背中にあった翼は、君と共に喪った。 夢を見る言ノ葉は、貴方と共に消え去った。 目蓋を閉じて、全てから逃げるように蹲ったのに。 目蓋を開き伸ばした手の先、君の笑顔が、待っていた。この背中に、白い翼は 無いとしても。0-13:菖蒲が謡う、花言葉。 瞳子は憂鬱だった。漫遊寺の噂は聞いてある。奈良シカ公園の時のように門前払いをくらったら面倒だ。 漫遊寺中、という学校は、サッカー以外の意味でも有名だった。仏教の精神に基づいて、心身ともに鍛える事を常とし、格闘技にも精通している。 京都の一部地区では、警察よりもアテにされているとの事だった。漫遊寺中の子達がいるから、私達の出番は全然無いんですよ、と初老の巡査は笑った。 元々この近辺は治安のいい街なのだろう。稀に出る窃盗犯や変質者は、警察より先に漫遊寺の生徒が捕まえてしまうのだという。共学校だが女生徒も十分頼りになるのだとか。変質者を捕まえたというのが、狙われた女生徒だったというのだから凄い。「ただ最近は、西の裏路地を見慣れない男が彷徨いているという噂がありまして」 漫遊寺について話を聞かせてくれた警官は、ついでにそんな忠告をした。「今のところ、何か悪さをしたという話は聞かないのですが。何せ目撃情報がみんな夜なせいで、本当に男なのかも分からんのですよ。えらくすばしっこい奴だとしか」「そうですか」 すばしっこい奴。という表現をするからには、不審者は大柄ではなさそうだが。もしかしたら、という考えが頭の隅を掠めて消える。今の“彼”ならばやりか ねない。それでも信じたくはなかった。 それにもしそうだとしても、自分にできる事なんて何もない。「漫遊寺中も手こずる不審者なんてめったにないもんですから、皆不安がってるのですよ。まあ大した事ないでしょうが念の為気をつけて下さいね。宇宙人なんてヤボなもんも出て来る世の中ですから」 自分達を噂の雷門イレブンと知ってか知らずか。目皺を寄せて笑い、中年の巡査はそう話を締めくくった。 次の問題は漫遊寺中の場所だ。キャラバンでは行けない山の中にあると聞いて、メンバーの何人かがめんどくさそうな声を上げた。せめて街を観光してから行きたい、などと壁山や聖也のあたりがごねたので呆れかえる。遊びに来たわけではないというのに。 だが本当に面倒な事になるのは、漫遊寺中に着いてからだったのだ。「ぎゃあっ!」 塀をぐるりと回って漫遊寺の正門を捜していると、あらぬ方向から栗松の悲鳴が聞こえた。そう、なんと上から。見上げれば、松の木の枝から栗松の体が逆さ吊りになっているではないか。 その足首にはロープが。円堂が目をまん丸くして叫ぶ。「そんなとこで何やってるんだよ栗松ー?置いてくぞー!!」 …なんだろう。明らかに質問がおかしい気がしたのは自分だけではあるまい。 そこはまず“どうしたんだ”と尋ねるのが普通ではあるまいか。 「これが遊んでるように見えるでやんすかぁぁ!?自分にもよく分からないでやん す!突然吊り下げられて…とにかく助けてでやんすー!」 頭に血が上るーと喚く栗松。しかしロープを外そうにも、枝の位置が高すぎる。「あーもう、しょうがない奴だなぁ…」 ため息一つ。裁縫用のハサミを貸してくれるよう、秋に頼む塔子。そのまま何をする気かと思えば−−なんと彼女はハサミを投げナイフに模して投擲した。 ハサミはロープを見事に切断し、松の木に刺さる。そして。「ぐえっ!」 栗松が落下。落ちた彼に皆が駆け寄り、足首に絡まったままの千切れたロープを解いた。「あ、ありがとうでやんす。でも塔子先輩…乱暴でやんす」 「助けてやっただけ有り難いと思えよな」 フン、と鼻を鳴らす塔子。