喪う為に、出逢ったわけじゃなかった。 不幸になる為に、生まれたわけでもなかった。 愛して、愛される為に、誰もが此処にいる筈なのに。 どうして憎む事の方が、こんなに簡単なんだろう。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 0-14:愛がなければ、見えない。
何だかうまく寝つけない。 柄にもなく緊張しているのだろうか。瞳子はため息を一つついて布団から出る 。 お前は最近ため息が多くなったな、と。父がどこか物悲しそうに言ったのを思 い出す。きっとその原因の一端が自分にある事に気付いていたのだろう。だから こそ何も言わずに瞳子を送り出したのかもしれない−−もはや自らの修羅の道は 引き返せないところに来ているから、と。 旅行先では、寝る時も普段着を着込むのが瞳子の癖であった。無意識に警戒心 が働くのかもしれない。すぐに動ける服を着ていないとなんだか落ち着かないの だ。 漫遊寺に貸し与えられたこの部屋は、瞳子一人で使っている。たった一人だけ の大人の女性への配慮だろう。襖を開け、縁側へ出る。ちょっと出歩く時の為に と持ってきておいたサンダルを履いて庭に出た。
−−今夜は満月…か。…不思議ね。長い間、空を見ていなかった気がする。
自分の歯車は、十年前のあの日に狂った。そして狂ったまま軋んだ音を奏でて 廻り続けている。さらなる歪みを飲み込みながら。 それでも父よりはマシなのだろう。父の歯車は凍りついたまま動く様子がない 。彼の頭の中ではいつまでも愛する存在は過去の姿のまま−−美化され続けて、 微笑みを振り撒いているのだろう。 目の前にいる、彼をそれでも愛し続けている子ども達の姿は、見えないという のに。
−−私に何が出来るかなんて分からない。だけど…だけどもう。
自分は一度逃げ出した。さよならすら言わないまま、あの子の前から姿を消し たのだ。 既に運命が狂い出していたあの子の、最後に見た笑顔が忘れられない。もしか したら全て分かっていたのかもしれない。自分が道具として利用されている事も 誰かの身代わりでしかない事も−−瞳子が自分に言い訳をしながら逃げ出した事 も。 彼を止める為。悲劇を終わらせる為。 そんな事を言いながら、自分は渦中にある人々を見捨ててしまった。あの時な らまだ戻れたかもしれない、彼らを。 赦されない罪を犯した。責め立てられても仕方ない事をした。−−だから。 せめて。最初の誓いだけは守り通す。悲劇を止めたいと願った心だけには絶対 嘘をつかないと。
「私はエイリア学園を、倒す。そしてあの子を…今度こそ救ってみせる」
誓いを小さく呟きに乗せる。迷ってはいけない。惑ってはならない。 その目的を果たすまで、何が起きても折れずに進まなければならない。そうで なくてはあの子達に−−雷門イレブンの彼らにも申し訳が立たない。 自分もまた彼らを利用している事に、間違いはないのだから。
「?」
誰かの話し声が聞こえる。こんな夜中に誰だろう。まさかメンバーの誰かがこ っそり特訓してるんじゃなかろうか。だとしたら叱らなければ。いくらなんでも 極端すぎる。明日に響いたらどうするのだ。 声は、寺の中からのようだ。月明かりに照らされた砂利道を抜け、木造の階段 を音を立てないよう気をつけながら登る。
「…なんで俺に構うんだよ、お前」
入口まで来ると、今度ははっきり声が聞こえた。
「半端な同情なら帰れよ。わたしはいい人ですーってアピールしたいなら余所で やってくれる?はっきり言って迷惑なんだ」
声の主が判明する。 一人は木暮だ。もう一人は−−。
「そうやって…あなたはずっと人を遠ざけて来たのね」
