逃げ出したくて、脚が震えた。 でも終わりたくなくて、魂が叫んだ。 泣いて喚いて這いずり回って。 それでも立ち上がる、その訳は。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 1-6:正解、不正解。
本当は、自分は春奈に嫉妬していたのかもしれない。塔子は目の前の少女を見 つめて、湧き上がりそうになる黒い感情を押さえ込む。 彼女は鬼道の妹。たとえ長く離れ離れになっていたとしても、当たり前のよう にそこに血の絆がある。彼と同じ場所から生まれてきたという、絶対無二の証が 遺伝子の中に刻まれている。 だから無条件で愛される。妹として、大事にして貰える。 本当はそんな彼女が、羨ましくて仕方が無かった。自分と鬼道の間には確かな ものなど何一つ無いのに、彼女にはある。それが妬ましいとすら思えて−−そう 思うたび、自己嫌悪に陥った。 春奈は自分にとっても可愛い妹のような存在で、愛すべき後輩だというのに。 彼女を愛しく思う気持ちに、嘘は無いというのに。 何より−−彼女を否定する事は、鬼道を否定する事になる。絶対にしてはなら ない事。不可侵の領域。その場所にだけはどうあっても他人の自分は踏み入れな いし、踏み入ってもならないのだ。
−−春奈。気付いてる?あんたと鬼道の間にだけ存在できる、サンクチュアリっ て奴に。
あるいはホーリーランド。あるいはエデン。その場所が、鬼道と離れている時 間ですら、長く長く春奈を護り続けていた。つまりは、鬼道が春奈を愛し、春奈 が鬼道を愛しているという血と心の絆そのものが。 だが、春奈が今していることは。自らを護ってくれていた聖域を汚し、歪ませ る事に他ならない。塔子はどんなに願ってもその場所に入れないというのに。彼 女は現実の兄すら追い出して、妄想に閉じこもろうとしている。
−−そんな事、あたしが赦さない。
「顔を上げろっつったんだよ。聞こえなかったのか」
春奈は涙を浮かべたまま、視線をさまよわせる。そしてまた、俯こうとする。 だから一喝した。 「俯くな春奈!真正面からあたしの顔見やがれっ!!」 「−−っ!!」 びくりと身体を震わせ、また顔を歪める春奈。お門違いだと分かっているが、 やはり自分は彼女が羨ましくて仕方ない。 実の妹だから。それだけで彼女は無条件に赦されるのだ。鬼道の傍にある事も 。彼の死を遠慮なく泣き喚く事も。その死を否定して逃げる事も。 赦されてはならない場所まで、赦されて。それでは何も解決できやしないのに 、周りの人間が現状維持する事で目を逸らしたらどうなる。 彼女はますます病んでいくだけ。壊れていくだけ。生温い赤の他人の優しさは 、破滅を誘う麻薬にしかならない。
「…鬼道が一番に何を望むか、とか。あんたに何がして欲しいか、なんて。あた しには分からない。死人に口は無いからよ」
ならば自分が。無理矢理にでも引っ張り上げてやる。 鬼道を愛する自分が。春奈を愛する自分が。愛するからこそ、彼女を殴りとば してボコってでも連れ戻す。 現実は残酷かもしれない。しかし、その先にきっと、光があるから。
「だけどこれだけは分かるんだ」
君に届け。この想い。
「あんたがこのまま不幸になっても…鬼道は絶対喜ばない」
天国に届け。この願い。
「俺達がこのまま立ち止まっても、あいつは絶対喜ばない」
土門は皆にそう、ハッキリ告げた。
「きっと滅茶苦茶キレるな。俺がいないくらいでサボるなって」
