ワインを一杯、ご賞味下さい。 あの子の血と肉を絞ったそれはどんな味? 苦い苦痛の味こそが、甘美なあたしの夢になる。 その首に噛み付いて、骨の髄までしゃぶってあげる。 この背中に、白い翼は 無いとしても。0-11:魔女が愛した、夜会の始まり 資産家・吉良星二郎の警護頭、二ノ宮蘭子は、施設の中を歩いていた。 その場所は、星の使徒研究所という。吉良が長年をかけて金と人材を費やしてきたプロジェクト。その実験と研究が行われてきた場所であった。 富士の樹海の奥深くにあるこの地に、部外者が辿りつく事などまずありえない。そして仮に“脱走者”が出たとしても−−生きて森を抜ける事など不可能。此 処は研究所の名を借りた牢獄だ。だがその牢獄を、二ノ宮はこよくなく愛していた。−−素敵な場所よね。…もう少し血の匂いが強ければ、もっと良かったのに。 魔女のようだ、と。二ノ宮を喩えた研崎の言葉が実は大当たりである事を知るのは、今はまだ二ノ宮一人だけである。 二ノ宮蘭子、という名が偽名である事も。ある地では“災禍の魔女”と呼ばれた正真正銘の魔女である事も。 まだ誰も、知らない話だ。だから二ノ宮はこうして堂々と表を歩いているのである。無知な人間達を内心で嘲笑いながら。−−計画がここまで辿りつくのに五年。…いや、あたしの中では十年かしら。退 屈するほど長かったわ…。 十年などという時間は、魔女たる自分にとっては微々たるものだ。それでもこの十年は長く感じた。それだけ、計画の完遂を楽しみにしてきたのである。 この為に、吉良に力を貸す裏で幾つもの伏線を張った。面倒な工作もした。たかが遊び−−だが、遊びにも手は抜かない。じゃなければリスクを犯してまでこの地に留まり続けた意味がなくなってしまう。367実験室、と書かれた部屋の前でカードキーを通す。甲高い電子音と共に開か れる自動ドア。かつん、と蘭子のハイヒールが、無機質な部屋に不似合いな音を立てた。振り返る白衣の研究者達。「調子はどう?この子、また倒れたんですってね?」 電子機器に囲まれた部屋。その中央には、手術台のような台座があり、一人の少年が寝かされていた。 逆立った紅い髪。ややキツめだが充分に美少年の域に入るだろう。だが元々白い肌は不調からさらにまっ青になっており、瞼は堅く閉じられたままピクリとも動かない。まるで死んでいるかのようだ。 しかし少年の腕と胸から伸びるコードが、規則正しい電子音を伝える。彼の心臓が動いている証拠を。「申し訳ありません、二ノ宮様」 研究者の一人が、やや堅い声色で謝罪の意を示す。「彼はパラメータは常にトップを叩き出す反面、体調にはムラがあります。元々の持病のせいが大きいかと。発作を起こしたため心臓内のペースメーカーを調整し直しました。今は体調も安定してきておりますのでじきに意識も戻るかと」「そう。良かった」そう簡単に壊れてしまっては困る。確かに自分の力なら何度でも“作り直し” は可能だが−−同じ性能を保てるとは限らないのだ。何よりただ人の彼らの前で力を披露するのはまだ早い。「この子は、あたし達の最高傑作だもの。スペックも、忠誠心も、容姿も…ね。 せっかくの晴れ舞台を前に、使い物にならなくなったら可哀想よ?しっかり管理して頂戴ね」「はい」 彼と同等の性能を持つ被験体がいないわけではない。だが、あとの二人は我が強すぎる。吉良への忠誠心は確かにあるが、それに勝るほどプライドが高い。加えて、二ノ宮をあからさまに嫌っている。扱いにくい事この上無かった。「もう一つ確認。…ジェミニストームが敗れたそうだけど。ちゃんと始末はつけ たんでしょうね?」 