女の子の声。春奈だ。しかしどうして彼女がこんな時間にこんな場所で、木暮 と一緒にいるのだろうか。 「最初から近寄らなければ…誰かを好きにならなければ。離れていったって傷つ かずに済むから。裏切られるくらいなら信じなきゃいい。そう思ってるんでしょ う?」 「よく分かってんじゃん」 二人は扉に背を向けて話しているようで、隙間から覗いてもその顔は見えない 。それでも木暮が、嘲るように笑ったのは声色で分かる。
「そうだよ。どうせ人間はみんな損得勘定でしか動かない。邪魔になったと思っ たら簡単に捨てるんだ…血の繋がった親ですらな!親にすら愛されなかった子供 が、他の誰に愛されるって言うんだ!!」
はははっと見下すような笑い声。だが瞳子には分かった。それは笑顔の仮面の 下で、泣いている人間の声だった。 泣いて泣いて泣き続けて、絶望に、悲しみに狂って。歪んだ声で自分をごまか すように笑うしかない−−そんな声。
『優しいフリなんて、しないで』
思い出したのは、六歳の子供とは思えないほど冷めた眼をしていた彼のこと。 水色がかった銀の髪をイライラと手でいじくりながら、冷え切った青い眼で瞳子 や父を見上げて言った。
『血の繋がった親ですら平気で子を捨てるんだ。赤の他人なんか信じられるわけ ない。…どうせ後で捨てるなら今私を捨てて。そっちのが早いでしょう』
子供は親に捨てられた。母親が余所に男を作って出て行ってしまい、父親も保 護者としての責任を放棄した。さらには親戚中を盥回しにされた挙げ句、自分達 のところへ来たのである。彼の心は完全に冷え切ってしまっていた。 当時六歳だったの男の子が、まるで大人のように自分のことを“私”と言った のである。それだけで、彼がどれほど高い壁を作ってしまったのかが想像できた 。 木暮はあの頃の彼と同じ。 実の親ですら愛されなかったのに、別の人間に愛される価値なんてない。そん な奇特な人間現れる筈がない。 だから。最初から期待しなければいい。何もかも疑えばいい。だからこれ以上 、誰も自分の領域に入って来ないで。
「…私には、あなたの気持ちが分かるなんて言う資格は無い。私にも両親はいな いけど…二人は事故で死んだのであって、私を捨てたわけじゃないもん。それに …私にはお兄ちゃんがいたから。お兄ちゃんが…お父さんの代わりも、お母さん の代わりもしてくれたから」
それはきっと良くない事。それでも私はお兄ちゃんに甘えてたの、と。春奈は 少し切なそうに、まるで懺悔をするように言う。
「でもね。だからこそ一つだけ知ってるの。…失うのは悲しいよ。でも…人を幸 せにするのは、愛することだけだって。友達でも、恋人でも、家族でもいい。誰 かを好きになるとね…自分も幸せになれるの」
人を幸せにするのは、愛だけ。 瞳子は無意識に、握りしめる掌に力を込めていた。その意味が痛いほど分かる 。今まさに自分はそれを実感している。まるで自分達に向かって言われているよ うで−−胸が痛い。 今の“あの人”は幸せなんかじゃない。憎しみに溺れて愛することを忘れて、 幸せである筈がない。それを思い出してしまう。 何度も何度も、理解させられる。
「私は恵まれてる。だから今まで、誰かに裏切られて傷ついたことは無い。でも 、お兄ちゃんはあるの。お兄ちゃんは…本当のお父さんのように、信じていた人 に裏切られたから」
本当のお父さんのように−−それはもしや、響木監督が言っていたあの男の事 だろうか。 影山零治。元帝国学園サッカー部の総帥にして、復讐に墜ちたかつてのイナズ マイレブンの一人。忙しい義父に代わり鬼道の後見人及び教育係も務めていたと いう話も聞いている。
「それでも、お兄ちゃんは誰かを好きになる事をやめなかった。妹の私だけじゃ ないわ。キャプテン、雷門や帝国のみんな。お兄ちゃんはみんなが大好きだから 、みんなもお兄ちゃんが大好きなの。お兄ちゃんもみんなも知ってるんだよ。そ れが“幸せ”って事なんだって」
