その小さな物語を、月だけが見ていた。 差し出す手は小さくて、伸ばす手もまた小さな僕等。 だけど確かに繋がれた手があった瞬間。 戻れない時を前に、僕等に何が出来ただろう。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 0-32:月明かり、チルドレン。
フットボールフロンティア決勝で雷門と戦った、世宇子中のキャプテン。照美 について吹雪が知っているのはその程度の知識だ。 雷門に入ったばかりの自分は、照美に対してわだかまりは何も無い。ただ、TV で見た試合のせいで多少なりの先入観があったのは確かである。 雷門のメンバーを、やや不必要なまでに痛めつけた世宇子中。そのあまりに攻 撃的なサッカーには寒気がしたし、キャプテンの彼も怖い印象を抱いていた。 フィールドに舞い降りた残酷天使。美の女神の名を語るに相応しい美貌と実力 を誇りながらも、そのプレイは華麗にして傲慢。見る者に畏怖を感じさせる事は あっても、共感を抱かせるには程遠かっただろう。 だが−−こうしてすぐ側で見てみれば分かる。実力はある。才能もある。だけ どその素顔は、容姿が並外れて美しいだけの子供にすぎないのだと。 フットボールフロンティアで見せた攻撃性も刺々しさも、今の彼にはまったく といっていいほど感じない。本来は物静かな性格なのだろう。 それを変えてしまったのは影山零治という一人の大人。そして、神のアクアと いう名のドラッグ。 影山という男について自分は僅かに伝え聞いた事実しか知らないが、その僅か だけでも充分だ。その男は雷門メンバーの上に鉄骨を落として皆殺しにしようと した。全ては勝利を得る為に。なんと恐ろしい事だろうか。 その影山の元で利用され、薬漬けにされ、仲間を自殺に追い込まれ−−全てを 失った照美。 彼は吹雪以上に過酷な運命を背負って、そこにいるのだ。 「吹雪君。…先に謝っておくね。ごめん」 「え?」 突然の謝罪。謝られるアテが分からず、首を傾げる吹雪に、照美は言う。
「実は…鬼道君から勝手に聞いちゃったんだ、君の過去。鬼道君は、聖也君から 聞いたらしいよ」
吹雪の、過去。みなまで説明されるまでもなく、それが雪崩の一件であると悟 った。
「いいよ、別に。隠してたわけじゃないから。改まって話すような内容でもない し」
嘘ではない。自分で言うのもあれだが、あっさり打ち明けるには少々重たいネ タであると分かっていた。だから隠しているというより、話しにくかったのであ る。もし両親の事に言及されたら多少触れるつもりではあったが。 それに−−今でも時々、あの時の光景がフラッシュバックして頭が真っ白にな る。恐怖。絶望。喪失感。あの時の感情はふと油断した瞬間に襲ってきて吹雪を 苛む。 忘れているわけじゃないけれど。思い出して、平静でいれる自信は正直無いの だ。傷を簡単に克服できるほど、自分は強い人間ではないから。
「君は、強い子だね」
しかし−−まるで吹雪のそんな心を読んだかのように、照美は言った。
「だって君はちゃんと…生きる事を選んで頑張ったんだもの。私には、できなか ったよ。だから…一番大事なものを、失ってしまった」
それは−−集団で心中を図り、世宇子の仲間達みんなを失って、ただ一人生き 残ってしまった−−その事を指しているのだろう。 自分達は確かに似ているかもしれない。二人とも、愛する者を目の前で失いな がら、ただ一人生き残ってしまって−−その過去を悔やみ続けているのだから。 どうして自分だけが。何の為に自分だけが生きているのか−−と。 「僕は…強くないよ。聖也さんが拾ってくれてなかったらとっくに死んでたと思 う」 「そう?」 「そうだよ。あの屋上から飛び降りてたと思う…きっと」 「……そっか」 握りしめたフェンスは冬の外気で冷えて凍るように冷たくて。