“破滅の未来なんかじゃない。まだまだ取り返しがつく。”
 
 
 
 
 
 
 
イブ・ハート
〜戦士よ、り高くあれ〜
三十五:スマイル・アゲイン
 
 
 
 
 
 
 
 それは深い、深い闇の深淵。まるで異空間に漂うような感覚だった。
 バダップは世界の何もかもを遮断していた訳ではない。周りの仲間達には
知る由もない事だが、バダップは自分の身に起こった事も周りの様子も全て
把握していた。別に目を開けたまま眠っていたわけではないのである。
 ただし。それを受け取る感覚は、現実のそれとは異なっていた。真っ暗な
映画館で、たった一人、スクリーンを眺めているような感覚と言えばいいの
だろうか。バダップにとって全てはおかしなほど遠い景色だった。
 こうなった理由は分かっている。自分自ら心を閉ざした為だ。軍で教育さ
れたマインドコントロールの一種。ただし、余程緊急でない限り使うのは避
けろと言われていた方法だった−−暗示が強すぎて、自力で解けなくなる恐
れがあったからだ。
 
−−だが、情けない事に…他の方法を知らなかったんだ。
 
 鉄面皮と揶揄されるバダップだったが。その実演技する事が下手では無か
った。鉄面皮のまま歩いて誤解を受けるのは単に、感情豊かに振る舞う気が
無かっただけの事である。
 少年兵。子供である自分達は、どんなに記述を磨いても大人に勝てないも
のがある。腕力と体格だ。無論必ずしもそうではないが、殊に自分やミスト
レ、エスカバなどは悲しいまでに体格に恵まれなかったタイプである。
 その代わり別の武器もある。小回りのきく小柄ゆえの身軽さと、相手を油
断させやすい事。時には無力な民間人の子供を装う事もあるし、今回のよう
にショタコン趣味の男に取り入る事もある。その為演技力を磨く事は、己を
護る盾を磨く事と同義であった。
 正直、プライドが許さない場面も多々ある。以前その容姿を武器にテロリ
ストを偵察しに言ったミストレは言っていた−−吐き気がして死にそうだ、
と。まったく同感だ。
 それでも自分達にしか出来ない事ならば、やるしかないのである。バダッ
プの行ったミッションもそう。そしてバダップは自らの身に起こるあらゆる
可能性を覚悟した上で任務に望んだ−−それ以外に、道は無かったから。
 
−−地獄を、見た。
 
 敵の半分以上を殺した後、わざと隙を作って捕まった。すぐにレッド・マ
リアのボスであるアルフレッドに引き合わされて、気に入られて−−銀髪が
好みだのカラダがいいだの気色悪い事をたくさん言われた気がする−−そ
れからが悪夢の始まりだったのだ。
 毎日、毎時間、毎秒。体の至る所にメスを入れられ、妙な薬を打たれた。
拘束、監禁、虐待、性的暴行、実験動物。人間の尊厳など欠片もない。一日
の半分は服さえ着せない。おかげで自分の身体がいかように変えられていく
か、嫌というへど見せつけられた。
 麻酔も打たれず、肌に食い込むあらゆる凶器と狂気。伸びてくる手、手、
手。人を生き物とすら認めていないような吐き気のする視線と下卑た嗤い
声。気が狂わなかったのは日頃の訓練の賜物だったが−−果たしてそれは幸
せな事であったかどうか。
 耐えて、耐えて、耐えて。男達に服従し、媚び諂うフリまでして。バダッ
プはどうにか任務達成に必要な情報を手にしていた。ありとあらゆる知識を
総動員してアルフレッドに色を仕掛ければ、男は油断しきって何でも話し
た。まったく、テロリストのボスが聞いて呆れる。
 泣き叫んだ声は半分演技で、半分本気だった。そこまでバダップの身体と
心は追い詰められつつあった。覚悟を決めて臨んだ事でも限界はあるのだ。
 それでもどうにか、後は組織の残りを皆殺しにして脱出するだけとなった
矢先に−−目を覚ましたバダップは鏡の中の自分を見て絶望した。
 傷が腐敗して、千切れてしまった右腕。そして身体の半分以上が女性のそ
れへと変えられていた。さらには胸の中心に、レッドマリアの紋章が入れ墨
されている。薄々予感していた事ではあったが−−それでも衝撃は計り知れ
ない。
 
