“自分の脚で歩いていく。たとえもう、この身体が動かなくなっても。”
 
 
 
 
 
 
 
イブ・ハート
〜戦士よ、り高くあれ〜
三十八:ジ・オーガ
 
 
 
 
 
 
 
 夢だろう、とミストレは思った。
 だから無意識にそれを口にしていた。
 
「オレ…夢見てるのかな」
 
 すると隣でエスカバが−−彼もまた自分と同じように呆然とした様子で
−−言った。
「真っ昼間からオネムかよ…戦場の真っ只中で二人揃って?死亡確定フラ
グじゃねぇか」
「ああ、うん。君と心中なんてシュミないし真っ平ごめんなんだけど…」
 いつもの軽口を叩こうとして、お互いに失敗している。中身はともかく口
調がおかしい。三流の舞台役者のような有り様になっている。
 
「とにかく…君も見てるなら…多分」
 
 ああ、夢じゃないのか。
 きっと夢だろう。自分達がそれを望みすぎたから、ガラにもない無茶ばか
りしたから幻を見ているのだ。そうに違いない。
 だけど。ああ、でも。だけど。
 
「これは…白昼夢じゃない、のかな」
 
 もし夢なら−−死んでしまうかもしれない。ああ神様。神様なんて信じて
やしないけど今だけは言わせてくれまいか。
 幻なら。優しいだけの夢ならどうか取り消して。そんなモノ望んじゃいな
い、此処にいる誰一人として。自分達の願いはそんな安っぽい希望で満たさ
れるほど軽くなんかないのだ。
 
「…サンダユウ。ジニスキー。ダイッコ」
 
 よろけながらも立ち上がったバダップが、言葉を発する。
 
「イッカス。ゲボー。ブボー」
 
 久しぶりに聞いたその声は少し掠れていたが、長くベッドの上にいた人間
のそれとは思えないほどよく通った。
 
「ザゴメル。ドラッヘ」
 
 そして仲間達の名前を呼ぶ。一人一人、まるで確かめるように。
 
「エスカバ」
 
 呼ばれたエスカバの細い肩が、跳ねた。
 
「ミストレ」
 
 自分って案外単純だったんだなあ、とミストレは思う。ずっと大嫌いだと
思っていた相手。しかし本当はミストレが世界で唯一心から尊敬できた相
手。自分がたった一人と認めた隊長。
 その彼と眼が合って、名前を呼ばれて。生きているのだと実感した瞬間。
 
「遅くなって、すまなかった」
 
 こんなにも。歓喜で胸を満たされるなんて。
 
「…馬鹿」
 
 遅くなってすまなかった、だって?
 まったくもってその通りだ。
 
「そんな言葉で…足りると思ってんの?」
 
 ミストレ、とエスカバに名前を呼ばれた。その意味は簡単に分かったが、
今は彼の方向を見るわけにはいかなかった。
 
「オレ達が…どんだけ振り回されたか。迷惑したか。君の身勝手でどんだけ
…苦労させられたか。全部一人で責任被ればそれで済むとでも思ってたわ
け?それで守ったつもりだったら勘違いも甚だしいよね…!」
 
 早口でまくしたてる。
 ポロポロと落ちる言葉。零れる涙と共に。
「自己満足だけの、大馬鹿野郎。それでも、オレ達の隊長なわけ?」
「…すまない、ミストレ」
「だからさあ!」
 よろよろとバダップの元まで歩き。手を振り上げた。思いっきり殴り飛ば
してやったら、どれだけスッキリできるだろう。
 
「そんな謝罪より先に!言う事あるんじゃないの!?
 
