“あの頃見えなかった事が、漸く見えるようになった気がするのです。”
ブレイブ・ハート 〜戦士よ、誇り高くあれ〜 十九:ゴッド・ハンド
恐らく、カノンが語った事は大筋に過ぎず、全てではないのだろう。血の 気が引いたミストレとエスカバの顔を見れば分かる。細かい事までカノンに 教えるにはあまりに−−彼らの傷は、深い。
「多分…カノンが言った事以上の事が起きたんだろうって、思う」
円堂は真っ直ぐミストレを見据えて言った。
「俺は実際にバダップの姿を見た訳じゃないし…。当たり前みたく一般人と して生きてこれた俺には、想像もつかないくらい酷い事があったんだと思 う」
分からない事が、知れない事がこんなに辛いだなんて。胸の奥をじくじく 苛む痛みに、円堂は歯を食いしばって耐えねばならなかった。 分からない方がいい事、知るべきでない事もたくさんあるのだろう。だけ ど今は。今だけは。彼らの痛みを共有出来ない事こそが痛みだった。
「それに俺は…俺だから。バダップにもミストレにもエスカバにもなれない から。気持ちが分かるなんて軽々しく言えない」
慰めでよくある言葉。お前の気持ちがよく分かるよ、とか。昔はその罪深 さに気付かなかった。同情して、知ったかぶりして、余計傷つけかねない言 葉だなんて。 今は少しだけ、そういった事も見えるようになったから。分かるだなんて 言わない。その代わり素直に自分の気持ちを伝える事が大事だ、と円堂は思 うのである。 自分の気持ち。 彼らの痛みを少しでも知りたい−−彼らを救いたいという、気持ち。
「だけど。分からないからこそ…知りたいって願ってる。だからさ、恨み言 かもしれないけど…ミストレ達の本音、聴けて良かったよ」
漸く知れた、想い。ミストレが自分をこんなにも憎んだ理由。人はそれを 逆恨みだと言うだろう。それは間違いではない。円堂自身も、謝るべき事で はないと思う。 しかし。自分が正しいと信じてやった事が、結果として悲劇を招いたのも 事実であり。それを想定していなかった事だけは反省しなくてはなるまい。 予想していたら何かが出来たという訳でもないかもしれないが、それで も。
「その上で…俺、思うんだ。諦めちゃいけないって」
ミストレの、憎しみに染まった眼を見る。悲しい眼だった。悲しくて悲し くて、真実(ホントウ)の事が見えなくなってしまっている眼だった。
「俺は誰かを殺したいほど憎いって思った事はない。でもさ。…復讐は良く ないとか、そんな事しても誰も報われないとかよく言うけど、それは綺麗事 に過ぎないんじゃないかな。本気で誰かを憎んで、堕ちた事のない人間に… そんな事言う資格はないって」
だから自分は−−ミストレが自分を殺しに来るならば全力で抵抗するけ れど。その行為自体を、感情そのものを否定する事はしない。 それは誰でも持ち得る、当たり前の心だと思うから。 「だから…うまく言えないけど。ミストレがどうしても復讐したいなら、そ れを止めちゃいけないって思う。勿論俺も死にたくないから全力で逃げるけ どさ」 「円堂…」 「ただ、さぁ」 何だろう。なんと説明するのが正しいのだろう。こんな時回らない自分の 頭が恨めしくて仕方ない。
「ただ…それって幸せな事なのかなって、思っちゃうんだよ」
円堂は拳を握りしめる。 初めて聞いた−−世界を、運命を、全てを呪う声。
『死ねよ…死んじまえよ全員!全部全部全部呪われちまえ!滅んじまえ! お前らの世界もオレ達の世界もっ!!』
激情を吐き散らかしたミストレは嗤ってさえいた。しかし円堂には彼がず っとずっと、泣いていたようにしか見えなかった。声もなく、涙もなく。