握った手もすぐ 冷たくなって−−やがて痛みになった。 目の前に広がる町はいつものように動いている。アツヤが死ぬ前と同じような 夕焼けが当たり前のように広がる。 それが本当に悲しかった。彼らの命など、この世界にとっては歯車を狂わすに も至らない、塵にも等しい存在なのだと示すかのようで。 真下に見える駐車場。叩きつけられたらきっと凄く痛いだろう。醜い死に様を 晒すのだろう。だけど−−今感じている以上の痛みがどうしても想像できなくて −−まあいいや、と思ったのだ。 この痛みを別の痛みが消してくれるなら、そっちの方がきっとマシだろう−− と。死にたい、というより生きていたくなかった。アツヤも両親もいない世界に 、意味なんてない、と。
「…君にも、手を差し伸べてくれた人がいたんだね」
照美はフッと小さく笑みを零す。
「なんとなく、分かるかも。…土砂降りの雨の中でさ、たった一人手を差し伸べ てくれる人がいたら…人は縋らずにはいられないんだ。その人の善悪なんか関係 ない」
手を差し出してくれた人が−−照美にもいたのだろう。それは、ひょっとして 。 「影山って人のこと?」 「……うん」 白い手が、ぎゅっと服の裾を掴むのが見えた。
「私にも…両親はいないんだ。顔も知らない。…気付けば一人で、汚くて暗い場 所にいたから」
照美が語ったのは−−あまりに衝撃的な過去。親が死んだか捨てられたのか。 物心ついた時に側にいたのは一人の男。その男は照美をまともな教育も受けさせ ず、ただ商売道具に使ったという。 酷い毎日に嫌気がさして、男の元を飛び出したはいいが−−金もなければ後ろ 盾も無い。あるのは自分の身一つ。 結局何も変わりはしなかった。生きる為にはあらゆる犯罪に手を染めるしかな くて−−気がつけばどんどん暗い場所へと墜ちていた。クスリに手を出さなかっ ただけマシだったかもしれない、その程度。 生きるには力がいる。強さがいる。浮浪児同然の身ではあったが、だからこそ 身体能力だけは鍛えていた。影山にスカウトされたのはそんな時だそうだ。
「あの人は間違ってると今なら分かる。みんながあの人を憎むのも理解できる。 でも私にとってあの人は救世主で…世界の全てだった」
彼は読み書きを教え、知識を与え、生きる術を教えてくれたという。 そして−−サッカーも。影山が集めてきた身よりの無い子供達の集団。世宇子 中とはそんな場所であったという。
「幸せだったよ。あの人がいなかったら私はとっくに死んでた」
同じだ、と吹雪は思った。 自分達は確かに数奇な運命を辿ってきたけれど。 「差し伸べられる手があった…それがどんな意味だとしても…か」 「そう。同じだよね、私達」 「…うん」 出逢いがあって。そのおかげで今生きている。それはとても幸運なこと。
「私はね。…今でもあの人に、裏切られたとは思ってないんだ。方法は正しくな かったかもしれない。あの人にとっては最初から私達なんてただ復讐の為の駒だ ったのかもしれない。だけど…」
照美は切なげで、だけど優しい眼をしていた。それは心から誰かを慈しむ眼。 聖也が自分に向けてくれるのと、同じ眼差しだと気付いた。
「私にとっての父さんはあの人だけだから。たとえあの人が私を愛してくれてな くても、いいんだ。私さえあの人を愛しているなら」
かつん、と梯子の方から音がした。もしかして誰かいるのだろうか−−覗き込 むまでもなく、答えは分かった。特徴的な青いマントが視界の端に映ったから。
「悪いな。…気になる会話だったんで立ち聞きしてしまった」
あっさり開き直るあたりが鬼道である。彼はそのまま梯子を登って来た。その まま照美の隣に腰掛ける。 自分に照美に鬼道。なんだか不思議な組み合わせだなぁと吹雪は思う。それで いて妙な共通点もある。自分達は揃いも揃って親がいない。そして多分、深い傷 と闇を抱えて此処にいる。
