ずっと捜していたのは、罪の償い方。 ずっと願っていたのは、最期の楽園。 ずっと謡っていたのは、命がけの希望。 ずっと祈っていたのは、たった一つの幸せ。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 0-30:硝子の、幻。
瞳子の驚きと悲しみが入り混じった顔が−−瞼の裏に焼き付いて離れない。 胸の奥がキリキリと痛んで、ヒロトは唇を噛み締める。それは発作による痛み ではないと分かっている。その原因が、何であるのかも。 少なくとも今はまだ、自分と彼女の関係を知られてはいけない。まだ早すぎる 。だから他人のフリをした。理由は違えどそれは瞳子も分かっていたから、何も 言わなかったのだろう。 彼女がレーゼを連れてキャラバンの方に消えていく。その背中に小さく、ごめ んなさい、と呟いた。 その謝罪は、瞳子に対するものだけではない。 レーゼ−−そう呼ばれるようになったあの子は。自分が誰かも分からないまま 、サッカーボールを抱きしめて、ペンダントを握っていた。それが唯一彼に遺さ れた真実であったのだろう。 彼らの処分を決めたのは自分達マスターランクの三幹部ではない。自分達が敬 愛する人が直々に決めたという事になっている−−表向きは。 実際は、二ノ宮蘭子という名前のあの女が進言したものだ。処理の殆どは彼女 の手で行われたと言っても過言ではない。デザームは何も知らずに、ジェミニス トームを彼女の元に転送したに過ぎないのだ。 二ノ宮がレーゼ達の身体に、正確にはどんな処置を施したかは分からない。た だ記憶が消えるという結果の一部を聞いただけだ。実際この眼で確かめてみてハ ッキリした。 分かっている。自分とて二ノ宮一人を責める事はできない。殺されずに済んだ だけマシなのだと言い聞かせて、事実を知りながら止めようとしなかった。証拠 隠滅の為に必要である事も知っていた。 だけど。それでも思わずにはいられない。
−−これは…本当に父さんの望みなの?
記憶を書き換えられて、消されて、捨てられた子供。彼はもはやその事実を悲 しむ事すらできない−−何も覚えていないのだから。 ヒロトは服の胸元をきつく握りしめる。痛い。本当に痛い。痛くてたまらない 。 あの子の事は自分もよく知っている。とりたてて仲が良いというほどではなく 、引っ込み思案の彼は外で遊ぶより本を読むのが好きで。特にことわざに凝って いた。彼からは自分もいろんな事を教えて貰った。 そして何一つ持っていなかった自分に最初にサッカーを教えてくれたのは、あ の子と彼で。 あの子が大切にしているペンダントは、あの子の兄代わりだった彼が誕生日に あげたもの。 その記憶ももはや無く。あの笑っていた頃ですら何故予想できたのか。レーゼ の世界を奪うのがその彼になるなど。ああ、きっとデザームの方も忘れさせられ てしまっている。
「…ヒロト?どうした?」
瞳子が去っていった方を凝視して動かないヒロトに、円堂が声をかけてくる。
「…何でもないよ。ただ…」
罪悪感で心臓が潰れそうだ。自分は今のところ嘘はついてない−−ただ肝心な 事を何も語っていないだけ。 それでも、初めてできたかもしれない友達を騙している事に、代わりはない。 「あの子が…自分を取り戻せたらいいなって思って。…酷いよね。勝負に一回負 けただけで…記憶を消されるなんて」 「…そうだな」 「…うん」 円堂と秋が苦い顔で俯く。視線を感じてそちらを見れば、鬼道だけはヒロトに 別の色の目線を投げていた。 ああ、彼は−−自分の正体に気付いているのだ。二ノ宮が言っていた事を思い 出す。鬼道有人は、危険だと。 そう−−危険なのだ。このまま二ノ宮に目を付けられたら、もしかしたら。