「何もかも呪ったまま…全部壊して、死んで。それで誰かが報われるのかな」
『もう、バダップは戻らない…オレ達もいつか同じように使い捨てられるだ けなんだ!!だったらもう、何も要らないっ!!』
「何も要らないわけ、無いじゃん。大事なモノがあったから…守りたくて、 でも守れないモノがあったから絶望してるんだろ?悲しくて壊れちゃいそ うなんだろ?」
『だから…そいつを殺して、みんなみんな殺して…オレも死んでやるっ、人 として!!』
「死ぬのだって権利だ。それでお前が逃げただなんて俺は思わないし、エス カバ達も思わないと思う。でも…でもさ」
このままでいい訳がない。 見失ってはいけない−−一番大切な事を。
「お前がこんなに苦しんで苦しんで、不幸になったまま死んだら。それを知 ったバダップが一番傷つくんじゃないのか…!?」
ハッとしたようにミストレの眼が見開かれる。円堂はさらにたたみかけ た。
「負けるなよ。俺達の…ミストレの。人生って名前の試合は終わっちゃいな いだろ…!まだホイッスルは鳴ってない。逆転出来る可能性だってあるじゃ ないか…!」
サッカーの試合と、同じだと思った。試合においてならば円堂もまた絶望 を知っている。足掻いても足掻いても埋まらない力の差、圧倒的な壁。帝国 や世宇子といった相手に何度絶望したかしれない。 だが。どんなにそれが巨象と蟻の戦いだったとしても。可能性は限り無く ゼロなのであって、完全なゼロでは無かった。人の想う力は強い。その力一 つで、その極僅かな可能性をも引き上げられると自分達は知っていた。 そうやって起こした奇跡。王牙との試合もそう。自分達は奇跡を起こして、 零を百に変えてみせた。勝利を掴んでみせたではないか。
「諦めんなよ!自分達はもう不幸になるしかないなんて…未来には絶望し かないなんて。バダップがもう戻って来れないなんて諦めるな!!」
あの試合を通して、彼にも何か伝わった筈。自分はそう、信じている。 絶対に、諦めない。その心が奇跡を起こす。諦めた時に絶望が人を殺すの だ。
「忘れんなよ…だって俺達みんな…生きてる。まだ生きて此処にいるんだ よ!!」
綺麗事かもしれない。必ず出来るなんて保証は無いし、願えば叶うだなん て事は神様だって約束してくれない。 それでも、自分は何度だって言う。 生きていれば必ず、逆転のチャンスはある。どれだけ確率が低くとも、ゼ ロなんかじゃないと。
「…バダップもさ、きっと頑張ってんじゃないのかな」
ミストレの眼に映る円堂は、泣いていた。そこで漸く円堂は己の頬を伝う 滴に気付いた。 円堂だけではない。エスカバも、カノンも。みんな泣いていた。
「でさ。頑張ったバダップが…もし帰って来れた時にさ。お帰りって…お前 達が迎えてやんなきゃ、駄目じゃんか」
そして。ミストレの瞳の中の円堂が揺れて、溶けて、光になって流れた。 ミストレも涙を流していた。そこに先程までの、阿修羅のような形相は無い。
「う…るさい。煩いっ…煩いよ円堂守っ…!」
俯き、片手で顔の半分を押さえてミストレは呻く。
「分かってる…分かってんだよそんな事…。だけど、だけどどうしたらいい か…オレは、どうすればいいってんだよ…!」
場違いな感情だと思うが。はらはらと涙を流すその姿は、可憐な少女にし か見えなかった。仲間の為に泣く彼は、罪深いほどに綺麗だった。 「憎いんだ…悲しくて壊れそうなんだ…!眼を閉じるとすぐあの映像を思 い出す。血だらけで泣き叫ぶバダップが夢に出て来る…!その度にオレは… 生きていていいのかさえ分からなくなるんだ…!!」 「……ミストレ」 ずっと沈黙していたエスカバが口を開いた。
「一人で、背負うなよ。同じモノを見たのも思ったのも…お前一人じゃねぇ んだ」
