“まるで鳥篭のように閉じた世界だ。”
 
 
 
 
 
 
 
イブ・ハート
〜戦士よ、り高くあれ〜
二十一:ティア・ドロップ
 
 
 
 
 
 
 
 ミストレの中から。円堂守を憎む気持ちが、消えた訳ではない。ただ、そ
れ以上に強い気持ちを思い出してしまっただけだ。そう。
 もう一度−−皆で笑いあえる日々を取り戻したい。
 バダップが戻ってくるのを−−諦めたくないという気持ちを。
 
−−お前のせいだよ、円堂守。
 
 ミストレは心の中で、すぐ後ろに立つ人物を罵る。
 
−−お前が余計な事を言わなけりゃ…大人しく殺されてくれれば。思い出さ
ずに済んだのに。
 
 全てを恨んで、憎んで、壊して。それで楽になれた筈だ。諦められた筈な
のに。
 目を背けていた自分の本音に、気づいてしまった。そう、自分が本当に耳
を貸してしまったのは円堂の声ではない。皆で幸せになる事を諦めたくない
のだという、自分自身の声だ。
 こんな世界に、現実に。もう何も期待するものかと思った。最初から諦め
てしまえば裏切られずに済む。結局駄目だったとしてもショックを受けずに
済むからだ。
 なのに。自分は円堂を殺せず。また、期待を持ち始めてしまっている。彼
ならばもしかしたらと思ってしまっている。諦めた筈のものを望んでしまっ
ている。
 
『…ムダじゃ、ない』
 
−−馬鹿だよね…バダップ。
 
『俺は言ったな、ミストレ。円堂守に出逢った事を後悔していないと。…こ
の事実を知っても変わらない。俺は、無意味な事など一つも無いと思ってい
る』
 
−−馬鹿だよね…オレ。
 
『過去は変わらなかったとしても。俺達は……変われただろう。だったら、
ムダなんかじゃない。必ず未来に繋がっていく。…違うか?』
 
−−こんな事になっても君は…良い事もあるって、そう言えるっていうの?
 
 まだ自分達は幸せになれると。
 悲しいばかりの運命も変えられると、そう言うの?
 
−−お願い…答えてよ、バダップ。
 
 白い病室。バダップは最後に見た時の姿のままだ。失われた左腕。右腕に
は点滴。首と頭には包帯。意識はある筈なのに、誰の姿も見えていない眼。
 
「リハビリは必要だけどよ…怪我はかなり、回復してるんだ。切断されちま
った左腕はどうしようもないが」
 
 息を呑んだ雷門イレブンに、エスカバが淡々と告げる。
 
「だが…こいつは心を、遠い場所に置き去りにしてきちまった。話しかけて
も返事もしねぇ。それどころか何の反応もねぇ」
 
 それは−−訓練で無理矢理感情を押さえ込んだ声だった。青ざめた顔が示
している。本当は口にするだけでエスカバも辛い筈である。
 
「…バダップ。今日はお客さん…連れてきたよ」
 
 ミストレはベッドの横で屈み、バダップに話しかける。
 
「円堂と…雷門の奴等。お前の事が心配なんだってさ」
 
 心配−−そう、こいつらは心配している。たった一度試合しただけ、しか
も彼らのサッカーを否定する為に現れた敵将を。なんてお人好しなんだろ
う。
 昨日の敵は今日の友、なんて昔の言葉があるけれど。実際はそんな甘いも
のじゃない。寧ろ今日の友は明日の敵になるかもしれない、それが現実では
ないか。ミストレは弱冠十四歳ながらそれを嫌というほど思い知ってきた。
 今日は仲間で明日も仲間。ミストレに当たり前のように信じられる存在が
出来たのも−−オーガ小隊が出来てからで。
 
「甘いったらないよね。誰も君の事、恨んでないって言うんだから」
 
 本当に、甘い。さすがは八十年前の平和ボケした世界だ。戦争なんて誰も
知らない、徴兵制だってない。生ぬるく、楽しいだけのサッカーをしていれ
ばいいような連中。
 だけど−−ああ、だけど。彼らは戦う心を忘れた訳じゃあなかった。立ち
向かう勇気を捨てた訳でも無かった。そうだ、本当は自分だって分かってい
る。円堂に殺意を向けるのはお門違いだと。彼らの持っていた勇気を忘れて
しまったのは、殺伐とした今の時代に生きる自分達だと。
 
