“僕等は自分を愛し、他人を愛し、
そして誰かに愛される為に此処にいる。”
 
 
 
 
 
 
 
イブ・ハート
〜戦士よ、り高くあれ〜
五十三:ファイナル・アンサー
 
 
 
 
 
 
 
 カノンとキラードが走り去っていく。秋はそれをほんの少し、ほんの少し
の時間だけ見送った。
 これが今生の別れになる。それはもはや直勘ですらない、確定的事実。も
し彼らがこの苦境を乗り切れたとしても−−自分と彼らとでは、生きる時代
が違うのだ。そして自分達は過去へ戻れば、もうこちらへやって来る手段は
無い。彼らの安否を、こちらから知る術も無いのだ。
 
−−…本当は、ミストレ君達を置いて此処に来た事そのものが、間違いなの
かもしれない。
 
 仲間を見捨てて逃げた臆病者。自分達をそう罵る者もいるだろう。だが、
仮にそう言う者が目の前に現れたとしても、自分達はそれを悔いたり後悔し
てはならないのだ。
 何故ならば過去とは、もはや過ぎ去った“絶対的に変えようのない”もの
だからだ。時間旅行の出来る時代になり、時間が渡れるものだと知った多く
の者達は忘れてしまったのだろう。過去とは、“変えてはならないもの”で
あるという事を。
 
−−そう…変えちゃいけないんだ。私達を護ってくれたミストレ君達の想い
も…立ち向かう勇気を持った彼らの心も。
 
「…行こう」
 
 ボロボロの身体で、しかし気丈に立つ豪炎寺が言う。
 
「このまま此処で立ち止まっていれば、いずれ追いつかれるかもしれない。
過去に戻るまで、安全な場所など何処にも無いんだ」
 
 何処にも、無い。ああ確かに、と秋は思う。
 今やこの場所は戦場と化した。サッカーのように、ある程度のルールさえ
守られはしない。秩序もなく奇麗事は通用しない、正義が正義を否定する、
そんな場所だ。
 
「何より…あいつらを信じて、俺達が無事に逃げ延びる事。それこそがカノ
ンやミストレへの報恩だ」
 
 そして誰より先に歩き出す。それにやがて円堂が続き、鬼道が続き、皆が
重い足を動かし始めた。
 誰もが理解しているからだ。自分達は生かされ、守られたからこそ。立ち
止まる事は赦されないのだという事を。
 
−−いつか今日の日を後悔するとしても。
 
 ダクトに一人ずつ潜り、ゆるゆると這腹前進で進んでいく。
 
−−それは今じゃない。今であっては、ならない。
 
「…ねぇ、秋先輩」
 
 不意に後ろから声がした。春奈だ。この体勢では振り向けない。なぁに、
と声だけで返事をする秋。
「…オーガと最初に戦った日から。ずっと考えてた事があるんです。私だっ
たらどうするだろうって」
「?」
 何の話か分からず、首を傾げる。春奈には見えないと分かっていたけれど。
 
「…もし…世界が滅んじゃうとか。大切な人が死んじゃうとか。そんな凄く
悲しい何かが起きたとして」
 
 一文字一文字。重ねるように、考えこみながら春奈は言う。
 
「もし過去を変えられる手段を目の前に提示されたら。先輩は…どうします
か」
 
 思わず−−言葉に詰まる。もしかしたらそれは、秋が薄々気付きながらも
逃げていた最大の議題であったかもしれない。
 自分達の時代に、タイムワープなんて技術は無い。だからどんなに足掻い
ても過去は変えられないし、変えたいと願ったところで無理だと誰もが心の
どこかで諦めている。
 だがこの時代ではそうではなくて。だからこの一連の事件は、起きたのだ。
 
「例えば…そう、例えばですよ?私にとって大切な人…お兄ちゃんとかが、
事故で死んじゃったとして。その理由が“私が買い物を頼んでその場所に行
ったから”だったとして」
 
