――さよなら、愛しいひと。
 
 
 
 
 
 
ベロニカ
う。
 
 
 
 
 
 そのウイルスは、エボラウイルスとインフルエンザウイルス、天然痘ウイ
ルスなどを掛け合わせて開発された。自分は科学者でないから詳しい事は分
からないが、開発が成功するまではかなり紆余曲折あったらしい。失敗は赦
されない。感染爆発(アウトブレイク)など起こせば自分達が最初の犠牲者
になってしまう事間違いないのだ。反対を押し切って研究を勧め、開発に成
功したのが自分の父であった。
 その最強の武器の名は、“ベータドロン”。父の母国では破滅の女神の名
だという。正義は必ず勝つ、が父の口癖だった。神は必ず我々に味方する、
と。世界を変える事こそ我々に与えられたる使命である。父も自分も仲間達
も、皆がそう信じていた。
 計画実行まであと三日。青年は最後の準備に取りかかっていた。“ベータ
ドロン”に感染すればほぼ100%助からない。抗ウイルス剤がなければ感染
して三十分以内に発病し、約二時間苦しみ抜いて死んでいく。全身の穴とい
う穴から血を吹き出し、肌を腐らせながらのた打つ姿は壮絶だ。この国の、
腐った政府の連中に相応しい死に様だろう。
 
「…まだ起きてたの?」
 
 不意に後ろからかけられる甘い声。パソコンとにらめっこしていた青年は
椅子ごと振り返る。立っていたのは、思った通りの人物だ。
 
「ミスティ。すまないね、眩しかったかい?」
 
 名前を呼ぶと、白いネグリジェの少女は花のように微笑む。ミスティ。ま
るでこの世のものとは思えぬ、美しい娘だった。濃い緑の髪を肩まで垂らし、
同じ色の瞳は驚くほど睫が長い。肌は真っ白で大理石のよう。小柄であるゆ
え見目は幼いが、放つ色香は大人の女性にひけをとらない。
 彼女はこの組織に、1カ月ほど前に入ってきた。雨の晩、必死の様子で門
を叩いてきた彼女。全身が傷だらけで、息も絶え絶えの様子だった。何者か
に暴行されたのだろう。フェミニストの多い組織は、心良く彼女を迎え入れ
た。
 ミスティは自分達と同じように、この国と政府を憎んでいた。彼女を陵辱
したのも政府の連中だったという。復讐してやりたい、と彼女は言った。疑
う者もあたが、リーダーはあっさりと彼女を仲間にすると決めた。ミスティ
の色香にあてられたのかもしれない。
 1カ月経ち。その判断は正しかったと証明された。ミスティは優秀だった。
元は南の国で通信士をしていたというだけあり、無線の扱いに長けていた。
また医療の知識もあり、今や後方支援に欠かせない存在となっている。その
麗しい容姿と思いやり深い性格もあって、今では組織の人気の的だ。女のメ
ンバーもいたが、ミスティは誰より美しかった。
 
「平気よ。ただ気になって…見に来ちゃった。あなた、最近ずっと夜遅くま
で起きてるじゃない。働きすぎだわ」
 
 ミスティは不安そうにこちらを見る。青年は嬉しかった。一目惚れから始
まった恋。努力のかいあって1カ月でぐんぐん距離は縮まり、告白したのが
四日前。彼女は恥ずかしそうに笑って、頷いてくれた。思い出すだけで天に
も登る心地である。
 彼女に心配して貰える。キスをして貰える。そうして愛される。そのなん
と素晴らしい事か。この大仕事が終わったらすると決めている事があった。
告白はしたがプロポーズは別である。指輪はひそかに買ってあった。
 