木暮君は幸せになりたくない?春奈はまるで姉が弟に語りかけるように、優し く言う。
「…信じられるかよ、そんな事…いきなり言われたって」
ずっと黙って聞いていた木暮が、漸く口を開く。 「…無理だよ。だってみんな、俺が嫌いなんだ。だから試合も出してくれないし 雑用ばっかり…。俺も…好きになんかなれないよ…」 「真実はね」 春奈の声は、優しい。自分より体の小さな木暮を抱きしめて頭を撫でている。 そんな絵が目に浮かぶようだ。
「見る者によっていくらでも色を変えるよ。木暮君も勇気を出して、愛を持った 見方をしてみて。きっと、世界は変わるから」
彼女が立ち上がる気配があったので、瞳子は慌ててその場から離れた。二人は 瞳子の存在には最後まで気付かなかったようだ。春奈が扉を出て、母屋に戻って いくのが見える。 結局叱りそびれた上、自分も夜更かししてしまったけれど。今の話が聞けて良 かった。そう思っている自分も、確かにいる。
−−真実はいくらでも色を変える…か。
有名な漫画の名探偵の口癖は、“真実はいつも一つ!”だっただろうか。だが 見る者の心一つで真実は変わるとすれば、それは一つとは言い切れない。 本当の意味での真実は、その人の心の中にしか無いのだから。 彼の人の大まかな目的や、既に行った行動ならば確定できないでもない。物理 的証拠を挙げ連ねれば100%とは言わないまでも、90%くらいまでなら確証をつけ る事もできるかもしれない。 でも、心だけは無理なのだ。 その瞬間、彼の人が何を想っていたか?何を願ってその行動を起こしたか?他 者はそれを、周りの状況によって判断し推測するしかない。そして推測である以 上、“100%の真実”には成り得ないのだ。 推測する者が判断する、“50%の真実”は。観察者の主観が入るゆえ、探偵の 数だけ真実を得るのだ。 木暮を嫌うから試合に出してくれない、は木暮の中の“50%の真実”で。 木暮を想うから試合に出さない、は春奈の中の“50%の真実”だとすれば。 それだけで真実の数は、複数になる。
−−幾らこちらが愛しても、向こうも同じように愛してくれるとは限らない…そ れが私の真実だけど。
悲観的に事実を見つめるも、その逆も自由なのだ。だとしたら、明るい見方を する人間の方が幸せになれるのだろう。 人間は人間にしかなれない。天使の翼も無ければ、杖のひとふりで無から有を 生み出す魔女にもなれない。 それでも。 自分を、人を、幸せにする魔法は、もしかしたら誰もが当たり前のように持っ ている力なのかもしれないと思う。ただ忘れてしまっていたり、気付く事が出来 ないだけで。 春奈は気付けた一人なのだろう。苦難を乗り越え、傷ついて尚愛をくれた人が −−兄の存在があった事で。
−−信じるのは、簡単なようで難しいわ。一度裏切られた人間なら尚更。
自分は、父親を裏切った。同時に、父親に裏切られた。瞳子はずっとそう考え て、彼に背を向けてきた。 だがこう考える事も出来る。私達は裏切り合ってなどいない。ただ一時的に道 を違えてしまっただけ。互いを愛する気持ちが消えたわけじゃない。だから必ず 同じ場所に戻って来る筈だ、と。
−−あの子は、あの子達は私に裏切られたと思うのかしら。それともまだ私を信 じて待っていてくれるのかしら。
姉さん。お姉ちゃん。姉貴。 あの優しくて清らかだった子供達の顔が浮かんで、消えていく。 滑稽な事に、誰もが笑って瞳子を呼ぶのだ。あの頃と同じように、嬉しそうに 。
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まだこの手には、君の温もりが残ってるのに。