「なんとか言いなよ…君はみんなに心配かけて、こんな情けない姿晒してる
んだ。みっともないとか、申し訳ないとか思わないの?」
 
 それでも。それでも何かにぶつけるしか無かった。諦められないのに、未
来が怖くて諦めようと必死になった。だから円堂に憎しみを向けたのだ。
 だけどもう、その円堂のおかげて殺意が鈍り始めている。バダップが目覚
めるかもしれないなんて、絶望的な希望を抱き始めてしまっている。
 もしこのまま彼が目覚め無かったら−−自分はきっともう、立ち上がれな
くなってしまうだろう。
 
「早く…早く起きてよ…!そんで一発殴らせろよ隊長…!」
 
 握りしめたバダップの右手があまりに細くて。握り返す力もまったくなく
て。益々胸が苦しくなって−−ぽたり、と滴が落ちた。
 
「お願いだから…戻ってきてよ…っ!!
 
 ミストレの声は、届かない。沈黙した病室に、規則的な電子音だけが延々
と響くばかりだ。
「ミストレ…」
「円堂、守っ!」
 近寄ってきた円堂を振り返り、両手で半ば胸倉を掴むような形で縋りつい
た。そう−−自分は、縋ったのだ。ほんのついさっき殺そうとした相手に。
 
「オレもバダップも生きてるから…まだ生きてるんだから!諦めなきゃ可
能性はあるってお前は言ったな…!!
 
 綺麗事だ。理想論だ。本当にそう思う。
 だけどそれは魔術師の、力ある言葉だった。耳を貸してしまった時点で負
けたのは自分の方。揺らされて戦意を喪失した。まだ諦めたくなかった自分
に気付かされてしまった。
 
「だったら!助けろよ…こいつを帰してみせろよ!!なんとか出来るってい
うなら…なんとかしてみせろっ!!
 
 円堂の顔が泣き出しそうに歪む。ミストレは止まらない。言えば言うほど
自らの傷を抉ると分かりながらも。
 
「方法があるってんなら教えてくれよ…奇跡が起きるってなら起こしてみ
せろよ!!
 
 そんな方法ありはしない。なのに、それを認められずにいる愚かな自分。
バダップの、小さく笑った顔がちらついて離れない。忘れてしまえたらと思
うのに、忘れられない。
 
「駄目、なんだ…」
 
 ズルズルと手が滑り落ち、ミストレはしゃがみこんでいた。
 
「オレ達じゃ…オレ達の声じゃもう、届かないんだ…」
 
 バダップが集中治療室から出てきて、面会謝絶が解けて。自分達は毎日彼
に会いに来た。その手を握り、声をかけ続けた。
 でも−−駄目だったのだ。今日の今日まで、彼はなんの反応も示さないま
ま。体の傷は治っても心は深く抉られたまま。眼に何も映さず、耳に何の音
も拾わぬまま。
 
「助けて……お願い…」
 
 ああ、一番みっともないのは自分だ。まるで少女のように啜り泣く己を、
ミストレは心中で盛大に嘲る。
 どんなに勉学を学んでも武力を磨いても、結局自分は一人の子供にしかな
れない。本当に憎かったものは他の何者でもなく自分自身。自分の無力さこ
そもっとも恨めしいものに違いなかった。
 
「…神様は」
 
 やがて円堂が、静かに口を開く。
 
「神様は、乗り越えられる試練しか与えないって…前に父ちゃんが言って
た。俺も前はそう信じてた」
 
 座り込んだミストレに視線を合わせるよう、円堂も片膝をつく。
 
「だけど…さ。乗り越えようのない試練だってあるんだ。だって都合のいい
神様なんて、いないじゃん。いるんだったらあまりに…不公平だ。お前達が
何でこんな目に遭わなきゃいけなかったのかサッパリ分からないし」
 