−−もう駄目だ、と思った。
 
 もう壊れてしまう。だが、完全に壊れてしまう訳にはいかない−−自分の
帰りを待っていてくれる仲間がいるのだから。
 バダップは選んだ。自らの心をシャットアウトする事を。残ったのは本能
だけ。いつものように全裸で寝台に横たえられたバダップは次の瞬間、科学
者達を蹴り飛ばしていた。
 彼らは油断していただろう。武器を取り上げられた裸の子供に。自分達の
ボスに身も心も屈服させられた筈の元・少年に。
 まさかここにきて、雷門対策で培ったサッカーの技が役に立とうとは。バ
ダップはデススピアーで彼らを生きたまま粉微塵に破壊した。そして衣服と
愛銃を取り戻し−−資料を回収して、残ったテロリスト達を繊滅したのであ
る。端的に説明してしまえばそんな感じだ。
 バダップはボロボロの身体で帰投した。だが身体以上に心に負った傷が大
きすぎて−−自分でかけた筈のマインドコントロールを解除する事が、出来
なくなってしまったのである。
 
−−俺は…失格だな。キャプテンとしても…隊長としても。
 
 動けないベッドの上。バダップは遠い遠い場所から、仲間達の有様を見る
しかなかった。誰の悲痛な表情も胸を抉るものだったが、特にミストレの涙
にはショックを受けた。
 見た目に反して誰より気が強く、負けず嫌いな彼が−−年頃の女の子にし
か見えない様で泣くだなんて。あんな風に自分の手を握るだなんて。一体ど
うして想像できただろうか。
 
−−駄目なんだ…ミストレ。俺は、もう。
 
 自分なんかの為に涙を流さないで欲しい。だが、彼らの望む場所にはもう
帰れない。悲しいと、やるせないと自分は思っている筈なのに−−その感情
すら遠くて、身動きできないのだ。心と記憶と身体を、バラバラに引き裂か
れてしまったようで。
 それに。もう帰ってはいけないのではないかと思う。
 任務の最中はそれが生きる希望だった。彼らの元に生きて帰る。その想い
があったから自殺せずに済んだのだ。だが。
 自分はもうこんなにも壊れ、汚れ、崩れてしまった。あんなにもおぞまし
い真似をし、おぞましい真似をされた自分。もう二度光の元へ戻る資格など
無いのではないか。
 
−−すまない…みんな。
 
 最後に残った、小さな小さな意識の窓。それを閉じてしまえば自分はもう
完全に何も聞こえず、何も見えなくなるだろう。
 このまま人形のように朽ちてしまえばいい。仲間達は守れたんだ。オーガ
の皆はもう自由の身。ならば何も思い残す事は無いではないか−−。
 
 
 
「…本当に?」
 
 
 
 その時。
 バダップ一人しかいない筈の闇の中に、その声が響いた。
 
 
 
「本当に、そう思ってる?」
 
 
 
 緩慢な動作で顔を上げる。真っ暗闇の中、そこにぽつんと光があった。そ
れはやがて人の形になり、見覚えのある姿になる−−円堂カノンの姿に。
 
「…何が言いたいんだ」
 
 何故彼が自分の意識の世界にいるのか。疑問に思わなかったではないが、
それは一瞬で弾け飛んだ。
 彼が現実だろうと幻だろうと関係なく、自分は答えるべきだと分かってい
たから。
 
