振り上げられる手が怖くて。 浴びせられる声が怖くて。 それでも私は手を伸ばし続けた。 終わりが来るまで、ずっと。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 1-10:楽園、追放。
薄ぼんやりとした記憶の海に、埋没した欠片。微かながら、忌々しいほど鮮明 に残っている景色。 けして思い出したい事ではない筈だ。しかし影山は今、それをあえて思い出そ うとした。ズキリ、と脳の片隅に鋭い痛みが走ったが、無理矢理にでもそれを無 視しようとした。
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』
いつも、振り上げられる手が合図だった。それは素手であったり、ビール瓶や らお盆やらが握られていたりと様々であったが。
『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』
謝る声。泣き叫ぶ声。許しを請う声。 それでも抵抗しなかった。する事が出来なかったと言ってもいい。逆らえば、 痛みを伴う時間を長引かせるだけ。今よりもっと酷い目に遭うだけ。 だからじっと身体を丸めて、あらゆる苦痛に耐える。じっと我慢すればいい。 そうすればいつかはこの時間も終わる。どんなに辛くても、終わると知っている 。 喚きながら叫び、暴力を振るう男が明かりを消す。それが二つ目の合図。暗闇 の中で伸びる手に悲鳴を上げて、耐えろ耐えろと自らにまた言い聞かせる。
−−僕が悪い子だから、いけないの。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさ い。
幼い影山零治は、光の中でも闇の中でもひたすら謝罪を繰り返す。 大好きな父が、いつも優しかった父がこんな真似する筈がない。目の前にいる のはきっと、悪い魔法使いに取り憑かれてしまっているだけなのだ。そう思った 。そう思おうとした。 本当に傷ついているのは自分ではない。誰より傷を負って、苦しんでいるのは 父なのだ。母が病院からほとんど戻って来ない今、父には自分だけしかいない。 息子の自分だけは、父の味方にならなければ。 自分が良い子にさえなればきっと、父が悪い魔法使いに取り憑かれる事もなく なる筈なのだ。 父も自分も大好きな、父がかつて上手だと誉めてくれたサッカー。サッカーが もっともっと上手くなればきっと父は自分を見てくれる。きっと自分を愛してく れる。 きっとまた−−二人で一緒に、笑ってボールを追いかける事ができる。
『サッカーはね、魔法なんだよ。大好きな人と、仲良くなる魔法。一緒に幸せに なる魔法なんだ』
練習がまともに出来なかった雨の日。偶然出逢った一人の女性に教えた、影山 の“白き魔法”。 あの頃緩やかに朽ちつつあった世界で、それでも自分は無邪気な魔法を信じて いた。信じれば、願い続ければ、努力を怠らなければ。どんな夢も叶えられると 信じていた。
『だから僕はサッカーが大好き!』
サッカーが、大好きだった。サッカーは自分と父を繋ぐ唯一の絆だから。サッ カーをする父を見るのが、大好きだったから。 だけど。今はもう、全ては過去形でしかない。 父は自殺し、母も後を追うようにして病死。結局、影山の願いは何一つ叶わな かった。やがて遺ったのは、大好きなサッカーが自分の全てを奪ったという事実 だけ。 信じていた物全てが自分を裏切った。影山は絶望した。次には恨んだ。自分を 裏切った全てを憎んだ。 ひび割れていく白き魔法。 真逆の色に染まる光の魔法。 激情は行き場を無くして決壊し、溢れかえる。まるで血のよう。その真っ赤な 海に溺れて、息ができなくなってしまうその前に−−手を打たなければ、溺死は 免れない。 憎まなければ。怨まなければ。きっと自分は生きて来れなかっただろう。まる で消去法のように選んだ未来。愚かな事だ。惨めな事だ。それでも一体、それ以 外にどうすれば良かったというのか。
『すまない零治…すまない、すまない、すまない…っ!』
散々自分を痛めつけた後、決まって涙を流しながら息子を抱きしめた父。耳に ついて離れない、惨めで哀れなその声。 暴力によってしか他人を愛せない。父をそんな風に追い込んだのもサッカー。 そしてメディア。観客。あらゆる世界。 自分はけして父のようにはならない。なりたくない。少年は冷え切った眼で世 界を見つめたまま大人になった。 理不尽な目に遭いたくないなら、力を得ろ。強くあれ。弱者に価値はない、そ れがこの世界なのだ。父は弱者となったから世界に弾かれた。母は弱者であった から生きていく事が出来なかった。 非情?無情?それが何だ。弱い事が罪なのだ。変えたいなら全ての試合に勝て ばいい、それだけの事ではないか。