 考えるだけで辛いのだろう。それでもハッキリとした口調で声を紡ぐ春奈
を、大したものだと思う。
 
「もし私が買い物を頼まなかったら、お兄ちゃんがその事故に遭う事は無か
った訳で。もし過去に戻れるならきっと私は過去の私に言いたくなると思う
んです…“お願い、その場所にお兄ちゃんを行かせないで”って」
 
 でもそれってつまり、過去を改竄しようとしたヒビキ提督と同じ事をして
る訳ですよね、と。春奈はどこか苦しげに笑う。
 
「歴史を、ねじ曲げちゃいけない。分かってるんです、そんな事。それでも
私は……。ねぇ、秋先輩だったらどうします?」
 
 真摯な声。自分達にとって逃れられない、最大の課題であると分かってい
た。この答が出せなければ、自分達は自分達の正しさを失う。ただ自分達の
勝利と夢の為にサッカーをして、戦った偽善者へと成り下がるだろう。
 秋は沈黙する。ずりずりと狭い配管の中を這う音だけが、暫し空間を支配
した。
 
「時が戻れば…か。私も、思った事…あったなぁ。それくらい後悔したから
…一之瀬君が、車にはねられた時は」
 
 空気が変わる。少し後ろにいる一之瀬と土門が反応したのが分かった。彼
らにとっても自分達にとっても思い出したくない事。永遠のトラウマ。
 しかしそんな傷を持つ自分達だからこそ、春奈の問いに答えられる気がす
る。
 
「あの日。一緒にサッカーしようって誘ったのは私だった。…確かに晴れた
日だったけど、三人でサッカー以外の遊びをする事もあったし、偶には誰か
の家に行っても良かった。だけどサッカーが大好きな私はやっぱりサッカー
を選んで、いつもの場所を選んで…結果あの事故が起きたの」
 
 何十回。何百回。何千回。何万回。数え切れないほど後悔した事だ。
 どうしてあの日二人を誘ったのだろう。サッカーをしたのだろう。あの場
所を選んでしまったのだろう。そのどれかが違えばあの事故は起きなかっ
た。一之瀬は死なずに済んだ筈なのに、と。
 
「あの頃はずっと思って、自分を責めてた。一之瀬君を…殺してしまったの
は私だって」
 
 一之瀬と土門と春奈が、それぞれ違う意味で息を呑んだのが分かった。
 
「結果的に一之瀬君は生きてて、それを知った後は…過去をねじ曲げてでも
変えたいとは思わない。でもあの頃の私だったら…きっと過去を変える事
を、選んでしまっていたと思う」
 
 過去に戻る事で、大切な親友を救えるのなら。
 何よりこの途方もない絶望から解放されるのなら。
 自分はきっと願ってしまうだろう。それがどれだけ良くない事と分かって
いても。
「…でもね、音無さん。私、過去を変えたいと願う事自体は、罪だとは思っ
てないの」
「え?」
「だってそれは、人として当たり前の感情じゃない。それに、そうまでして
…誰かを救いたいとか、護りたいって思う気持ちがあるって事は大切でし
ょ?」
 ある程度進むと、急に広い通路に出た。もう這う必要はない。そればかり
か全員で立つ事ができるほどだだ。
 服についた埃を払いながら、秋は言う。
 
「ただね。過去を変えるとしたら…その先にあった幸せとか出逢いを犠牲に
する覚悟が必要だと思う。さらにその上で、その覚悟を他人に押し付けちゃ
いけない…」
 
 ヒビキもまた過去を変えたいと願っていた。それ自体に咎はない。良い事
ではないとしても、第三者にそれそのものを咎められるいわれはないだろ
う。
 
「ヒビキ提督が間違っていたのは。…自分自身の“現在”の為に、過去の私
達に犠牲を強いた事だよ。誰かの大切なものを理不尽に踏みにじる事が明白
なのに、自分達の幸福の為の対価を過去の私達に払わせようとした。…それ
はやっぱり、おかしいよね」
 