イプシロンのリーダー、デザームに命じて処分はさせている。しかし、レーゼ達が最終的にどうなるのかはデザームにも知らせていない。そこから先は自分達大人の仕事だからだ。「それは問題ありません。脳波チェックは済んでいます。また、全員体内に一通りの機材は埋め込んでありますから」 いつでもモニターできますよ、なんなら今ご覧になりますか、と研究員。「今はいいわ。それが聞きたかっただけだから。…じゃあ、私も仕事に戻るから 。引き続きよろしくね。何かあったら報告して」「はい」 部屋を出ようとして、一度だけ振り返る。手術台の上では相変わらず少年が眠っていた。段々頬にも赤みが差してきている。直に目覚めるだろう。 持病さえなければ、これ以上の素材は無かったというのに。誠惜しい話だ。玉に瑕とはこの事か。「また来るわね…グラン」 そう名前呼んで、二ノ宮は部屋を後にした。彼が目覚めたら、また来ようか。 ああ、次の仕事が楽しみでならない。 お仕置きだ、とかの人は言った。 言われた事もできない、悪い子には必要な事なんだよ、と。 鬼道はそれを信じた。否、信じる他に何が出来たというのだろう。義父とは相変わらず壁があったし、使用人達はよそよそしいか畏怖の感情を向けてくるかのどちらかで−−自分にとってかの人の存在はあまりにも大きなものだった。 神など信じた事もない。だが、かの人の存在はまるで絶対神のごとく自分の世界に存在していた。 畏怖と、尊敬の対象だった人。 ガラス張りの冷たい世界で、彼だけが生身で自分に触れてきた。大人の温もり。大人の優しさ。大人の力。全て、与えてくれたのは義父ではなく彼で。義父より、多分自分は彼を“父”として見ていたのだろう。忙しい義父より彼 といる時間の方が遥かに長く、彼は義父の数十倍もの事を自分に教えてくれたのだから。 そう。イイ事も、ワルイ事も。『鬼道。…そう…お前は鬼道有人だ。鬼道家の跡を継ぐ者。だから…』 だからそんな彼が−−影山が自分を裁く立場になるのも、ある種必然ではあったのだろう。『完璧以外は赦されない。…分かっているだろう?』 ただその手段が、傍目から見ても歪んでいただけで。『ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!いい子になるから っ…いい子になるから!!』 暗い部屋。黒い影。迫る大きな手。明滅する景色。 大きな音がするだけで怯える自分。恫喝する声にうずくまる自分。痛みと恐怖と吐き気に泣き叫び、暴れる事が出来たのも最初だけ。 抑えつけられれば子供の力などではどうしようもない。逃げられない。失血で朦朧とする意識の中、鬼道は幼くしてそれを悟った。これが絶望というものなのだと。 抵抗すればする程苦痛の時間が長引くのなら、やめよう。 大人しくしていればすぐ終わる。此処にいるのは自分じゃない、全く関係ない別の子供だと思い込めば楽になれる。そうだ、自分は被害者なんかじゃない、傍観者なのだ−−鬼道はいつしか自らにそう暗示をかけるようになった。 でなければ八年もの間、耐えきる事は出来なかっただろう。−−あの人の力で、俺はマリオネットと化した。なのに。 否定する事はできない。どれほどの暴力に晒されようとも、自分はあの人を憎みきる事ができなかった。今の自分がいるのは影山のおかげである事も間違いなく−−そして。 何よりも、彼を父として愛する気持ちが消える事は無かった。自分にとって二人目の父は義父ではなく、影山だったのだ。 だからこそ怒った。自分にサッカーの全てを教えてくれた筈の彼が、そのサッカーを汚すような真似をした事が。 