ずっと考えていた。
 自分達ははただ、サッカーがやりたいだけなのに。それ以上に望む事などあ
りはしないのに。何で、こんな戦いをしなくてはならないのだろうかと。
 
 
 
 
 
彼と
彼女の
善悪論。
 
 
 
 
 
 フィールドの隅で立ち尽くしたまま、天馬はただひたすら、オメガを名乗る
彼等のことを考え続けていた。あれだけ凄いプレーが出来るのだ。彼等だって
本気でサッカーが嫌いな筈はない。本気で嫌いなら、あんなプレーが出来る訳
がない。
 ならば何故。彼らは平然と、サッカーを凶器に変えてしまえるのだろう?
「天馬!…天馬ってば!」
「あ…」
 どうやら思いの外長い時間、思索に耽っていたらしい。顔を上げた先で、葵
が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
 
「どうしたの天馬。緊張してる?もうすぐ試合再開だけど…」
 
 緊張。そう見えたのか。確かにそれも間違ってはいない。
 
「ご、ごめん、何でもない。ちょっと考え事してただけだから」
 
 素直に謝罪を口にする。自分が考え事なんて珍しい、とでも思われたのか。
葵が訝しげな顔で何かを口にしようとした、その時だ。
 
「何でこんな戦いをしてるんだろう?自分はサッカーがやりたいだけなのに」
 
 彼女がぎょっとしたように振り返る。天馬も唖然とした。気配など微塵も感
じなかったのに。
 
「そんなところじゃありません?松風天馬さん」
 
 愛らしい笑みを浮かべ、プロトコルオメガの新キャプテンが、葵のすぐ後ろ
に佇んでいた。彼女が怯えたように自分の隣まであとずさる。天馬は反射的に、
葵を守るように一歩前に進み出ていた。
 ベータ。二番目の数字を冠する名を持つ少女は、強大な力を誇るサッカー選
手とは思えないほど華奢で、可愛らしい容姿をしていた。美人というより、男
なら思わず庇護欲にかられてしまいそうな愛らしさだ。少し釣り目の大きな目
も、そのふわふわとした容姿を損なうものではない。そう、姿形だけなら彼女
はほんの少し見目良いだけの、普通の娘だった。
 だが、天馬は本能的に感じていた。警戒を怠るべき相手ではない、と。細く
見えるその体は鍛え上げられており、纏う雰囲気には一切の隙もない。スポー
ツ選手というより、まるで歴戦の兵士だ。命懸けの戦場を生き抜いてきたかの
ような威圧感。こちらが少しでも油断すれば、その隙に食いついてきて、骨ま
でしゃぶられてしまいそうな――得体の知れないプレッシャーを、彼女は放っ
ていた。
 
「貴方の考えてる事なんてお見通しです。ふふっ…丁度いいや。貴方とも一度
お話してみたかったんですよねぇ」
 
 そんな天馬の警戒を知ってか知らずか、彼女はニコニコと歩み寄ってくる。
「私達は貴方を過大評価も過小評価もいたしません。今の雷門があるのは貴方
の働きであるところが大きい。貴方が雷門中に来なければ、革命が起こる事も
なかったわけですから」
「…俺の力じゃないよ。サッカーを愛するみんなの気持ちがあったから、今の
雷門があるんだ」
 それは天馬の、心の底からの本心だった。確かに切欠を作ったのは自分だっ
たかもしれない。だがその先へ歩む決断をしたのは、雷門イレブン一人一人の
意思だ。
 
「…俺も君に訊きたい事がある。俺はまだ君自身とサッカーはしてないけど…
プロトコルオメガのサッカーが凄いってことだけは知ってる。バージョンアッ
プっていうんだから、君はアルファより強いって、そう主張するんだろう。…
それだけの力がある君達が、サッカーを心から嫌ってる筈ない。なのに…なの
に何で!みんなからサッカーを奪おうとするんだ!」
 