 だが−−出来なかった。拳は力無く下ろされる。怒りよりも遥かに別の感
情が勝っていた。それがミストレに別の欲求を齎していた。
 
「久しぶりに…帰って来たんでしょ。仕方ないから許してあげる。家に帰っ
てきたら最初に何を言うのか、そんなの小学生でも分かるよね?」
 
 バダップは目を見開き−−そして一つ息を吐いて、眼を閉じた。そしてと
ても穏やかな表情で−−。
 
 
 
 
「…ただいま」
 
 
 
 
 そう−−言った。
 
 
 
 
「……お帰り!」
 
 恥ずかしいとか情けないとか、我ながら驚くほどその辺りの感情が飛んで
いた。それくらい嬉しかったから−−ミストレは泣きながらバダップに抱き
ついていた。
「お帰りっ…お帰り、お帰り!ごめん…本当にごめん、ごめん、バダップ…」
「ミストレ…」
「本当は、謝んなくちゃいけないのはオレの方なんだ…っ!ごめん…ごめん
!!
 そして−−ありがとう。
 戻ってきてくれて−−生きていてくれて。
 
「…赦されない事を、した」
 
 抱きしめられたまま、ミストレを振りほどく事もなく−−バダップが言
う。
 
「醜い真似をした。された。…もう此処に戻る資格などないと…そう思って
いたんだ」
 
 何より、と彼が続ける。
 
「ずっと悪い夢を見ていた。伸びてくる悪意のこもった、手。逃げられなか
った。そこから抜け出せなかったんだ……怖くて」
 
 怖かった、と。それはミストレが初めて聞いたバダップの弱音だった。
 だがそれを情けないとは思わない。きっと他の皆も思わないだろう。寧ろ
自分は嬉しい。彼にとって自分達は、そんな弱音をも吐露出来る相手になれ
たのならば。
 
 
 
「だけど声が、聞こえたんだ。お前達の、声が」
 
 
 
『世界を変えるのは争いじゃない。人の想う心。戦う勇気が世界を動かすん
だ』
 
『絶対、諦めねぇぞ…!!
 
『みんな、待ってる。バダップが帰ってくるって信じてるから、諦めずに頑
張ってるんだ。どんなに苦しくても、痛くても』
 
『俺のサッカーは、絶対俺を裏切らない。信じた分だけ、必ず意味を残して
くれる』
 
『まだまだ…終わっちゃいないんだ!!
 
『だから…絶対勝とう。絶対何かある筈だ…攻略の糸口が!』
 
『もう決めちゃったからね。バダップを一発ブン殴るまで、諦めないんだっ
て…!だから、勝つのはオレ達だ!!
 
『サッカー、やろうぜ!そうしたらきっとバダップも思い出してくれる。あ
の日の試合で見つけた、大切な事をさ!!
 
「俺にはまだ待っていてくれる人がいる。何度でも手を差し出してくれる仲
間がいる」
 
 ああ、届いていた。
 届いていたんだ。
 
 
 
「だから…諦めはいけないと、思ったんだ」
 
 
 
 どうせ届きやしない。彼はもう帰ってきやしない。そう諦めていた自分を
思い出す。
 そして今ミストレは思う。諦めないで良かった。感情のまま円堂を殺さず
に済んで良かった。ああ本当に、無意味なんかじゃなかったのだ。
 頑張った分は。傷ついた分は−−無駄なんかじゃあ、無かった。
 
「ありがとう…ミストレ」
 
 バダップの身体が離れていく。ミストレは大慌てで顔を擦った。きっと今、
涙でぐしゃぐしゃのヒドい有り様になっている。落ち着いたら、プライドを
思い出した。こんなみっともない顔、バダップにも皆にも見せたくない。
 
「選手交代だ」
 
 まだ目眩がするのだろう。筋力や体力の低下も激しい筈だ。それでもバダ
ップはしっかりした足取りで、今まさに担架で運ばれようとしていた豪炎寺
の前に立った。
「礼を言う…この舞台を用意してくれた事」
「それは、円堂に言うべきだな。最初に提案したのはアイツだ」
 思ったほど深い傷ではないようだが、それでも全身が痛むのだろう。苦痛
に時折息を詰めながらも、豪炎寺は笑う。
「サッカーで、お前を取り戻すと。円堂は宣言して、実現してみせたんだ。
俺達はそれに便乗しただけさ」
「…そうか」
 そうだな、とミストレも内心同意する。円堂守。彼は本当に凄い魔法使い
だ。その言葉に宿した力で、本物の奇跡を起こしてみせたのだから。
 