好敵手と認めた雷門を−−円堂達を危険に晒した彼が。鉄骨を落とす?バスに細工させる?妨害工作では済まない。れっきとした殺人未遂ではないか。−−俺はあいつを赦しちゃいけない。それは分かっているのに。 鎖で縛りつけているのは。果たしてどちらの意志なのか。「−−ッ!」 声にならない叫びを上げて、鬼道は飛び起きた。毛布をずり落としたせいで、頬に感じるひんやりとした外気。目の前には−−驚いたような風丸の顔。 此処はキャラバンの中だ。さっきまで自分は夢を見ていたらしい。それを認識して、鬼道は安堵の溜め息をついた。「だ、大丈夫か?魘されてたけど…」 心配して見に来てくれたのか。さすが“雷門の母”と影でアダ名される風丸で ある。大丈夫だ、と鬼道は一言言って体を起こした。 そう、大丈夫なのだ。あれは夢。たとえ過去現実に起きた事だとしても−−今の話では、ない。「…嫌な夢を見ただけだ。ただの夢だ、気にするな」 「悪夢…か」 すると風丸は何かを思い出す仕草をした。「…俺もさ。この間すごい夢見ちゃって、円堂に叩き起こされたんだ。ほんとに 参るよ」 相当嫌な内容だったのだろう。はははっ、と笑う顔に力が無い。「ありきたりだけど。散々追いかけ回された挙げ句殺される夢とかもう…勘弁し て欲しいよ。しかもナイフでメッタ刺しだぜ?」「それは」 想像し、鬼道は眉をひそめる。なんともまあ、リアルで残酷な。「また災難だな」「だろ。…あーアレが原因かな。変質者」 「?」 風丸いわく。彼が小さい頃、近所で子供ばかりに悪戯する変質者が出没したそうだ。それも狙われたのが男の子ばかり。ちょっと大きな怪我をした子もいて、子を持つ親達は大層心配したらしい。 しかも怪我をしたのが、当時の風丸と円堂のクラスメートだった。遊びに行く時はいつも二人以上で行動して、絶対一人にならない事。暗くなる前に帰る事。親達には口を酸っぱくして言われたそうな。「親としちゃ当たり前の心配だろ。だけど…あー俺って昔から意地っぱりなとこ あったからさ。煩く言われると逆らいたくたくなるというか」 分かる気がする。鬼道は小さな風丸を想像してつい笑ってしまった。 この風丸一郎太という少年、見た目は女の子みたいなのに、中身はこれでもかというくらい男前である。ついでに頑固。それは昔から変わってないのだろう。「ある日円堂と喧嘩しちゃって。夕方、バラバラで帰ろうとしたんだよな。そしたら…お約束の展開が起きて」 出たんだよヘンタイ、と肩を落とす風丸。「露出狂じゃなかったけど、住宅街の路地にポツンと立っててさ。俺を見たら笑って刃物出してきて…もー全速力で逃げたよ」 「よく無事だったな」「ほんとほんと。かなり懲りたぜ。その直後にそいつは逮捕されたみたいだけど」 それ以来、稀に何者かに追いかけられたり、殺される夢を見るのだという。夢は過去の体験や願望を如実に映し出すという。幼少時の怖い体験なら尚更だろう。「…夢の中に影山が出て来たんた」 呟くように語る鬼道。風丸だけに話させたのでは、フェアじゃないような気がして。「情けない事に。…怯えていた。いや…現実でも俺は奴を畏れている」 流石に詳しい内容までは話せなかったが、風丸は突っ込んでは聞いてこなかった。ただ、そっか、と相槌を打っただけで。「…俺は何も知らないけどさ。鬼道は悪くないよ。…みんなだってそう言うさ」 気遣いが胸に染み入る。 その優しさに甘えきるわけにはいかないとしても。本心を吐露できる仲間が側にいる。それは幸せな事。「ありがとう」 帝国の仲間達は今どうしてるだろう。彼らの顔が浮かんで、消えていった。NEXT |
繋がれた悲しい糸は切れないまま。