あの子はずっと雨に打たれていた。 傷だらけの身体で、誰かを必死で愛しながら。 あの人は今も雨に打たれている。 疵だらけの心で、愛されたいと叫びながら。 この背中に、白い翼は 無いとしても。1-0:Message from Satoya Sakurami この世界にやってきた俺の、一番古い記憶は−−大体四十何年か前のものになる。 その時まだ俺は、桜美聖也の姿をしていなかった。キーシクス、という名の魔女にしてソルジャー。二十歳前くらいの女の姿で、世界を調査して回っていた頃だ。 そのガキに出逢った場所は、公園。しかも酷い雨が降っていた夕暮れ。もう子供はとうに帰る時間だ。なのにそいつは傘もささないで、雨の中で泣いていた。 サッカーボールを抱きしめて。『ボウズ』 俺はその日の仕事はもう済ませてあったし(部下に押し付けたとも言う)、特に急ぐ用も無かった。何よりさすがに見過ごすのもやるせなくて、ガキに声をかけたわけだ。『んなとこで、何やってんだ。風邪ひくぞ』 突然見知らぬ女が現れて、傘を差し出されて。ガキは相当驚いたようだ。寧ろ怯えさせてしまったかもしれない。 そりゃそうだ。見知らぬ大人にほいほい着いてっちゃいけませんよ、なんて小学生並の注意事項。今の御時世なら即行で防犯ブザー鳴らされてもおかしくない。 いや、確かに女の姿ではあったけどもさ。目つきが悪いのは自覚してるわけですよ。 変な誤解を招かずに済んだのは時代のせいか、子供が憔悴していたせいか。『だって…地面がびしょびしょじゃ、練習できない』 少年は嗚咽しながら言った。『練習できなきゃ、サッカー上手にならない。サッカー上手になんなきゃ…父さ ん笑ってくれない…』 気付いたよ。涙を流すガキの、シャツから覗く首や手足に。明らかに普通じゃない傷がたくさんついていることに。 サッカーの練習じゃこんな怪我はしない。明らかに殴られて紫色に変色した箇所や、鬱血や引っかき傷。トドメが煙草を押し付けられた跡とくりゃ決定的だ。『お父さん、叩くのか?』 尋ねると子供は微かに、本当に微かに頷いた。『…僕が、悪い子だからいけないの。でもね。サッカーが上手になったら、父さ んも喜んでくれるから』 だから、練習したいのに、雨が降ってきちゃったの、と。子供はますます、胸が痛くなる声で泣き出してしまう。 そのガキは、父親から虐待を受けていた。それでも、サッカーをやっている時だけは、父も笑ってくれるし痛い事もしない。だからもっと上手になりたいと切実に願っていた。 全ては大好きな父に、愛される為に。『…雨の中で練習したら、風邪ひくよ。風邪ひいたら、もっと練習できなくなっ ちゃうよ』 俺は涙を流す子供の頭を撫でて、言った。自分に出来うる限り優しい声で。『でも元気でいたら、明日も明後日もいっぱい練習できるから。今日はもう、お家に帰りな』 その日はそのまま彼を家に送っただけで終わった。それが、自分と彼の出逢いであり、全ての始まりとなった。 数日後。今度は晴れていた日。 ガキはまた公園にいた。そしてたった一人でリフティングをしていた。『よぉ』 また声をかける。子供は目をまんまるくして俺を見た。 今日は泣いていなかったが、子供の怪我は明らかに増えてやがる。額には大きいガーゼが貼ってあったし、首筋からは火傷の跡が除いてた。 またお父さんに叱られたのか。痛くないのか。そう尋ねると、平気だよ、と笑う子供。『平気。僕強いもん!』 そうか、と。頷くに留める。 確かに、彼は強い子なのだろう。どんなに残酷な目に遭っても立ってようとする。どんなに痛くても耐えようとする。 昔の俺より−−母親に殴られても世界を呪うしかできなかった自分より−−何百倍も、強い。 だから心配なのだ。そういう子は受け流す事ができず、いつかポッキリ折れてしまいそうで。誰かを、何かを憎む事でストレスを発散する事ができないまま、いつか大きく爆発させてしまう気がして。『父さんは怒ると怖いけど、サッカー上手になったらいっぱい誉めてくれるんだ!』 だから練習しなきゃ、とまた笑う。愛らしい笑顔の筈なのに、どうしてこんなにも胸が痛くなるのだろう。『サッカー、好きか?』 子供はますます笑顔を輝かせて、頷く。『うん!僕、サッカー大好き!!』 俺はその子の頭を撫でる。それだけしか出来る事が無かったから。『じゃあさ…俺にもサッカーを教えてくれよ。君の名前はなんていうんだ?』 ガキは木の枝を捜してきて、地面に文字を書いた。この年の子供が書けるだけで凄い、難しい漢字だったが、彼は書き順すら間違えなかった。きっと根がまじめで頭もいいのだろう。『れいじ!…影山零治だよ!!』 その名前は−−俺にとって一生忘れられないものになる。『そうか。俺は、キーシクス。…よろしくな、零治』 それから暫く続いた、俺と零治とのささやかな日々。 零治にとってサッカーは、父と自らを繋ぐ絆であり。幸せになる為の白き魔法でもあった。サッカーをする事で彼は誰かを呪う事なく、魔法に溶かす事ができたのだ。 零治は本当にサッカーが上手で。ついでに指導もうまかったから驚いた。素人だった俺がみるみる上達していったのだから。『キーシクスは、パワーはあるのにノーコンだなぁ』『うっせーや!』 俺は幸せな気持ちを、零治からたくさん貰った。零治も俺とサッカーをしている瞬間は幸せであったと−−そう信じてもいいのだろうか。 だが、零治の傷は日増しに増えるばかり。