映像、とミストレは言った。カノンはただバダップがボロボロにされたと 言い、エスカバは彼が喋る事も歩く事も出来なくなったと言った。多分−− これは推測だが。バダップがそうなった原因が、映像として記録されており、 ミストレ達はそれを見てしまったのではなかろうか。 血だらけで泣き叫ぶバダップ、なんて。円堂にはどんなに頑張っても想像 しようがない。だって自分達にとってはつい先日の事なのだ。気丈にフィー ルドに立ち、冷静に試合を指揮する彼を見たのは。 もしかしたらミストレもそうだったのかもしれない。想像さえも出来なか った悲劇と、親友のあまりに無惨な姿を見せつけられて。故により一層ショ ックが大きかったのかもしれなかった。 円堂も考える。もし自分にとっての親友達−−豪炎寺や、風丸や、鬼道が 同じ目に遭ったら。どこまで平静さを保てるだろうかと。 「…無理に、憎しみを忘れろなんて言わねぇ。思うのは自由なんだ。ただ… お前が本当に憎むべき相手は円堂じゃねぇ。殺せたところで虚しいだけ。お 前の手がまた汚れるだけだろが」 「分かってる…分かって、る…!」 「辛いだろうけど。もうちょい楽に生きろ。…円堂の言う通りだ。簡単に諦 めたら、後で死ぬほど後悔するぜ」 後悔。ああ確かに、と円堂は思う。自分がいつも諦めなかった訳。諦めら れなかった本当の訳は。 後の後悔が死ぬほど怖くて仕方なかったから−−それも、紛れもない理由 の一つだ。
「生きていていいか、わかんないなら」
カノンが口を開く。彼は涙さえ無かったが、その顔は泣き出しそうに歪ん でいた。 「生きていて、いいんだって。そう思える事をすればいいよ。自分の為の理 由を作ったって誰も咎めない。今生きてるってだけで…君が頑張ってるっ て、みんな分かってるよ」 「…そうだな」 そのカノンの言葉に、鬼道が同意する。 「バダップを信じて待つこと。どうにか助ける方法を考え続けること。それ がお前自身の救いになるんじゃないのか」
それは−−長い間影山の下にいて、数多の闇を見てきた鬼道だからこその 言葉だった。彼もまた救いを求めてさ迷っていた一人だっただろう。今やっ と、少しずつ前に進めるようになってきた、そんな段階に違いない。
「お前の生を赦せないのは他でもないお前自身。お前が本当に憎みたかった のもお前自身。…早く赦してやれ。お前がバダップを待っているように、お 前を待つ者もいるのだから」
そうだ。ミストレは、愛されている。きっとバダップもエスカバもそう。 だってエスカバがこの時代まできてミストレを止めようとしたのは、どう見 たってミストレの為でしか有り得ないではないか。 忘れてはならない。最後の一線を踏み越える前に、気づいて振り向くべき なのだ。愛してくれる、たくさんの人達を。その人達の笑顔が何によって成 り立っているのかを。
「う…ぅ…」
ポロポロ。ポロポロ。 ミストレの大きな眼にいっぱいの滴が溢れて、溢れた端から地面に零れ落 ちていく。それはさながら春に降る温かな雨のように。
「うわああああああっ!!」
そしてミストレはエスカバに抱きつき、声を上げて泣きじゃくった。まる で幼い子供のように叫び続けた。全ての想いを解き放つかのように。 「…カノン」 「何…ひいじいちゃん」 「頼みがあるんだ」 円堂は自らの顔を乱暴に拭い、カノンと向き合った。カノンも自分とそっ くりな動作で、袖口で目元を擦っている。円堂は一つ息を吐いて、告げた。
「俺達を、未来に連れて行ってくれないか」
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神の、テノヒラ。