可愛い女の子の顔をしていても、元は総理大臣直属のSP。さすがの技術といったところか。 まあそれはいい。 瞳子は千切れたロープがぶら下がっている松の木を見上げる。「何かしらこれは。随分質の悪い悪戯ね」 明らかに、何者かが仕掛けたトラップだった。チャチで子供じみてはいるが、一歩間違えば怪我をする。 悪戯にしてはやや悪質だ。 さらに面倒はこれで止まらなかった。今度は別の所から上がる悲鳴。「ちょ…目金離せって…わああっ!」 「ぎゃああっ!」 ドスン、という音が二回した。瞳子が辛うじて見えたのは、地面の下に消える風丸の長い水色の髪。今度は一体何なのだ。ため息を一つついて、子供達と共にその場所へ歩いていく。 なんとまあ、典型的な落とし穴だこと。 穴は大して深くない。が、穴の底で目金がのびている。隣では頭を押さえて呻いている風丸。どうやら穴に落ちそうになった目金がとっさに風丸の服を掴んだせいで、二人一緒に落下した次第のようだ。「いってぇ…何なんだよもう」 「大丈夫か風丸」 砂を払う風丸に、手を差し出す鬼道。「大丈夫。タンコブできたけど。…おい目金、起きろよ。人を道連れにしやがっ て」 彼の手に捕まって立ち上がりながら、目金に声をかける風丸。が、目金はすっかり昏倒して目を回している。しばらく起きそうにない。「漫遊寺中ってなんだ、学長がトラップ趣味かなんかか?迷惑極まりないぞ」 一ノ瀬が憤慨して言う。すると木の陰から、子供の笑う声が聞こえた。「うっしっし!引っかかってやんの!!ばっかじゃね?」 そこに立っていたのは小さな少年。栗松と同じくらいの身長しかない為、一見小学生にも見えるが−−漫遊寺の生徒である事はその茶色い和風な制服が証明している。 彼は−−そうだ、街で話してくれた警官が言っていた。漫遊寺の生徒は皆優秀だけど、一人だけ。一年のサッカー部員にとんでもない問題児がいるのだと。 悪戯やトラップが大好きで、先輩だろうと教師だろうと他校生だろうとおかまいなしに邪魔をしては迷惑をかけるそうな。確か名前は−−。「あなた…サッカー部の木暮夕弥君?」 名を呼ぶと、少年はピタリと笑うのをやめて、不信感を露わにして瞳子を見上げた。「だったら何だって言うのさ。ってか、あんた誰?」 その少年は瞳子監督が言っていたように、木暮夕弥その人であった。 見た目は天使だが中身は悪魔だぞ、と漫遊寺の生徒の一人が教えてくれた。学校設立以来の問題児だとも。サッカー部の監督が保護者という事もあり、サッカー部に所属したはいいが、とにかく迷惑をかけまくる。 あっちにトラップ、こっちにトラップ。幼稚園児ばりにくだらないものから、大人顔負けレベルまで何でもござれ。無論、栗松達がハマったのも彼が学校敷地内に仕掛けた罠の一つであった。 実はトラップの位置は、学校に入ってすぐ気付いていた聖也。これでも一応“軍属”という事になっているのである。地雷に比べたら可愛いもん、と思ってし まうのはかなり末期だろうが。しかも“命に関わるもんは無いっぽいし、誰か引っかかったら面白いんじゃね ?”という理由で誰にも喋らず放置していた確信犯である。まあ可愛い吹雪や個 人的にお気に入りな鬼道が引っかかりそうになったら、その前に助けるつもりだったが。 もはや開き直りで贔屓目万歳。−−しかしまあ…あのガキがねぇ。 木暮のした事を詫びたのは、本人ではなく学長とサッカー部の部長の垣田であった。 いわく。木暮があんな風にひねくれた原因は彼の過去にあるそうな。まだ小さい頃、旅行先で母親に駅に置き去りにされいた子供。