永久に喪われたエデンがあったのです。 彼は今でもその楽園を求めているのです。 彼らはその喪失を知らない筈は無いのです。 それでも現を語れる者を、一体誰が責められるでしょう。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 0-4:紅い傷口、瓜二つ。
白恋中へ向かうまでのバス。大雪原にて、ちょっとしたトラブルがあった。思 い返して、塔子は今更ながらに胸をなで下ろす。 “ちょっとした”で済むのは結果論だ。一歩間違えば大惨事になっていただろ うから。 北ヶ峰を通過中に、木の下で震えていた子供を一人拾った。外ハネの銀髪に、 整ってはいるがどこか幼な顔な少年。彼は何故だか小さな荷物とサッカーボール だけ持って遭難していた模様である。 ほっとく訳にもいかず、彼をキャラバンに乗せた、そこまではいい。しかしそ の直後に雪にタイヤをとられてバスが停止。そして−−見慣れない物体に興味を 示したのか、山親父と呼ばれる熊がバスを襲ったのである。 あのままバスを横転させられていたら、全員怪我では済まなかった筈だ。ここ は、メンバーで唯一まともな戦闘経験のある(というかSPフィクサーズの本領は 本来サッカーではなく、要人護衛だ)自分がなんとかするしかないか、と塔子が 腰を上げかけた時。 先程助けた少年が、見事に熊を倒してみせたのである。多分、他の面子には分 からなかっただろう。しかし戦い慣れた塔子の目には確かに見えていた−−少年 がその俊足で熊の背後に回り込み、サッカーボールを熊の頭にぶつけて昏倒させ たのを。 並の技術と度胸では、ない。あれだけのシュートが打てるのだ、少年のポジシ ョンは恐らくフォワード。 そしてこの北海道で、それだけの実力を持ったストライカーといえば−−。
−−あいつが吹雪士郎、か?
その予想は、あっさり的中した。白恋中で紹介された吹雪士郎とは、まさしく 彼の事だったのだから。 人間見かけによらないとはこの事である。虫も殺さないような、ぽややーんと した顔で、あれだけのシュートをぶちかますのだから。熊殺しの吹雪、はあなが ちガセでもなかったらしい。 とりあえず彼の実力を見たいと瞳子が言うので、着いて早々、体を暖める暇な くチームはグラウンドに放り出される事になった。豪炎寺の件を引きずる染岡は ますます不機嫌だし、目金や壁山は寒い寒いとごねていたが完全に無視である。 後者はともかく前者を放置するのはあまりよろしくない気がするのだが−−そ の辺り監督はどう考えているのやら。 「吹雪ってちょっと緊張感足りなそうだけど…悪い奴じゃないみたいだな。うん 、仲良くなれそう」 「お前が仲良くなれなかった奴なんて、見たことないぞ」 素直に感想を述べると、笑いを含んだ声で鬼道に返された。
「誰とでも仲良くなれる。それがお前と円堂共通の長所だな」
そうなんだろうか。確かに、自分はとりあえずぶつかって喧嘩してみて(この 場合の“喧嘩”がサッカーである率は非常に高いが)、仲良くなろうとするタイ プである。そして言われてみれば先入観から“こいつは絶対受け入れられない” という人間には未だかつて出逢った事がない。 外見だとか人間性だとか人格だとか−−そんな問題以外で、わだかまりのある 相手は除いて、だが。
「おーす!遅れて悪ィ、今着いたぜー」