 するとベータはさも意外とばかりに目をまんまるに見開いて、
 
「あら、知らなかったんですか天馬さん?てっきりフェイさんあたりから、今
の未来の情勢を聴いちゃってると思ってたんですけど?」
 
 ぬけぬけと言い放ってきた。その、わざと人を苛つかせるような口調は素な
のかワザとなのか。どうにも後者である気がしてならない。
 この相手のペースに乗せられたら負けだ。天馬は気持ちをなんとか吐き出そ
うと口を開く。
「ああ知ってるさ。大きな戦争が起きてて…エルドラドと敵対してる組織が…
サッカー少年達の遺伝子から生まれた…えっと」
「セカンドステージチルドレン。…彼等は世界を滅ぼす存在です」
 天馬の中途半端な知識を見かねてか、あるいはどもり具合に呆れてか。被せ
るようにベータは告げてきた。
「彼等が生まれない未来を作る為には、サッカーというスポーツそのものを消
し去ってしまうのが効果的。私達は世界を守ろうとしているにすぎません」
「だからってこんなやり方…!」
「そして天馬さん。貴方のやっていることは、世界を滅ぼす手助けをしている
事にほかならないのですよ」
 とっさに、言葉が出なかった。
 世界を滅ぼす存在。正直セカンドステージチルドレンについても、他の事に
関しても、知識以上に実感が無いのが現実だ。そんな子供達が本当に存在する
のか?しかもサッカー少年達の進化の先に彼等がいるなんて俄に信じがたいこ
と。大まかに理解していても、納得するかはまた別の問題である。
 だがそれ以上に。天馬自身が世界を滅ぼす手伝いをしている――なんて。ま
さかそう思われているだなんて。想像さえしていなかったのだ。まだ心のどこ
かで未来の出来事を他人事のように受け取っていたのかもしれない。天馬にと
って最優先事項は未来の戦争ではなく、今サッカーが出来るかどうかであった
のだから。
 
「そんな言い方!天馬はただサッカーを護りたいだけじゃない!なのに滅ぼす
だなんてっ」
 
 見かねた葵が口を出した途端、ギッと音がしそうなほど強くベータは葵を睨
んだ。貴方は黙っていて下さい葵さん、と。たったその一言で、葵は黙らざる
をえなくなる。
 おおっぴらに脅迫するような言葉ではない。しかしただベータが少し眼で威
圧しただけで、同じだけの効果があったのだ。
 彼女は自分達とは別の世界で、次元で生きている。その瞳の強さが、彼女の
経験と自分達とは違う倫理観の全てを、語っているかのようだった。
 
「今私は天馬さんと話をしています。天馬さん、…私の言っている事が間違っ
てるなら、どうぞ指摘しちゃって下さいな。でもね、私達はけして、貴方がた
を認めるわけにはいかないの。貴方達はただ自分の感情だけで、今この戦いに
参加している。でも私達は違う。サッカーが好きだとか嫌いだとか、そんな次
元でここにいるわけじゃない」
 
 天馬ははっとした。アルファも同じような事を言っていた、それを思い出し
たのだ。
 自分達は好きや嫌いでサッカーを考えたことはない、ただ滅ぼすべきものと
認識している、と。やっと気付く。自分とアルファやベータとでは根本的に―
―論点がズレていたことを。
 好きや嫌いはただ感情だ。でも彼等の“滅ぼすべきもの”というのは彼等に
課せられた義務であり――同時に、使命としての意味を持つのだと。
 
「私達は世界を救う為に必要だから此処にいる。貴方と私は、最初から同じ土
俵になんて立ってないんですよ」
 
 何故そんなことも分からないの。彼女の眼にはそんな蔑みが、嘲りがあった。
「…一応最低限の知識はあったみたいですけど、貴方は未来の世界がどんな状
態か、その目で見たわけじゃない。私達は見た。全部全部、この目で見たの。
その上で決断して此処に立ってる。…サッカーを消したくない一心で、貴方は
真実を何も見ようとはしていない!貴方はサッカーが存続すれば、世界がどう
なってもいいと思ってるんですか?」
「思ってない!思ってるわけない!きっと方法はある筈だ、世界もサッカーも
両方救う方法が!」
「じゃあ今その方法を言ってみて下さい!具体的な解決策も出せないのに、反
対意見だけ叫ぶなんてムシがよすぎるんだよ!!」
 まるでナイフで切り裂くように、ベータは叫んだ。挑発するように、煽るよ
うに語っていた彼女が見せた、本心の欠片。激情の断片。怒りに思わず、荒々
しい人格を露出させた彼女の瞳に――天馬は、真実を見た。
 気圧される。言葉に詰まる。自分の言っている事が間違っているというなら
指摘しろとベータは言った。だが、天馬にはそれが出来ない。分かっているか
らだ。彼女は誤った事は何一つ言っていない、と。
 自分は確かに、未来の現状を何一つこの眼で見てはいない。ただフェイの口
からその断片的な事実を聴いただけ。しかもそのフェイは、サッカーを護りた
い側の人間。少なからず、彼の語った事実は主観的なものであった筈だ。誰で
あろうと仕方ないことだが、誰だって自分のすべき目的に不利となる事実は語
りたくない。フェイがまだ何かを隠しているのは天馬だって気づいてる。無論、
彼自身、語った以上の事は何も知らない可能性だってある。
 いずれにせよ。聴いた事実の一面だけでものを判断し、その未来の事実を棚
上げしてあまつさえ“サッカーが消えたら嫌だ”という自分本位の考えだけで
この戦いに参加している自分達は――彼女からすれば、不愉快極まりない存在
なのかもしれなかった。
 
