった。 映像を見せられたその日、ミストレは自室で強かに吐いた。髪を掻き毟り、 泣き叫び、醜いのを承知で罵りの言葉を吐き散らした。胃の中身が空になっ ても、胸につかえたものが消える事はない。悲しくて苦しくて恐ろしくて理 不尽で−−ああ、もしかしたら壊されたのはミストレも同じだったのだろう か。 それから数日は食事も喉を通らず、夜は眠れない日々が続いた。眠れば必 ず、あの映像が夢に出てくるのだ。血だらけで泣き叫ぶバダップと、好き勝 手にバダップをいたぶる男達。夢の中でバダップが自分の名を呼び助けを求 めて−−そこでいつも飛び起きるミストレ。その繰り返しだ。 それでもどうにか少しは落ち着いてきて。一般病棟に移されたバダップに 逢いに行った。左腕のなくなったバダップは包帯だらけで横たわり、相変わ らずぽっかりと宙を見つめていた。声をかけても、反応が返ってくる事は無 かった。
−−何で、こいつがこんな目に遭わなきゃいけない?
バダップの右手を握りしめ、ミストレは泣いた。
−−こんな惨い真似されなきゃならないほどの罪が…こいつの何処にあっ たって言うんだよ。
戦場でたくさん、人を殺した。それは間違っていない。自分達はきっと地 獄に堕ちる。それも分かっていたつもりだ。 だけど。 この任務を命じられるきっかけになったのは−−あの日の、あの試合。バ ダップはサッカーをした。試合に負けた。それだけではないか。彼はただ、 仲間と共に在る未来を願っていただけではないか。
−−ああ…今更だ。
今更、ミストレは気付く。自分はずっと、バダップが嫌いだと思っていた。 認めているのは間違いない。だが自分からトップを奪う、憎たらしい相手だ と常に思っていた筈である。 そうではなかったのだ。 自分はこんなにも彼を頼りにしていた。彼の作った料理は美味しかった。 彼の作戦はいつも皆が生き残れるように最善を尽くしたものだった。書類の 完璧さには舌をまいた。からかうと天然な反応ばかり返してきて、そんな彼 に呆れる時間が、自分は嫌いじゃなかった。 そして、稀に見せてくれる笑った顔が綺麗で−−大好きだった。
−−馬鹿だオレ。なんで今更、気付くのかな。
才能と容姿ゆえ。自分の周りには人が集まった。しかしミストレは、上辺 だけで近付いてくる連中を誰一人信用していなかった。友達の多さが唯一バ ダップに勝てる点だなんて思っていたけれど−−なんてことはない、集団の 中にいてもミストレはずっと独りだったのである。寂しいことすら気付けな いままに。 変わったのは、オーガ小隊が出来てから。 対等に話せる連中。無意識に信頼出来る仲間。特にバダップとエスカバは、 当たり前のように隣に在る存在だった。そうだ、バダップは−−ミストレが 生まれて初めて出来た、親友と呼べる存在だったのである。
−−いつも、ありがとうって。そう言ってやれば良かった。オレ達がいるか ら、一人で背負ったりしなくていいよって。
最後に作ってくれた料理、特に餃子は絶品だったよ。 花火に誘ってくれて嬉しかったよ。 それから−−最後に、みんなでやったサッカー。凄く凄く、楽しかったよ。
−−ごめんね。何一つ…言ってないよね。
大事なこと、何一つ伝えていない。 君は自分にとって最高の親友で、誇れる隊長で。 いつも嫌いだとか馬鹿だとか言っちゃったけど、本当は大好きだったんだ よ。自分だけじゃない、みんなみんな、君が大好きだったなんだよ。 言えなかった言葉が胸を苛む。後悔だけで死んでしまいそうだった。バダ ップの命を繋ぐ点滴や呼吸器のコードが、抱きしめる腕の邪魔をした。
−−赦せない。
嵐のような悲しみと嘆きの後。ミストレを支配したのはその感情。
−−バダップを壊した奴らも、バダップにこんな真似をさせた奴らも…その きっかけになった奴らも、全部。
憎悪。殺意。憤怒。それらがミストレの脳髄を真っ赤に塗りつぶし、染め 上げていく。 自分達は無知で無力な子供だったかもしれない。軍人とはいえ、あまりに 知らないことが多すぎたのかもしれない。 だが今でこそ分かる。それでもずっと、自分達は幸せだったのだ。少なく とも自分は。戦場に出て、今日死ぬか明日死ぬかも分からない場所にいて尚 −−長く生きる事より一瞬の日常が貴かった。独りではなかったから。笑い 合える仲間と、居場所があったから。 それが壊れたのは何時だ。
−−あの、オペレーション・サンダーブレイクに失敗してからだ。
失敗したのは何故だ。
−−円堂守が、邪魔したからだ。
バダップが八十年前の生ぬるいサッカーと、軍の忌み嫌う呪いにかけられ てしまったのは何故だ。
−−全部、全部、円堂守のせいだ。
全ての始まりは、円堂守。 出逢わなければ良かった。彼と試合などしなければ、オペレーションに参 加しなければこんな事にはならなかった。自分達はずっと、平凡な日常の中 で生きて死ねた筈なのに。
−−殺してやる。
場違いだと。復讐は何も生まないと、理性的なもう一人の自分が言う。バ ダップだって言っていたではないか。あの試合で得たものがあったと。そん な彼がこんな事望みはしないと分かっているのに。 どこかにぶつけなければ、想いの持っていきようがなかった。きっともう 既に自分は狂っているのだろうが、このまま放置すればさらに見る影も無い ほど壊れてしまいそうだった。
「…お前らに、何が分かる?」
カノンの話を聞いて。呆然と立ち尽くすばかりの雷門イレブンに、ミスト レは吐き捨てる。
「ボロボロにされて、人としての尊厳も根こそぎ奪われて…!バダップがど んなけ痛かったかお前らに分かるのかよ?その姿を見てオレ達がどんな想 いだったか…お前らに分かるってのかよ、ええっ!?」
円堂守を殺す。そして、バダップをあんなになるまで追い詰めた軍の連中 も、提督も教官も皆殺しにしてやる。バダップを弄んだ直接の実行犯は既に この世にいないだろうが、レッド・マリアにはまだ残党がいた筈。そいつら も殺してやる。
「死ねよ…死んじまえよ全員!全部全部全部呪われちまえ!滅んじまえ! お前らの世界もオレ達の世界もっ!!」
どうせ救いなんかありはしない。神様がいないなんて分かりきっていたけ れど。今はいもしない筈の神様とやらさえ憎くて憎くて堪らない。
「もう、バダップは戻らない…オレ達もいつか同じように使い捨てられるだ けなんだ!!だったらもう、何も要らないっ!!」
どうせ、もう彼は救われないなら。 どうせ、壊されるだけの未来なら。
「だから…そいつを殺して、みんなみんな殺して…オレも死んでやるっ、人 として!!」
叫んだ、その時だった。
「…諦めるのか」
沈黙していた円堂が−−泥とかすり傷にまみれた顔を上げて、ミストレを 見た。
「ふざけんな!何でそんな簡単に諦めちゃうんだよ!そんなの…悲しすぎ るだけじゃないか!!」
一瞬、ミストレでさえ気圧された。 先程殺されかけた筈なのに。円堂の眼に、絶望は欠片も無かった。
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切ない、コワレモノ。