 上手く−−ああ、自分にも上手くは説明出来ないけれど。
 彼は変えたい未来の為に、犠牲を払わずに済む手段を模索しなかった。し
かもそれを自分自身の痛みではなく、赤の他人、しかも過去に強いようとし
たのである。
 彼も彼なりに悩み、苦しんだのかもしれない。その上で苦渋の選択をした
と言うのかもしれない。けれどそれは、訳も分からず事情も知らされず、た
だ犠牲だけを払わされる身からすればたまったもんではないのだ。
 何より。彼の根本には責任転嫁があった。自分自身は手を汚さずオーガや
イービル・ダイスを使い。しかも荒れた未来の原因を全て過去に押し付けた。
 変えようのないほど破滅的な未来ならばともかく。この時代にはまだまだ
変える余地があり、希望と呼べる光があったというのに。
 
「…時間を超える機械なんて…発明されるべきじゃ無かったのかもしれな
い」
 
 やや苦い表情で半田が言う。
「過去を変えたいと願う事は罪でなくとも。時の流れなんて…人が干渉して
いいものじゃなかったんだよ、きっと。その技術そのものが人の罪なのかも
しれない」
「…そうかもしれないわね」
 その言葉に、夏未が頷く。
 
「時間は巻き戻らない。やり直せる事とやり直せない事があって…きっとそ
れに意味があるのよ。過去は消しゴムじゃ消せない、だから私達は精一杯生
きていけるんだわ。後悔しないように、道を外れないように」
 
 ひたひたと通路を歩いていく。それぞれの言葉が染みていく。きっと皆が
今、考えさせられているのだろう。自分なりの言葉で考えさせられているの
だろう。
 
「さっきの答えはね、音無さん」
 
 自分も結論を出そう。
 秋は口を開く。
 
「きっと私は…過去を変えたいと願うけど。それでも、誰かを犠牲にする変
え方だけは選ばないようにしたい。過去が抵抗してきたら、逃げないで私自
身が全力で向き合う。だけど……今の私達に時間を超える手段は無いわ。そ
れは、寧ろ幸せな事だと思う」
 
 選ぶ余地が無い事は必ずしも不幸ではない。見えなくていいものが見える
のが幸せな事ではないのだから。
 
「…秋先輩は、凄いですね」
 
 春奈はやがて、どこか吹っ切れたように笑う。そしてこっそり、秋の耳元
で囁いた。
「やっぱり私、キャプテンには秋先輩みたいな人が相応しいと思いますけ
ど?」
!?
「告白、まだですかー?」
 突然いきなり何を言い出すのだ。耳まで真っ赤になって固まった秋から離
れ、春奈がけらけらと笑う。
 
「ちょ、ちょっと音無さん!」
 
 完全に遊ばれている。恥ずかしさでわたわたする秋と笑う春奈を見て、鬼
道が首を傾げていた。そして言う。
 
「何を話したか知らないが…春奈が楽しそうで何よりだ」
 
 ええいこの天然シスコンめ!
 妹の質の悪さを暴露したろかと秋はつい腹黒く思う。
 
「そろそろ出口か」
 
 通路の突き当たりで、響木が上を見上げる。そこには鉄製の梯子が固定さ
れており、上まで登れるようになっていた。そして天井には丸い切れ込みが
あり、そこから丸く光が漏れている。
 もしやマンホールか何かなのだろうか。
「…俺、登れるか不安っす」
「万が一梯子が壊れたら大変だ。壁山は最後だな」
「そ、染岡さぁん…!」
 壁山が涙目で言う。ついつい何人かが吹き出す、あちこちから笑い声が上
がった。
「大丈夫だろ………多分」
「全然大丈夫に聞こえないぞ円堂…」
 ひきつり笑いの円堂に、これも幼なじみの役目と風丸が突っ込む。
 大丈夫だ、と秋は思った。
 大丈夫。自分達はまだ、自分達を保てている。たくさん悲しい事はあった
けれど、それでも。
 
「行こう」
 
 少林寺から一人ずつ梯子を登り始める。一年生を優先にと真っ先に提示し
た円堂はさすがキャプテンと言うべきか。
 登った先には光がある。未来へ続く光。自分達はまだそれが掴める。
 生きて、此処にいる限りは。
 
 
 
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最期の、回答。