ぐるり、と。どこか閑散としてさえいるグラウンドを見回す。 風丸。宮坂。栗松。壁山。目金。吹雪。染岡。彼らは皆重たい空気を引きずっ たままどこか下を向いている。それは別に恥ずべき事じゃない。むしろチームメ イトが死んだのを悲しめないようならば、そっちの方が恥ずべき事だ。 本当は土門とて、年甲斐もなく泣き喚きたくて仕方ない。一之瀬が死んだと聞 かされた時もそうだった。悲しくて悲しくて、気が変になってしまいそうで。 延々と後悔し続けた。あの時、飛び出そうとする一之瀬を自分が止めていたら 。そもそもあの日、サッカーをしようと彼と秋を誘わなければ。 だけど、自分を責め続けても、現実は何も変わらなくて。
「昔な。……一之瀬が死んだって聞いた時。俺はサッカー、やめようとしたんだ 」
その話に、初期メンバーがハッとしたように顔を上げる。彼らは一之瀬がかつ て事故にあって瀕死になり、土門と秋がその現場を見ていた事を知っていた。一 之瀬が死を偽装していたのも聞かされていた。 だから気付いたのだろう。土門が−−大事な仲間の死に直面するのが、これで 二度目だという事を。
「…だけど。結局サッカーをやめなかったのはさ…。俺のサッカーの中に、一之 瀬の存在が生きてるって事に、気付いたからなんだ」
サッカーさえなければ。そう思ってボールを捨てようと思った時も、あった。 それが結局、できなかったのは。してはならないと気付いたからで。
「サッカーをやめたら。俺は一之瀬をもう一回殺す事になる。それだけは絶対… 嫌だった」
風丸の唇が、何かを言いたげに動きかけ、また閉じられた。鬼道と付き合いの 浅い宮坂を除く他のメンバーも、似たり寄ったりの顔をしている。 皆それぞれが考えているのだろう。死者は二度死ぬ。されど死者は生きる事が できるかもしれない。 人は想い一つで時に魔法使いになれる。世界を変える事も、死者と歩む事も出 来る。 幸せこそ、最大の魔法だと気付く事さえできたなら。
「俺は今度も、同じように考える」
『土門。雷門に入った今の俺は…帝国のキャプテンでもなければお前達の統治者 でもない』
「俺は、鬼道をもう二度と死なせたくない。…鬼道だけじゃない。もう大事なチ ームメイトを誰一人死なせたくない」
『だから、頼みがあるんだ』
「だから…サッカーをやめない。サッカーから逃げない」
『これからは俺を…お前と対等の存在と思ってくれないか』
鬼道が雷門に来たその日。千羽山との試合の後鬼道が自分に言った言葉を思い 出す。それまで自分は鬼道に対し、尊敬と畏怖からある程度壁を作っていたふし があった。鬼道のその言葉は意外だったが、実は結構嬉しくて。 その日から土門は鬼道を“さん”付けで呼ばなくなった。彼に敬語を使うのも 、やめた。 彼に近付けた事が、彼の隣に立つ事を許されたのを、本当に幸せに思ったもの だ。
「サッカーが、俺達の絆だから。そのサッカーを護る為に…鬼道の誇りを繋ぐ為 に考えたい。俺達に、何ができるのかって」
「サッカーをする事で、それがあたし達の中の鬼道を生かし続ける。その為にあ たし達が、あんたがするべき事はなんなんだ。あんたが一番したい事はなんだ」 「私が…するべき事…」 ぎゅっと胸の前で手を握りしめる春奈。その様子を塔子も、いつもは騒がしい 木暮も真剣な眼差しで見守る。
「私……お兄ちゃんをもう、殺したくない」
握りしめた春奈の両手。その手の上を走るように零れる滴。
「あんなに…苦しい想いして、死んだんだもん。もうお兄ちゃんを…死なせたく ない、よ」
でもどうすればいいの、と。涙をポロポロこぼしながら問う春奈に、塔子は静 かに首を振る。
「それは、あたしが決めていい事じゃない。あんたが自分で考えなきゃいけない 」
父が言いたかった事が分かった。 他人が、どうこうして欲しいと意見を押し付けるのは簡単だ。だが本当に心で 道を選ぶべき時、それで満足のいく答えなど得られる筈もない。 今がその時。春奈が自らの力で未来を切り開くべき時なのだ。残酷な現実すら 、乗り越えて。