「…君達も…気をつけてね。悪い事は言わない。エイリアをあまり…嗅ぎ回らな い方がいい。仲間だった子を、記憶を消して捨てるくらい…平気でやる連中なん だ」
これは、契約違反かもしれない。でも言わずにはいられなかった。“基山ヒロ ト”として赦される範疇で−−せめて。 「もしかしたら…本当にもしかしたら。君達は殺されてしまうかもしれない…だ って相手は、恐ろしい侵略者なんだから」 「殺されるって…さすがにそれは」 「頼むよ、守」 円堂を見、秋を見、風丸を見、そして鬼道を見る。どうか分かってくれ、とい う想いをこめて。 「…俺は…君達が結構気に入ってるんだ。特に…守が悲しむような事が起きたら …凄く、辛いよ」 「ヒロト…」 お願い、と繰り返す。これが今自分にできる最大限にしてギリギリの忠告なの だ。 身勝手とは分かっている。だけど。 もうこれ以上−−大切な物は喪いたくない。たとえそれが誰かへの裏切りであ るとしても。
子供の手を引いて、歩く。レーゼはどこかぎこちなく瞳子の手を握り、もう片 方の手でサッカーボールを抱えている。その首には、かつて実の兄のように敬愛 していた人から貰ったペンダントがさがっている事だろう。 こんな風に、子供の手を引いて歩いた事が前にもあったな、と瞳子は思う。そ の時連れていったのは赤い髪のあの子だった。 身体が弱いのに雪が、大好きで。 雪が降るとついついふざけて雪合戦や雪だるまを作って遊び、父に怒られてい た。すると頭のいいあの子は次からこっそり父に見えない場所で遊ぶのだ。そう なると叱る役目は大抵最年長の自分に回ってきた。 父にこっぴどく叱られて、少し落ち込んだあの子の手を引いて家に帰る。自分 はもうやっちゃ駄目よ、と注意しながらも、また遊ぶ約束をする。 今度はもっとあったかい場所でサッカーをしようね、と。すると雪よりもさら にサッカーが大好きなあの子はあっさり機嫌を直すのだ。 泣いた烏はすぐに笑う。その顔がいつも誰かに似ていて−−瞳子はその度に胸 の奥が締めつけられるのだ。 この子だけは。どんなに残酷な世界でもこの子だけは奪わせはしない。護って みせるのだと−−そう誓った。 誓った筈、だったのに。 「あの…」 「!」 小さく呼びかける声に、瞳子は我に返った。レーゼが不思議そうな顔で自分を 見上げている。
「どうかしたんですか…?なんだか…その…」
うまく言えないのだろう。そう、昔からそうだった。この子は博識なのに、い ざ言葉にしようとすると考えすぎて悩んでしまう。相手を思いやりすぎて、何も 言えなくなる。 そんな子だったのに−−彼は何をされた?何をさせられた? TVを見た時の自分がどれだけ愕然とさせられたか、誰にも分かるまい。大人し くて、基本的に口数も少なめで−−どちらかというと臆病で、だけど優しかった この子が。 大勢の人達に怪我をさせて、学校を壊して、瓦礫の上から人々を見下ろした。 そして高慢なまでに高笑ってみせたのだ。 なんて−−恐ろしい事だろう。 なんて悲しい事なのだろう。
「…私の名前は、吉良瞳子。私の事も…覚えてないのよね?」
レーゼは何も言わなかったが、申し訳なさそうに俯いた。それが十分、答えに なった。 滲みそうになる涙を必死で堪える。泣いてはいけない。自分には彼らの為に泣 く資格なんて無いのだから。 代わりに−−抱きしめていた。それは何か意図があっての行動ではない。ただ 、そうしなければならないと思ったのだ。 「な…何を…っ?」 「ごめんなさい」 戸惑う身体を抱きしめる手に、力を込める。華奢な、子供の身体。こんな子に 自分はなんて運命を背負わせてしまったのだろう。
「許してなんて…言う資格ない。でも…謝らせて。ごめんなさい。貴方達を…私 が護らなきゃいけなかったのに…!」