 それは、ミストレが思ったのと同じ事。こんな不平等な神なんかいていい
筈がない。バダップばかりが何故こんな悲劇に見舞われなければなかったの
だと−−。
 だから驚いた。平和な時代に生きる筈の彼が、自分と同じ思考を辿った事
に。
 
「でも。頑張っても頑張っても乗り越えようの無かった試練を…乗り越えら
れる試練に変えるモノがあるとしたら。それは、一人で背負うか、誰かと一
緒に背負うかだと思うんだ」
 
 円堂はそのまま、ミストレに手を差し出してきた。ミストレは目を見開い
てその手を見た。
「一人で無理ならみんなで考えて、試してみようぜ。一人で十個アイディア
が出たら、二人で二十個、十人で百個だ。それを全部試して…諦めるのはそ
れからでいいだろ」
「…君は」
 一人で追い込んでいたつもりは無かった。でも、一人で円堂を殺しに行っ
た時点で−−無意識のうちに全てを背負いこんでいたのかもしれない。
 
「君は何か…手があるの…?」
 
 自分を一番追い詰めていたのは。ミストレーネ=カルス、自分自身であっ
たのかもしれない。
 
「俺は馬鹿だから…今思いつくのは一個だけだなぁ」
 
 円堂は苦笑いして言った。
 
「バダップに…俺達のサッカーを見て貰いたいんだ。俺が今一番信じてるモ
ノは、やっぱりサッカーの中にあるから」
 
『本当に強くならなきゃいけないのは、心(ココ)じゃないのか?』
 
「俺達が一番伝えたいもの、言葉以上に伝えられるものは、一つだ」
 
『大切なことは戦うことじゃない…戦う勇気を持っていることだろ?』
 
「サッカー、やろうぜ!そうしたらきっとバダップも思い出してくれる。あ
の日の試合で見つけた、大切な事をさ!!
 
『「勇気」があれば、未来だって変えられる!!仲間と一緒にもっと強くなる
ことだってできる!!
 
 今の円堂の言葉と、あの日の円堂の言葉が重なる。あの日円堂は試合を通
して自分達に伝えた。戦う事が大切なのではない。戦乱を知らぬ平和な世、
争う機会の無い時代であったとしても−−愛するモノを守る為に戦う勇気、
立ち向かう心こそ大切なのだと。
 あの時彼が自分達に伝えた真実を、もう一度バダップに伝える。そうすれ
ばきっと届く筈だと円堂は言っているのである。
 
「…本当に、君って」
 
 ミストレは思わず−−失笑していた。オペレーション・サンダーブレイク
の前。資料で確認した記述を思い出したのだ。
 
「宇宙一のサッカーバカ、だねぇ」
 
 差し出された円堂の手を握る。立ち上がる。
 
「何でもかんでもサッカーで解決出来ると思ったら、大間違いだよ?」
 
 円堂の言葉は魔術師の言葉であり。円堂のサッカーは魔法のサッカーであ
る。彼を怖れた者も崇拝した者も皆そう言う。その理由がミストレにも分か
った気がする。
 彼のサッカーには、人を闇から引き上げる何かが、ある。
 
「だけど…悪くないかも、ね」
 
 僅かな、本当に僅かな可能性かもしれないけれど。
 円堂の“魔法”なら出来るかもしれない。悲しい“呪い”に囚われてしま
ったバダップを−−そして自分達でさえも、光の側に引き戻す事が。
 
「…うまく練習場、見つけて来ねぇとな。あとバダップの外出許可貰わねぇ
と」
 
 仕方ねぇな、といった様子でエスカバが笑う。どうやら彼も賛成らしい。
 
「後はチームのみんなに声かけないとな。この時間なら多分…」
 
 エスカバの言葉が中途半端に途切れた。訝しんだミストレは振り向き−−
すぐにその理由を知り、青ざめる。
 
「…興味深い話をしているな」
 
 いつからそこにいたのだろう。バウゼンが薄笑いを浮かべて、ドアの前に
立っていた。
 
「協力してやろうじゃないか。お前達に…試合の申し込みだ」
 
 
 
 
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涙、一滴。