一同がグラウンドに続く階段を降りていると、下から登って来る人物と鉢合わ せた。仕事だなんだで一時別行動をとっていた聖也である。宣言通り、一日で仕 事を片付けて戻って来たらしい。 「一体どうやって来たんだよ?飛行機?」 「会社のヘリ。パシリに使った」 「はあ!?」 見れば確かに、ブルブルと遠ざかるプロペラの音がする。何より向こうの方に 小さくなっていくヘリコプターの影。 何処の世界に、ヘリをパシって移動する会社員がいるというのだ。いや、目の 前にいるから問題なのだが! 「実は仕事終わんなかったんだけどな。残りの書類は、部下にまるっと押し付け てきた!やー楽した楽した♪」 「最低だアンタ…」 彼と同じく、社会人と学生を両立している立場である塔子は心の底から呆れ果 てる。そんないい加減っぷりで何で彼は会社をクビにならないのだろう。余程特 殊な仕事内容なんだろうか。
「俺の事ぁ今はどうでもいいだろ。それより……久々に懐かしい奴に逢えるって んでこっちもワクワクしてんだ。おーい、吹雪ー!」
階下から手を振る聖也。塔子が目を丸くしていると、後ろからトテトテと階段 を降りて来ていた吹雪が驚きの声を上げる。
「聖也さん!?…お久しぶりです!」
知り合いなんだろうか。それも相当親しそうに見える。ぼんやり顔の吹雪が、 目を輝かせて柵から身を乗り出しているのだから。 「そんな前に出ると階段から落ちるぞー。それに敬語はやめろっつったろ」 「う、すみません…」 「ま、いいけどねん」 階段を降りてきた吹雪の頭を、わしゃわしゃと撫でる聖也。その仕草だけで、 なんとなくこの二人の関係が見えた気がした。さしずめ、面倒みのいい兄貴と可 愛い弟分ってところか。身長差があるせいで余計そう見える。
「その…この間はありがとう聖也さん。仕送りだけでも有り難いのに、忙しい中 来てくれて」
タメ口に慣れていないのだろう。愛らしい顔をやや恥ずかしそうに染める吹雪 。こうして見ると彼は小学生でも通りそうだ。顔もそうだが仕草が初々しくて、 なんだか新鮮なものとして目に映る。 そして一つ、ピンと来た事があった。聖也がお金を仕送りして世話しているら しい、という人物。ひょっとしたら彼が。
「なるほど。聖也が保護者をしていたのが吹雪だったわけか。世間は狭いという かなんというか」
塔子とまったく同じ考えを鬼道が代弁する。
「可愛いだろー俺のふぶちゃん。お嫁にやらんぞ、パパ寂しいもん!」
吹雪を背中から抱きしめて、大袈裟に泣く仕草をする聖也。 「駄目だよさとやん!吹雪君は白恋中みんなでお嫁に貰ったんだからね!!」 「右に同じ!紺子ちゃんいい事言う!」 「僕、いつの間に聖也さんの物になったんだろ…。ってか嫁?王子とか旦那じゃ なくて嫁なの僕?」 ぎゃいぎゃいと騒ぐ聖也と白恋イレブン。当の吹雪は苦笑してされるがままで ある。 なんか新たなコント集団がいるでやんす、と栗松が呟くのが聞こえた。その彼 とこっそり漫才コンビを組んでいる壁山は、そうかこれがお笑いのプロっすか! と見当違いに感動している。 「前に仕事で、ふぶちゃんに関わる事がありまして。で、色々あって一人暮らし のふぶちゃんの金銭的援助を俺がする事になったわけです。以上」 「まったく説明になってないぞ、それは」 「細かい事気にするでないよ鬼道ー。何、お前もウチに嫁に来る?養子でもオッ ケィよ?パパ大歓迎」 「心の底から遠慮する」 聖也のところで世話になるなど御免被る。世話されるどころか、間違いなく自 分が彼の世話を焼かされる羽目になるのは目に見えている。 そんな風に皆が騒ぐ中、一人外れた場所でこちらを睨んでいる人物。染岡だ。 吹雪が既にチームと親しくなりつつあるのが気に入らないらしい。不機嫌オーラ は今やドス黒いまでになりつつある。 ありゃ本当にどうしたものか。隣で鬼道が頭を押さえるのが見えた。チームで 問題が起きると、巡り巡って苦労するのは多分鬼道なのだ。根が真面目すぎて、 他人ごとでも放置できない質。よく電話で愚痴の相手になっていた塔子は知って いた。 これからは自分も彼と一緒に行動できるのだ。メンタル面でも鬼道の負担を減 らせるように頑張らなくては、と胸の内で誓う。 その時だ。
ドサッ。 ドサドサドサッ!