「ありがとう。…僕は大丈夫。長年の夢が叶う日がもうすぐ来るんだ、寝て
などいられないよ」
 
 ミスティの体を引き寄せ、キスをする。柔らかな緑の髪は絹のように指を
すり抜けた。彼女ははにかみ、やがて真面目な顔で画面を見る。
「“ベータドロン”のデータね。…私達にとっては頼もしい味方だけど…万
が一を思うと、怖いわ。ワクチンを接種しても、確実に発症しないとは限ら
ないんでしょ?」
「まあね。でも0.01%にも満たない確率だ。まず当たらないさ、それに」
 計画は必ず成功する。青年には確信があった。何故ならば。
「勝利の女神は、必ず正義を行う者に微笑むんだ。神の意志を代行する僕達
は正義だ。ならば負ける筈などないじゃないか」
「そうね。でも神は気紛れよ。時に残酷な運命を課す事もある…抗ウイルス
剤、絶対に忘れちゃ駄目よ?あなたにもしもの事があったら、私…」
「ミスティ…」
 潤んだ瞳で見上げてくるミスティ。扇情的で魅惑的。つい、ごくりと喉が
鳴る。彼女の胸は小さかったが、ほっそりとしたうなじも脚も、充分に女性
としての魅力を放っていた。
 その真っ白な肌にむしゃぶりついてしまいたい。肌に噛みついて、自分の
モノだという跡を残したい。むくり、と凶暴な感情が頭をもたげ−−つい、
ベッドに彼女を押し倒していた。
 乱暴に、思うがままに−−抱いてしまいたい。本当は、今すぐに。
 
「駄目よ」
 
 ミスティは困ったように眉を寄せた。
 
「…結婚するまでは、だめ。…もう穢れてしまった身体だけど…愛する人と
なら、尚更。だって…」
 
 彼女は真っ赤になって、自らの腹を撫でた。子宮の真上。まるで既にそこ
に宿した命があるかのように。
「…赤ちゃんが、できたら困るでしょ。忙しい今、みんなの足手まといにな
るなんて耐えられないわ」
「ミスティ…」
 どこまでも自分と仲間達を想ってくれる。そんな彼女が愛しくて愛しく
て、また髪にキスをした。
「…ああ、分かってる。君が美しすぎるのがいけないんだ。つい食べてしま
いたくなる」
「もうっ…」
 くすくすと花のように笑う彼女を抱きしめ、青年はパソコンの前に戻っ
た。ベータドロンの開発や研究は自分の仕事ではないが、国会にこれを撒き
散らすのは自分、計画を練ったのも自分だ。その感染力や空気中に広がるス
ピードを計算して動かなければならない。己は無論、仲間を危険に晒す訳に
はいかないからだ。
「ミスティ…今はキスまでで我慢するけどね。代わりに…約束して欲しいん
だ」
「なぁに?」
 指輪の箱は、引き出しの中に入っていた。藍色の箱には、有名ブランドの
名前が印字されている。彼女の為にとなけなしの金を叩いて買ったものだ。
青年は箱を取り出し、ぱかりと開いてみせる。
 
「受け取って…くれないか」
 
 現れたのはダイヤモンドの乗った銀の指輪。そう大きな石ではないが、細
工が細かく近くで見れば手の込んだものと分かるだろう。控えめで優しい、
ミスティにぴったりだと思って選んだ品だ。
 
「私で…いいの?私なんかより、綺麗で聡明な女はたくさんいるのに…」
 
 意味はすぐ理解出来たろう。謙遜する彼女はいじらしく、実に可愛い。
 
「何言ってるの。…君より綺麗な女なんかいない…優しい娘だっていない。
たった1カ月の付き合いかもしれないけど、もう僕には君以外のパートナー
なんて考えられないよ」
 
 結婚してくれ。君は十六歳だから、法律上は可能な筈だろ?
 そう言うと彼女は目を見開いて−−やがてその大きな瞳から、ポロポロと
涙を流し始めた。青年は慌てふためく。まさか泣かれるなんて思わなかった。
 
「っ…ごめんなさい。もう、言葉が出なくて…。ありがとう、嬉しい…」
 
 そっとその肩を抱き寄せる。ミスティの涙は宝石のようだった。出来るこ
とならその涙を集めて、首飾りにしてみたい。きっと彼女の肌に映える筈だ。
 
「幸せになろう。平和になった世界で、きっと」
 
 青年は幸せだった。そう、その晩までは。
 
 
 
 
 
 
 
 次の晩。目が覚めた時、世界は一変していた。緊急事態のベルもアラーム
も鳴らない。それほどまで速やかに、殺戮は行われたのだ。
 いつも通りの時間に起きた青年が見たのは、血の海と化した屋敷だった。
組織の本部だったその場所には、もはや屍しか転がっていない。まるで屋敷
が仲間達を食らってしまったかのよう。臓物が、骨が、肉が、血が。廊下に、
リビングに、玄関に、風呂にと散らばり飾り立てている。
 
「な、何で…!?
 