「鬼道君は…今でも総帥を恨んでる?」
さっきまでの会話は全て聞かれていたものと判断してか。真っ正面から疑問を 投げる照美。いきなりだな、と鬼道は肩を竦める。 「恨んでない、と言ったら嘘になるな」 「…そっか」 「でも」 夜空を見上げ、鬼道は静かな声で言った。
「最近…考えるんだ。影山に出逢わなかったら俺はどうなっていたのか。…たと え間違ったやり方だとしても…今の俺があるのは影山の力でもあるんじゃないか と」
不本意なのかもしれない。苦い記憶なのかもしれない。しかしゴーグルごしで はその表情を窺い知る事は出来なかった。 もしかしたら。鬼道がドレッドヘアーにマントにゴーグルなんて奇抜な格好を 始めたのは−−本当の自分を隠す為だったのではないだろうか。 過酷な現実から身を守る為の方法。 吹雪が心の中に弟の人格を作ったのと同じように−−彼は素顔を隠す事で自己 防衛を図ったのではないだろうか。 なんて−−推測にしかすぎないけれど。
「影山を許す事はできない。でも…もしまた顔を合わせる機会があったなら。今 度は真正面から話をしてみようと思う。…あの人の闇は…あの人が望んで得たも のじゃないのだから」
誰にでも闇はある。けれどその闇は受け入れて歩いていく事ができる。光で照 らす事も出来る。吹雪には、二人がそう言っているように見えた。 やっぱり、彼らは強い。自分なんかより、ずっと。
「私は…誰かに手を差し伸べられる人間になりたい。あの人が助けてくれたよう に。そして…雷門のみんなが、私を悪夢から救い出してくれたように」
総帥の事も救いたい。照美はそう言って−−次に吹雪を見た。 「勿論…君の事も、ね。吹雪君」 「僕…?」 「悩んでるんでしょ」 そんなに分かりやすかっただろうか。なんだか申し訳なくなって落ち込む。 今はチームみんなでエイリアに立ち向かっていかなければならない時だ。それ なのに自分が暗いオーラを撒き散らしてみんなに心配をかけていたらまったく意 味がないではないか。 自分は完璧にならなくちゃいけない。みんなのお荷物なんて論外だ。 完璧じゃなければ、生きてる価値すら、ない。 「初めて君を見た時に気付いてたよ。心と体でバランスがとれてないなぁって。 …解離性障害だって聞かされても驚かなかった」 「…やっぱり僕…おかしいのかな」 「そんな事無いよ」 即答する照美。鬼道も頷いてくれる。その優しさが申し訳なくて、だけど嬉し かった。
「僕の中のアツヤは、僕が作った偽物のアツヤ。…分かってるんだ。でもアツヤ が僕には必要だった…完璧になる為に」
両腕で体を抱きしめて、うずくまる吹雪。
「だって完璧にならなきゃ…失うじゃないか。何一つ、守れやしないんだ」
あの雪崩の日、無力だった自分のように。
「完璧じゃなくたって…護れる物はあるさ。円堂を見ろ。あいつは完璧じゃない から負ける。だけど何回だって立ち上がる」
ポン、と鬼道が肩を叩く。その温もりが死んだ父に似ている気がして−−涙が 出そうになる。 自分と同い年の筈なのに、彼の、彼らの強さは何処から来るのだろう。 「…その強さは、完璧な存在よりもずっと貴い物だと思う。…安心しろ。俺達は お前の前からいなくなったりしない。…大事な仲間を置いていったりはしないさ 。なぁアフロディ?」 「そうだよ」 ありがとう。そう返した声は、音になっただろうか。
その小さな物語を、月だけが見ていた。 差し出す手は小さくて、伸ばす手もまた小さな僕等。 だけど確かに繫がれた手があった瞬間。 戻れない時を前に、僕等に何が出来ただろう。
誰もが本当の事を語っていたのに。 嘘になってしまうのは、そう遠い未来のことではなかった。
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君に逢いたくて、触れたくて、届かなくて。