「…確かにお前の言う通りだよ、ベータ。今の俺にその方法は見つからないし
…未来のことなんて、まだ全然分かってないよ。だけど…だけどさ」
 
 だけど。どんなに身勝手だとしても――理不尽だと思うのが当たり前ではな
いか。
 
「サッカーも…サッカーを愛する人達も…何も悪い事してないのに。なんで消
されなくちゃいけないんだ。そんなの…」
 
 サッカーに、何の罪があったというのだ。
「そんなの、サッカーが泣いてるよ!君にはその声が聴こえないの?!」
「泣かせておけばいいじゃないですか。それで世界が救われるなら些細な犠牲
です。誰かが死ぬわけでもない」
 ベータはにべもなく言い放った。冷たく、それがどうしたと言わんばかりに。
 
 
 
「…甘えないで下さい。私達の時代では、こうしている間にもたくさんの人達
が戦争で死んでいってる」
 
 
 
 毎日。毎時間。毎分。毎秒。当たり前のごとく訪れる、死。
 戦争なんて遠い出来事でしかない世代の天馬にとって、その単語は生々しい
どころか現実感の欠片さえない。
 ただ今の自分には、目の前にいるベータの刺さるような声と――震える肩だ
けが、全てだった。リアルな映像も資料もない。だけどそんなものより遥かに、
その時の彼女の様は、表情はすべてを物語っていて。
 
 
 
「…そんな未来の人達がいつか…自分が幸せだってことも気付かないくらい幸
せに生きていけるなら…少し前の貴方のように、平凡な生活の中で笑って過ご
せるなら!」
 
 
 
 自分はきっと、忘れる事など出来ないのだろう。その瞬間の。
 
 
 
「…分かるでしょう?それ以上の平和なんて…ないんですよ」
 
 
 
 彼女の泣き出しそうに揺れた、瞳と。消え入りそうな、声を。
 
 
 
「ベータ…お前…」
 
 自分は本当に何も知らないのではないか。知らなかったのではないか。
 天馬にとって、彼等は自分達からサッカーを奪う理不尽な敵で。サッカーの
素晴らしさを理解させたい対話相手で。しかし、そのベクトルはあまりに一方
的なものだったのではないか。
 今まで自分はアルファを、ベータを、プロトコルオメガの面々を、エルドラ
ドの意思を。少しでも理解しようとした瞬間が、あっただろうか?
 少なくとも今の天馬には彼女が、本気で未来を憂いて、サッカーを犠牲にし
てでも世界を救いたいと願う――一人の少女にしか、見えなかった。これが演
技ならノーベル賞ものだ。
 
「…時間、無駄にしちゃったみたいですねぇ」
 
 驚愕の後に続く、底の無い罪悪感を天馬が自覚する前に。
 ベータは最初の飄々とした顔に戻っていた。さっきまでの悲壮感は微塵も感
じられない。まるで掃除機で跡形もなく吸い取ってしまったように――曇りの
ない、笑顔だ。
 それが逆に、天馬の胸を刺した。
 
「貴方とこれ以上話す事なんて何もありません。ここから先は、貴方の大好き
なサッカーとやらで語りましょう。楽しみにしてますよ。強大な力を前に、貴
方達がいつまで抵抗できるのか…くすくす」
 
 彼女はそれ以上を自分達に言わせなかった。くるりと背を向けて、フィール
ドへと歩き去っていってしまう。けして早足ではないのに、呼び止める事をそ
の背中は完全に拒否している。
 天馬はただ呆然とその姿を見送っていた。もしかしたらこれこそが、彼女達
の策略の内だったのかもしれない。今、自分はベータの話で確かに揺らがされ
た。自分達が本当に正しいのか、これでいいのか、現在進行系で迷わされてい
る。ベータの話に耳を貸してしまった時点で負けだったのか。耳をふさいで否
と言えば良かったのか。
 いずれにせよ確かなのは、知る前の自分にはけして戻れないという事だった。
 
「天馬…大丈夫?」
 
 葵が不安げな声を出す。何に対しての“大丈夫”なのだろう、と思った。足
元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚え、そんな自分が惨めになった。
 うん、と。辛うじて頷く。頭では分かっている。フィールドの外のことを中
に持ち込んではいけない。何をどう思おうと、立って前に進むしか道は無い。
 ベータの話が正しく、同時に間違ってもいる以上は。
 