酷い時はガーゼや包帯から血が滲んでいた。近所では有名な子供だったそうだ。なんせ虐待は明らかで、父親は世間に名の知れた人物だったから。 どうにかして少年を救えないものか。そう考えた俺は零治の身辺を調べ始める。影山東吾。零治の父はプロサッカー選手だった。全盛期ではMFとしてチームの 指揮をとり、幾度となく勝利に導いたという。だが−−円堂大介率いる新人勢に日本代表の座を奪われて以来、スランプから抜け出せなくなってしまったそうだ。 絶不調の影山東吾を、ファンもメディアも責め立てた。ついたあだ名は『疫病神』。酷い話ではないか。調子のいい時は散々持ち上げていた癖に、不調になった途端コレである。 生真面目で有名だった東吾がどれだけ追い詰められていたかは、本人にしか分かるまい。ただアルコールに溺れて、どんどん堕落していったというのは事実のようだ。 鬱屈したストレスは全て、自分よりか弱い存在に向けられた。つまり、幼い零治に。 妻が病弱で入院がちだったせいもあるだろう。暗い家には父と息子の二人だけ。中でどんな惨たらしい仕打ちが行われていようとも−−誰も止める事はできなかったのである。 しかし、このままではいずれ零治は死んでしまう。周りの人間や警察は見て見ぬフリなのか。いくら本人が父と共にいたいと望んでいても、これでは−−。『キーシクスにも、教えてあげるね』 記憶の中で、幼い彼は笑っていた。必死で、必死で、自分の無力さ以外の何者も呪わずに生きていた。『サッカーはね、魔法なんだよ。大好きな人と、仲良くなる魔法。一緒に幸せになる魔法なんだ』 彼の言う大好きな人というのが、父親である事は明白で。『だから僕はサッカーが大好き!』 虐げられても傷つけられても、彼は父を愛していた。父に愛される事を望んでいた。 その愛が歪んでいる事を誰にも教えて貰えないまま。その愛が普通だと信じたまま−−大人になってしまったのだ。 結局俺は、零治を救う事が出来なかった。 ある日パッタリと公園に来なくなった零治。俺が彼を救う手だてを見つけられないままに。 零治は父と一緒に失踪。空っぽの家はめちゃくちゃに荒れていて、壊れた食器や倒れた棚が散乱し、ゴミが散らばっていたという。 やがて父親だけが、山の中遺体で見つかった。まるでその後を追うように母親も病死した。零治は−−行方不明のままだった。 彼がその後どんな人生を歩んだかは分からない。だが俺は四十年後、救えなかったその結果を目の前に叩きつけられる事になるのである。 サッカーを愛し、幸せの魔法を信じていた少年は、もはや何処にもいなくなっていた。 愛していた筈のサッカーを憎む事で、どうにか生き長らえてきた零治。そうしなければ生きてこれなかった彼。 そうさせたのは、一体誰だ。何のせいだ。何故こうなったのだ。−−多分俺は、少しでも罪を償う方法を捜してた。 吹雪を引き取って、我が子のように育てようと決めた裏には。かつて救えなかった幼子への罪滅ぼしの意識が少なからずあって−−それを思い出すたび罪悪感な襲われた。 吹雪は零治の代わりではないし、自分のエゴに利用される道具でもない。−−それでも俺は誓ったんだ。零治を護れなかった分も…吹雪を護ってみせるっ て。もう二度と、あんな悲しい子を出すものかって。 悲劇は繰り返される。歪んだまま大人になってしまった零治は、サッカーへも教え子達へも歪んだ愛し方しかできなくなっていた。 気付く。彼は歪んで尚誰かを愛そうともがいているのだと。 父親として、鬼道と照美に愛情を注いではいたのだと。ただそのやり方が間違っていただけ。自分が父にされてきた事と同じ事を二人にしてしまっただけで。 過ぎた時間は戻らないとしても。もう遅すぎる事がたくさんあるのだとしても。 出来る事がまだあるなら、試したい。−−四十年で。俺には護りたい物がたくさん増えたけど。お前の事、忘れた事なんて無かったんだぜ。 零治との再会。別離。そしてまた俺は彼と再会しようとしている。 多分、彼の一番根っこの部分を引き上げられるのは俺じゃない。傷ついて絶望して尚、彼を助けようと走る子供達だ。 照美と鬼道の二人。彼らは今でも尚、あんたを父親だと信じてる。血など繋がっていなくとも、心は繋がっている筈だと。 あんたが出した真帝国学園の招待状は。雷門を誘った本当の意味は。あんた自身が、心の何処かで終わりを望んでいるからじゃないのか? きっと零治は俺の事なんざ覚えてねぇし。桜美聖也の姿の俺を見ても何も分かりゃしないだろうが。 それでも構わないと思った。二人が零治に手を差し伸べる、その手伝いさえ出来たのたら。 なのに。 教えてくれよ。どうしてこんな事になった。あんたとエイリアは繋がってるんじゃないのか?あんたはエイリアに帝国を破壊しないように頼んだんじゃないのか? もう一度鬼道に逢いたいって、誰より願ってたのは零治、お前だろう?−−四十年前、俺はお前を護れなかった。そして今また、俺はあの子を護れなかった。 あの子もあんたと対決する事を望んでいた。なのに。 どうして鬼道は殺されたんだ。何であんな酷い死に方をしなきゃならなかったんだ。−−とっくに知ってたけどよ。神様なんかいねぇって。だけど。 今はその居もしない神様が憎くて仕方ない。 もしかしてお前もまた、こんな感情を、四十年も抱え続けていたのだろうか。 NEXT |
もう何もかも、遅いと云うなら。