「嘘、吐いちゃ駄目だよ。思い残す事は本当に無いの?」
 
 カノンは悲しそうな眼でバダップを見つめた。
 
「そもそも…本当に守れたってそう、思ってる?」
 
 守れてなんかない。遠まわしにそう示唆する言葉に−−バダップは激昂す
ら出来なかった。ふざけるな、と叫んで彼に掴みかかれたらどれだけ楽だっ
ただろう。
 本当は何一つ護れちゃいない。分かっていたのだ−−自分自身が誰より
も。だが人からそれを指摘された事で、さらに胸を抉られたというだけで。
 自分が壊れた事で、皆をどれだけ傷つけてしまっただろう。そうだ、本当
はまず最初に驚くべきだったのだ。何故なら自分はずっと思っていたのだか
ら−−皆心の奥底では、自分を恨んでいるに違いないのだと。
 オーガのメンバーを選抜し、巻き込んだのはそもそも自分だ。自分が選ば
なければ彼らはおそらく、まだ前線を知らずに済んだだろう。何よりオペレ
ーション・サンダーブレイクに参加する事もなく、面倒な罰を受ける羽目に
もならなかった筈なのだ。
 そもそも自分は人に好かれるような人間じゃない。客観的に見てそう思
う。人間の魅力とは、数字で表されるものではない。どんなに成績優秀でも、
運動神経抜群でも、器量が良くても−−愛想のない人間は好かれないもの
だ。
 演技ならば出来る。しかし、それは苦痛を伴うものだった為、任務以外で
実践したいとは到底思えない。円滑な人間関係を築く為には必要と知ってい
るが、残念ながら平常時のバダップは殆ど表情の動かない人間である。自分
でもそれを自覚している事だった。
 ただでさえいつもトップに立ち、皆に嫉妬やら羨望を向けられる立場だ。
それで長年ミストレに恨みに近い感情を向けられているのも知っていた。と
てもじゃないが彼らに好かれる要素などない。
 だから。
 彼らが自分の姿を見て悲しみ、涙を流すのを見た時−−心底、驚き、気付
くべきだったのだろう。
 彼らを愛していたのは自分だけじゃない。
 自分も彼らに愛されていたのだと。
 
「分かってるんだ。…俺は…もっと早く、気付くべきだったと。自分が愛さ
れいる事に」
 
 他に方法があったかは分からない。考えても見つからなかったかもしれな
い。それでも考えるくらいは出来た筈だ−−皆と、一緒に。
 
「誰も傷つかない方法を…もっと考えていたなら。最悪の未来は回避出来た
かもしれない」
 
 だが実際はどうだ。自分はエゴイスティックな自己犠牲で皆を傷つけたば
かりか、それ以前に仲間に相談する事さえしなかった。任務の内容が極秘だ
ったから−−なんてのは建前。極秘であろうとなかろうときっと自分は秘密
を秘密のまま隠し通したに違いない。
 一人で背負えば済むと思っていた。
 とっくに−−自分の背負っていたモノが仲間達に支えられて成り立って
いる事に気付けなかった。
 その結果どうなった?
 壊されたのはバダップだけじゃない、ミストレもエスカバも、オーガの仲
間達全員の心がズタズタになってしまった。何も知らせなかったのはバダッ
プだというのに、彼らは自らを何より責めているに違いないのだ−−どうし
てこうなる前に気付けなかったのだ、と。
 
「分かってる。…だがもう、何もかも遅すぎる。今更俺は戻れない。戻る方
法など…知らない」
 
 この闇の中に、出口は無い。
 鍵はもしかしたら自分が持っていたのかもしれないが、見つからない。
 今更後悔して遅いなら、貫き通すしかないではないか。自分は正しかった。
間違っていなかった。彼らの心は守れずとも身体は守れた筈だ−−と。
 
「遅くなんか、ないよ」
 
 カノンは一歩、また一歩とバダップに近付く。
 
「眼を逸らすなよ。…最悪の未来かどうかなんて、まだ分からないだろ。だ
って…」
 
 だってまだ、みんな生きてる。
 カノンの言葉が、バダップの胸に沁みていく。
 
「ミストレ達は諦めてないんだ。曾祖父ちゃんに教わった事を、思い出した
から」
 
 手を、握られる。
 
「まだ、終わってねーぞ。な、そうだろ?」
 
 
 
NEXT
 

 

もう一度、笑顔を。