雪が激しく滑り落ちる音。僅かに地面が揺れる。 誰かが、雪崩か!?と叫んだせいで全員が身構える事となった。雪国ならではの 災害。特に山間の白恋中の近く、北ヶ峰の付近は雪崩が多い事で有名なのだ。 しかしすぐ杞憂だと知る。視線を少し上にズラして音の発生源を辿れば、校舎 の屋根の雪が不自然になくなっている箇所があった。地面には小さく積み上がっ た雪山が。
「な、なんだ…ビックリしたなもう」
安堵に胸をなで下ろす塔子。だが再び目線を吹雪に戻した時、その姿にぎょっ とする事になる。 吹雪がうずくまって震えていた。ガタガタ、という効果音が聞こえそうなほど 。両手で体を抱きしめて、明らかに何かに怯えている。その姿を心配そうに見つ める白恋メンバー。彼の背を、聖也が子供をあやすように撫でていた。
「大丈夫だよ、吹雪。大丈夫。屋根の雪が落ちただけだから、ね」
その言葉に顔を上げる吹雪。明らかに怯えと不安の入り混じった瞳が聖也を見 ていた。 ああ、同じ眼だ。 蘇った記憶に、塔子は握りしめた拳が震えるのを感じた。息を呑んで立ち尽く している鬼道の顔を、見る事ができない。 同じ、眼。 自分は同じ眼を、昔見た事がある。 「屋根の雪…が?それだけ?」 「うん、それだけ。安心しな、吹雪」 聖也は優しい声で、吹雪に囁く。
「心配しないで。誰も死んでなんかないよ」
他の者達には聞こえなかったかもしれない。だが近くにいた塔子と、多分鬼道 にはその言葉も聞こえていた。 誰も死んでなんかいない?どういう意味なのか。 それに吹雪のあの症状は。
−−PTSD…?
正式名称は、心的外傷後ストレス障害。かいつまんだ説明の仕方をすれば、過 去にとても辛い出来事があり、そのトラウマから発作的に恐慌状態に陥ったり精 神不安定になったりする−−というもの。 特に、その“辛い出来事”を連想する事象が起きると、発作を起こしやすい。 例えばバス事故に遭った人間は、また事故が起きたらという恐怖からバスに乗れ なくなったりする。無理に乗ろうとすればパニックを起こしたりする−−そんな 具合にだ。 今の吹雪の症状が確実にそうだとは言い切れない。だが。
−−前に。二回目に鬼道に会った時と…同じ。
あの頃。妹と引き離され、鬼道家に引き取られたばかりで、名家の重圧とプレ ッシャーから常に高ストレス状態にあっただろう鬼道。そこに加えて−−あの影 山からサッカー教育を受けるようになったのもあれくらいの時期だった筈。 不意の接触。特に大人との接触を酷く怖怯えた鬼道。時には大人に背後に立た れるだけでパニックを起こしていた。あの時の鬼道は、今の吹雪と同じ眼をして いたのを覚えている。 彼が日常的に影山の虐待を受けていた事を知ったのもまた、その時の事で。
−−影山から離れた今、鬼道を傷つける奴はいない。だけどまだ、傷が癒えたわ けじゃない。
心の傷は、簡単には消せない。 いや、どんなに時間が経とうとも、完全に消す事などできはしないのだ。
−−それでも、あたしは救いたい。鬼道は勿論…吹雪の事も。
「随分小心者ね。この程度で驚くなんて」
何も知らない、夏未の台詞に。瞬時に湧き上がりかけた怒りを、塔子は無理矢 理沈めた。吹雪がごまかすように笑う声。それが酷く、辛かった。 知らない事は罪じゃない。でも。 知らないから、では赦されない事もある。
−−せめていつか。思い出して後悔してくれ。…その言葉が、罪だった事を。
まだ何も知らぬ自分に、言えた言葉ではないけれど。
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あの子の顔に、遠き日のあの人を見た。