 どうして。セキュリティは完璧だった筈だ。外部から侵入者があれが、オ
ートで撃ち殺すシステムが備わっているし、少なくとも誰も気付かないなん
て有り得ない。では一体誰がこのようなことを。
 
「ミスティ!ミスティー!!
 
 まだ敵がいるかもしれない。そうは思ったが、叫ばずにはいられなかった。
世界で一番愛しい人。彼女は無事なのか。もし彼女を失ったら、自分は−−。
 
 
 
「あーあ。間に合わなかった」
 
 
 
 居間に入った瞬間。後ろから声をかけられる。いつもより低かったが、そ
の声には聞き覚えがあった。だって。
 
 
 
「君が起きる前に、全て終わらせてあげるつもりだったんだけど。失敗したなぁ」
 
 
 
 昨晩愛を語り合った−−愛しい少女の、もの。
 
 
 
「ミス、ティ…?」
 
 彼女は昨日までと同じ、真っ白なドレスを着ていた。似合うと思って、自
分がプレゼントしたものだ。そのドレスが−−誰のかも分からない血で真っ
赤に染まっている。
「やっぱりドレスってのは嫌だね。動きにくいったらないよ。王牙の制服の
がずっとマシ」
「王牙…だって…!?
 王牙−−王牙学園。憎き政府の軍人を育てる士官学校。中にはまだ学生な
がら前線に出て活躍する少年少女もいるのだという。
 
「冥土の土産に教えてあげる。“初めまして”、俺の名前はミストレーネ=
カルス。チーム・オーガの副隊長だよ」
 
 青年は声も出ない。ミストレーネ=カルス−−その名前は聞いたことがあ
った。“閃光の拳士(ライトニング・ファイター)”と呼ばれ、拳と仕込み
武器だけで千の敵をなぎ倒すとさえ言われている美しい少年兵。そしてオー
ガという名の最強最悪の部隊の名も。隊長のバダップ=スリードの名は自分
達のような反政府組織にとっては悪魔のそれに等しい。
 
「ミスティ、そんな…嘘、だろ?まさか君が…」
 
 ミスティが男だったこと以上に、とにかく彼女が敵であったことが信じが
たかった。ミスティ−−否、ミストレーネは微笑む。青年が大好きだった、
あの花の咲くような笑みで。
 
「ミスティなんて女はいないよ。俺が作り上げた幻。あんたが愛を誓ったの
は、ただの偶像」
 
 そして彼女−−否、彼は。自らの左手の薬指から指輪を抜き、暖炉の中に
放り投げた。高価な指輪はあっという間に焦げた鉄屑になってしまうだろ
う。青年は膝をついた。誰か夢だと言ってくれ。目が覚めたら仲間達がいて
ミスティが寄り添ってくれて、そんな優しい毎日が待っている筈だと。
 
「俺は言った筈だね。神は気紛れ、時に残酷な運命を課すこともあると」
 
 ひらひらと彼女が手に持っているのは、抗ウイルス剤とデータの入ったチ
ップ。自分達のウイルステロを阻止するべく送り込まれたのが彼女であるな
ら、一体いつから計画は漏れていたんだろう?
 
「そもそも君達は正義なんかじゃない。君達に平和な世界なんて作れやしな
い」
 
 彼女の手が振り下ろされる瞬間まで、青年は夢の中にいた。自分は本気で
ミスティを愛していた。でも彼女は一度でも自分に好きだと言ってくれた事
があっただろうか。
 
 
 
「バイバイ。君の事、嫌いじゃなかったよ」
 
 
 
 ミスティ。青年は最後までその名を呼んでいた。悪い夢が、醒めると信じて。
 
 
 
FIN.
 

 

悪夢、終焉。

 

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 ウイルステロネタで一つ書いておきたかったのです。あとミストレ女装(笑)

 女装ネタをオーガで書くなら、ギャグではなくシリアスでと決めていました。

 序盤意味不明ですよねこれ…ちなみに元ネタはデスノ映画とブラッディマンデイから来てます。バレバレ。

 もしかしたらちょっと長めの中編でウイルステロ話を書く可能性があるので、その試し書きもかねてます。

 あとはウザくないオリキャラを練習したかった件。この話は主人公の名前を出さない事で対応しましたが…微妙だ;;

 もう少し軍関係を勉強したいものです。知識不足がいい加減致命的すぎる。