「バダップ!」
 
 その円堂が駆け寄ってきて、笑う。満面の笑み。嬉しくて堪らない、そん
な様子を隠しもせずに。
 
「お前は絶対戻ってくるって信じてたぜ!やるよな、サッカー!」
 
 キラキラしている。そんな彼だから、自分もまた信じてみようという気に
なったのだろう。
「…サー、響木」
「サーはよしてくれ。俺はお前達の上官って訳じゃないんだ。まぁ癖みたい
なもんだろうが」
 バダップの問いかけの意図を悟り、苦笑する響木。
「無理はするな、病み上がりだろう?それが約束出来るなら…暴れて来
い!」
「イエス、サー」
「だからそれはやめてくれって言ってんじゃん」
 相変わらずお堅い様子のバダップに、土門がついツッコミを入れ、皆が笑
いに包まれた。
 試合は何も好転しちゃいない。ただバダップが帰ってきた、円堂が言葉に
した通りの未来を実現した−−それだけだ。
 それだけなのに−−何故だろう。何とかなる。きっと大丈夫。根拠もない
のにそう思えるのは。
 
−−そうか。
 
 ミストレは理解する。嬉しいとか、楽しいとか。そんな気持ちが溢れれば
溢れるほど実感させられる。
 
−−これが…幸せ、なんだ。
 
 復讐にかられていた時は気付かなかった。自分が幸せじゃない事すらも。
 
「豪炎寺修也に代わって…バダップ=スリード!」
 
 響木が高らかに交代を宣言する。
 さぁここからが始まりだ。
 
 
 
 
 
 
 
 嬉しい、なんて。彼を死地に送った自分が思うのは間違っているのだろう。
 それでもバウゼンは思うのである。バダップが目覚めて−−本当に良かっ
た、と。
 
−−これは…本当は不幸な事かもしれない。
 
 フィールドへ走っていく、隻腕の少年兵を見つめる。その背中はいつも以
上に痩せて、華奢ですらあった。バダップがどれだけ苦しんだかは本人にし
か分かるまい。それを乗り越えて戻った事が、どれほどの勇気であるのかも。
 その強さがなければ。彼がもっと弱い人間だったなら。もしかしたらその
方が幸せだったのかもしれなかった。彼が立ち上がったことは即ち、もう一
度彼を“処分”しなければならない可能性が出てきたことを示すのだから。
 
−−卑怯だと、嗤えばいい。
 
 自分は卑怯で、身勝手だ。バウゼン自身がそれを一番よく分かっていた。
 もう二度と、あんな惨い真似などしたくはない。努めて厳しく接してきた
が、それはバダップ達が優秀だったからこそ。彼らを愛しい部下だと思って
いたからこそ。
 何が何でも生きて帰ることが出来るように。時に心を鬼にしてバウゼンは
彼らをそう指導した。それだけ彼らを愛していたから。
 バダップが憎いテロリスト達に壊されて。それでも任務を達成させて帰っ
てきた時は−−本気で嬉しくて。同じくらい悲しくて。生きていてくれたと
喜ぶ反面、その心を殺してしまった己を延々と責め続けてきた。
 もう、戻ってこない。もう彼に謝る事は出来ない。諦めて絶望していたの
は、バウゼンも同じ。
 
−−だが…円堂達は。バダップの心を生き返らせてみせた…他ならぬサッカ
ーによって。
 
 サッカーを、円堂守を恨み否定する気持ちは消えない。そもそもオペレー
ション・サンダーブレイクが失敗しなければこんな事にはならなかったの
だ。
 それでも。バダップの心を救ってくれた−−その一点だけは、感謝しても
いい。自分の力ではけして出来なかった事だ。もう一度立って歩く、バダッ
プの姿を見る事は。
「部下が帰って来た事が嬉しいか、バウゼン大佐」
「…分かりますか」
「長い付き合いだからな」
 ヒビキの声は、相変わらず淡々として感情が読み取れない。だがバウゼン
は隠す事をやめていた。本来許されない事だとしても−−この気持ちだけ
は、偽りたくなかったから。
 
「大丈夫ですよ、ヒビキ提督。一番大事な事は…間違えませんから」
 
 ヒビキは答えなかった。ただ黙って、バウゼンを見ただけだった。
 
 
 
NEXT
 

 

鬼の子、されども。