それが彼なのだという。彼を拾って育てたのが学長だそうだ。 誰よりも信じていた親に裏切られた事で、極度の人間不信に陥った木暮。サッカー部に入れたはいいが、試合をしてミスをするたび人のせいにして、あげく練習はサボるわ悪戯するわ。 そうなってくると対戦校にも迷惑がかかる。試合に出させるわけにはいかず、しばらく雑用をさせて心身共に鍛えさせようとしたところ−−彼の悪戯小僧っぷりは、ますます悪化したのだという。−−なんか…昔の誰かさんを見てるみたいじゃねぇか。 聖也は自嘲する。 裏切られるくらいなら信じない。信じれば裏切られる。 彼の気持ちが分かるなんて、軽々しく言っていい言葉ではないが−−でも、分かるような気はするのだ。 雪崩の事故の直後。まだ到底自活できる状態になかった吹雪を、暫く引き取って育てていた自分。彼だけは聖也の正体を知っているし、逆に聖也も一番荒れていた時期の吹雪を知っている。『死なせてっ…アツヤのとこに逝かせてよぉっ…!』 あんなに幼い子供が、そう言って泣き叫んだ。あの頃の吹雪の事を、聖也は忘れる事が出来ない。『お願い…優しくしないで…ほっといて。どうせみんな僕を置いてくんだ…だっ たら最初から、何も要らない…』 自分には何も出来なかった。ただ抱きしめて言うしかなかった。『オレは君を置いてったりしないよ。君を置いて死んだりしない。…約束する。 だけどね…君が死んだら、オレは悲しいから。これはワガママだけど、まだ当分 …一緒にいて欲しいよ』 身勝手だろう。聖也のエゴが、吹雪から逃げ道を奪った。彼の生を縛り付けた。まったく酷い話だ。 それでも言ったのは。かつて自分を救ってくれた人の言葉だったから。自分の愛する人が繋いでくれた想いだったから。 その瞬間に、吹雪も自分も道を選んだ。 聖也は、吹雪を我が子のように愛する事を。 吹雪は、それでもなお生き抜く事を。吹雪が生きる決意をしたのは、彼の中に“アツヤ”の人格が現れた事で知った 。“アツヤ”は言った−−俺が士郎を守る、と。吹雪士郎が生きていく為に、彼 の中の“アツヤ”は生まれたのだ。 「…あーあ。なんかガラにもなくセンチメンタル」 小さな呟きは、夜に溶ける。イプシロンとは戦わない、と言い張る漫遊寺を放っておくわけにもいかず、襲撃予告日まで京都に滞在する事になったのだ。 多分、目的はそれだけでもあるまい。 雷門を罠にかけた罰として雑用を増やされた木暮。その木暮の掃除の手際の良さや身のこなしを見てピンと来た者もいる筈だ。 彼の身体能力、潜在能力は恐ろしく高い。ちゃんと鍛えればサッカー選手として面白い化け方をするだろう−−と。 だがその為には、あの徹底した人間不信ぶりをなんとかする必要がある。 木暮の過去を聞いて、自分以外にも何人かの目つきが変わっていた。吹雪、鬼道、春奈、そして瞳子。 同情もあるだろうがそれだけではあるまい。自分達に出来る事はないか。多かれ少なかれそう思った筈だ。 寝室に飾られた掛け軸。菖蒲の絵が、月明かりに照らされている。菖蒲の花言葉は確か。「信じる者の幸福…か」 信じなくてもいい。誰かを恨んでもいい。それでも人は、愛する事でしか幸せにはなれない。木暮もまた気付く日が来る。いつか、きっと。 布団の中から庭先に視線を映す。ジャージ姿の春奈が、どこかに歩いていくのが見えた。−−最初に動いたのは春奈、か。 化ける。確信に近く聖也は思う。 木暮だけではない−−吹雪も、そして春奈も。 楽しみで仕方ない。此処にいる誰もが秘めているのだ。無限に広がる、可能性というヤツを。 NEXT |
勇気一つで、誰もが英雄になれるから。