「鬼道はサッカーを愛していた。だから帝国に戻るのを遅らせてでも、エイリア と戦う事を選んだんじゃないのか」
自分達は何の為に集った?何の為に戦う? 忘れるなかられ。自分達は史上最強のサッカーチームになる為に此処にいると いう事を。
「諦めるな。此処であたし達が諦めたら、鬼道の愛したサッカーも殺されちまう んだ!」
「諦めるな。此処で俺達が諦めたら、俺達の大事な絆も死んじまうんだ!」
「何の為にあたし達は此処にいるんだ!?」
「何の為に俺達は集まった!?」
「あんたの兄貴の愛した、あんたの大好きな世界を護る為に」
「俺達を結んでくれた、サッカーを護るその為に」
「それに…このままあたし達が、真実から逃げ出したらどうなる?」
「このまま俺達が俯いて真実を知らないまま終わったら」
「鬼道はまさしく犬死にだろうが!」
「それで一体誰が救われる?幸せになれる?」
「「そんなのあいつが望む筈ないっ!!」」
「だからあたしが言いたいのは一つ」
「だから俺が言いたいのは一つ」
「「諦めるな!死んでから諦めろ!!」」
だって。自分達はまだ、生きてるのだから。
さっきより大きな泣き声が。壁山がいつにも増して大きな声で泣いている。他 の皆も。宮坂ですら、風丸と一緒に嗚咽を押し殺している。 その涙の流し方が、さっきまでとは違うと土門は気付いていた。土門隣に立っ ていた照美が一歩前に進み出る。
「私達は前に進まなくちゃいけない。鬼道君だけじゃない。いなくなった全ての 人の想いを繋ぐ為に、私達は此処にいるんだから」
でもね、と彼は泣きそうな笑みを浮かべる。
「その悲しみを、優しさを。忘れちゃいけないよ。絶対に」
照美もまた、愛するものを失う辛さを誰より理解している。彼は強さと引き換 えに、チームメイト達を永遠に失い、自らの未来すら失ってそこに立っている。 それでも尚乗り越えて、立ち続けている。 だから、強いのだ。
「…僕、逃げません」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で。それでも一番最初に口を開いたのは目 金だった。
「最後まで戦います!僕だって雷門の一員なんだ!」
そういえば。目金は一番最初の帝国の試合の時、真っ先に逃げ出してしまった のだっけ。本来けして勇敢な性格ではないのだろう。それでも逃げ出さずに、今 この場にいる彼。それはきっと。 「…俺も」 目元を拭いながら、風丸が続ける。
「逃げない。逃げるわけにはいかない。だって鬼道が言ったんだ。知らない事は 罪じゃないけど…知らないからで赦される事は何も無いって」
『知らない事は罪じゃない。…だが、知らないからで赦される事は何もない』
神のアクアを隠し持ってるんじゃないかと、照美に詰め寄った風丸。その時鬼 道が彼に平手を食らわせて言った言葉を、土門は思い出していた。 本来、とても正義感の強い人だった。だから帝国イレブンは皆その意志の強さ に惹かれて集ったのだ。帝国だけではない。雷門のメンバーもきっと、その強さ に支えられてきた。 今度は、自分達の番だ。 彼が暴ききれなかった真実を。彼を殺めた者達の思惑を。自分達が明らかにす る。その為に、戦う。
「…行こう、真帝国学園とやらへ」
染岡が立ち上がった。他の皆も泣き顔ながらも次々に立ち上がる。
「このまま引き下がってたまるか!!」
魂は、引き継がれる。
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心は、生きる者達の手の中に。