「……なあ葵。俺のやってること、間違ってるのかな」
 
 それでも問いかけてしまうのは、自分の弱さだろうか。
 
「サッカーがやりたいって、そう思うのが罪なのかな…」
 
 ただサッカーがやりたかった。思いっきりフィールドを駆け回りたかった。
この場所にいる誰もが、それだけしか望まなかった筈だ。栄冠も栄光も、勝利
さえ本当は二の次なのである。
 だが自分達がたったそれだけの事を望むだけで。未来の世界で何万も何十万
も――星の数ほどの人の運命を狂わせるのだと言う。ならば自分達はその願い
を封じて生きていけばそれでいいのではないか?
 ベータの言う通り。サッカーがなくなるからと言って死人が出るわけじゃな
い。ただサッカーと、サッカーを愛する人達がほんの少し――不幸になるだけ
だ。
 なのに。そのほんの少しを我慢出来ない自分は――強欲で身勝手でしか、な
いのだろうか。
 
「…罪なんかじゃないよ」
 
 しかしそんな天馬の気持ちを晴らすように、葵は言った。
 
「…私も、今のベータの話…途中からなんにも反論できなかった。難しいこと
は正直まだ分かってないし…自分達が正しいって断言はできないけど…。でも、
今の現実じゃなく、歴史を捻じ曲げて解決しようって…本当にそれだけしか方
法はなかったのかなって思う。何より…」
 
 彼女は澄んだ瞳に涙を浮かべて、天馬を見る。
 その瞳に映る天馬の姿が、滲んで溶けて、流れていく。
「私、信じてる。世界もサッカーも救う方法、きっとある筈だよ」
「葵…」
 泣いていたのは無自覚だったのだろう。慌てて涙を拭う葵。天馬がハンカチ
を差し出すと、彼女ははにかんで“ありがとう”と言った。
 涙になるほどに、彼女はサッカーを――サッカーを愛する者達を、想ってく
れている。その事実が、すうっと胸に落ちて、温もりに変わってゆく。
 そうだ。未来の現状は何も分からない。でも少なくとも、まだ生きて抗う余
地があるからこそエルドラドは存在しフェイもまたそこにいる筈だ。本来時間
の流れは不可避かつ侵してはならぬ領域。今の自分達の世界ではなく、過去に
贖罪を求める手段――果たして本当に彼等にはそれ以外の方法が、無かったの
だろうか。
 ベータ達の想いにきっと嘘は無いのだろう。彼女達の願いは誰にも否定でき
はしないだろう。しかし、その願いを叶える方法は、きっと一つでは無い筈だ。
ベータの言うように、その方法を思いつかないまま“それは嫌だ!”と叫ぶだ
けなら身勝手な野次馬に等しい。でも、その具体案さえ出せれば。
 近づく筈だ。誰も不幸にならない、そんな未来の創造へと。
 
「…天馬の言う通り、サッカーに罪はないもの」
 
 そうだ。何が間違っていても、それだけは間違っていない。
 葵の言葉に、頷く天馬。
「未来が間違った道を歩んでしまったとしたらそれは…サッカーを誤った方向
に進化させてしまった人間のせい。その道筋を間違えなければ、サッカーがあ
っても未来が誤った方向に進むことは無い筈だよ」
「葵…」
 そうだ。過ちを犯すとしたらそれはサッカーではない。
 答えは単純ではないか。天馬は立ち上がった。自分達が見つけるべきもの。
その答えの片鱗が見えた気がしたのだ。
 
「…うん、そうだよね。ありがとう」
 
 未来人達が鳴らした警鐘を。自分達が無駄にしなければいい。きっとそれだ
けで、世界は変えられる。
 
「もう少しで俺、大事なことを見失うところだった。サッカーは人を傷つける
道具じゃない。みんなを幸せにする魔法なんだ。今俺達がすべきことは、それ
をみんなの前で証明してみせること。真正面から逃げないでプロトコルオメガ
にぶつかることだ!」
 
 そうとも。そこからもう一度考えればいい。どうすればサッカーと未来の両
方を救えるのかを。どこで未来人達が道を誤り、自分達がどうすべきかを知り、
学べばいい。
 それ以上のことは動いてから考えたって遅くはない。まずはベータ達に知っ
て貰えばいい筈だ。サッカーは、みんなを笑顔にできるモノ。不幸を招くもの
ではないと。
「その意気だよ、天馬!さあ、試合、始まるよ!!」
「ああ!」
 踏み出す足は、希望を知る。
 
「行くぞベータ、勝負だ!!」
 
 さあ立ち向かえ。
 全てはここから、始まるのだ。
 
 
 
FIN.
 

 

「正義も悪も呑み込んで」