この子だけじゃない。自分が罪を負うべき子達はたくさんいる。 ジェミニストーム。イプシロン。ガイア。ダイヤモンドダスト、プロミネンス 。そして−−雷門のあの子達も。 自分の無力さゆえに−−悲劇を招いた。誰かに許しを請うなどどうしてできよ う。
「…せめて…償いをさせて。許してくれなくてもいい。その意味が分からなくて もいいから。本当の貴方を取り戻す手伝いを、させて欲しいの」
温もりを離す。レーゼは未だに意味がよく分からないといった顔でこちらを見 ていたが、やがてこくんと小さく頷いた。
「吉良…さん。貴女は…私が誰か、知ってるんですか?」
なんて答えればいいのだろう。少しだけ悩んで、瞳子は言う。 「貴方は、サッカーをしていたの。そして私のチームと戦ったのよ」 「サッカー…」 「サッカーをしていれば…貴方も思い出す事が出来るかもしれないわね」 多分これから一悶着あるだろう。この子を匿ってくれていた駄菓子屋の店主と 話もつけなくてはならないし、それ以上に雷門の皆が何を思うか。 だけど、瞳子の中で既に答えは出ていた。それを貫き通す覚悟も。 「貴方はレーゼと呼ばれていたけど…事情があるの。その名前を今は口にしては いけないわ。貴方は当分、“緑川リュウジ”と名乗って貰うけど…いいかしら」 「みどりかわ…りゅうじ?」 「そうよ」 その名前の意味するところは−−まだ彼は知らなくていい。
「暫く、私が貴方の面倒を見る事になると思う。戸惑う事も多いでしょうけど… よろしくね」
手を差し出す。レーゼはおずおずとだが手を出して握手に応じた。 これからだ。瞳子は心の中で呟く。 自分はまだまだたくさん、するべき事があるのだと。
円堂がキャラバンに戻ると−−やはりというべきか、皆が混乱の極みにあった 。 宮坂が単身京都に来ているらしい、という事もそう。怪しい男がレーゼであり 、しかも暫くキャラバンで預かると瞳子が言い出した事もそう。 殊に一番最後については−−反対意見が続発した。特に学校を破壊された旧雷 門メンバーが反発しない筈もない。 学校だけではない、レーゼ達ジェミニストームとの戦いで仲間が病院送りにさ れている。宍戸や影野なんて一歩間違えば命に関わる大怪我だったのだ。そう簡 単に赦せる筈もない。 記憶が無いというが、それも本当なのか。演技ではないか。本当だとしても、 記憶が戻ったらまたエイリアに味方するのではないか−−。 それを皆に納得させたのは、鬼道だった。
「俺は独自のルートでエイリアの正体を探ってきた。…レーゼの身元についても 見当がついてきている。多分、こいつは上に洗脳されて、あんな強行に出たので はないかという事も」
いわく。ジェミニストームもイプシロンも、あの破壊活動自体が彼らの意志で はない可能性が高いこと。彼らも自分や照美のように大人に利用されているだけ ではないか、と。
「今の奴に害はないと思う。それに…記憶を取り戻したら取り戻したで、何か重 大な情報が聞けるかもしれない。それだけでキャラバンに置く意味はあると思う が?」
利用価値はある。最終的にはその言葉で皆を引き下がらせた。円堂としては苦 々しい事この上無かったが。 分かるのだ。今のレーゼに悪意が無い事も嘘を言っているわけじゃない事も。 できる事なら−−救いたい。またサッカーしたい、そう言った気持ちに嘘は無い から。 顔を隠す為に、青いパーカーを着て。緑川リュウジという名でキャラバンに乗 る事になったレーゼを円堂は見る。 それはとても小さな子供だった。少年は震える手で瞳子の手を握っている。ま るで、世界に怯えるかのように。
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生きてる事は、悲しい事なのか。