−−その為なら、何だってする。とうにこの魂は汚れきっているのだ…今更畏れ る事など何も無い。
まるでファンタジーのような表現だと我ながら思うが。 岐路に立つ影山の前に、ある時一人の魔女が現れて言う。あたしの災禍の力を 貴方にも分けてあげるわ、と。 その魔女が、愉しみだけを望む存在だと、薄々ながら気付いていたが。全てを 変える力の欲しかった影山は彼女の誘いに乗った。そして彼女のくれた“黒き魔 法”で、自分は力ある魂と迷いなき心を手に入れたのだ。 さらに彼女が二度目に現れた時には、今度は“あの方”を紹介してくれた。自 分と同じ黒い焔をたぎらせ、世界を憎悪する魔王たる人を。 エイリア皇帝陛下。 その目的が達せられた暁には、自分の望みもきっと叶えられる事だろう。だか ら影山は裏でかの人に協力し、時には逆に力を借りた。 神のアクアもまた−−その協力の為に用いられた、一つの試作品に他ならない 。
−−終わらせてやろうではないか。サッカーを愛する全ての者達の、御伽噺を。
真帝国学園。掲げられた旗の下で、影山は空を見上げる。青空は未だ見えない 。否、仮に晴れたのだとしても−−恐らく自分はもう二度と、その青を目に映す 事は無いのだろう。 あの雨の日からずっと。ずっと自分の頭上からは降り止む気配がない。 本当の意味で失う時は、いつも雨なのだ。
『総帥!』
記憶の中で響き渡る、よく通る少年の声。 どれだけ傷を負っても、歪んだ情を浴びせられても倒れなかった彼の、決別の 一声。
『これが貴方のやり方ですか!』
本当は。誰より鬼道に見て欲しかった。今の自分を。本物の力というものを。 彼の縋る甘い幻が、いつか確実に彼を裏切るという事を。 そして自分にとっての真の最高傑作が誰かということを。 だが鬼道は−−死んでしまった。エイリアに近付きすぎたゆえに、危険分子と 見なされて消されてしまった。自分に力を与えた、あの魔女の手によって。 元々真帝国学園そのものが影山と不動の独断専行なのだ。文句の言える立場で ない事は承知している。それでも。
−−きっとお前は最期まで…いや、死して尚私を恨み続けるのだろうな。
埠頭に近付いて来る、イナズマキャラバン。その姿を視界におさめ、影山は潜 水艦を浮上させるべく部下達に指示を出す。
−−構わないさ。…理解など…最初から求めてはいないのだから。
期待すれば裏切られる。信じれば必ず喪う。ならば最初からそうしなければい い。 それが自らの保身行動と気付きながら。影山は自らの弱さを振り切るように歩 き続ける。 殻を捨てるにはあまりに、影山零治は闇の深さを知りすぎていた。
愛媛に着いたはいいが。真帝国学園を探し当てるのは骨が折れた。 どうにか精神状態の落ち着いた咲山達の話によれば、愛媛で起きている事件に ついて分かっている事は大きく分けて三つ。 一つ目は、自分達も既に知っている通り、サッカー少年少女達の相次ぐ失踪。 二つ目はその子供達の半分が、埠頭にて姿を消している事。三つ目はその埠頭に て、海坊主を見たなどという目撃情報があるということ。 三つ目の信憑性はかなり怪しいが。その“海坊主”が、何かを見間違えた結果 である可能性はある。どちらにせよ埠頭の方へは調べに行くべきだろう。 問題は、街の人の態度があまりに非協力的だったという事だ。サッカーに関わ る者は神隠しに遭う−−などとまるで宗教のごとく信じてしまっている人もいる ほどである。 おかげで問題の“埠頭”が何処なのか、探す事からまず困難だったのだ。皆が 頭を抱え始めた頃になってようやく、“海坊主”を見たという老人を探し当てる 事ができた。問題のポイントが何処であるのかも。
「影山の奴」
元より気長とは言い難い染岡は、苛々と地面を踏み鳴らす。 「呼び出したのはてめぇの方だろうが。歓迎の用意くらいしとけや!」 「ま、まあまあ」 目金と秋に両側から宥められ、フンッと鼻を鳴らす。まったく、もし自分達が 真帝国の場所を見つけられなかったらどうするつもりだったのか。本末転倒では ないか。 それとも−−鬼道がいたならそれも可能だと。そんな算段であったのかもしれ ない。彼の卓越した頭脳ならば、少ない情報でも自分の居場所を軽く見つけ出し てみせると踏んでいたのかもしれない。 あくまでそれは、鬼道の死が影山の想定外だったとしたら−−という前提では あるが。
−−俺は影山を赦さねぇ。俺達を殺そうとした事も、土門にスパイなんて真似さ せてた事も、鬼道達を苦しめ続けてきたことも。
そして、赦せないのはそれだけじゃない。 影山はエイリアと繋がりがあった筈なのだ。なのに奴は鬼道に、真帝国に来い と誘っていた。その前に鬼道はエイリアの口封じと思しき理由で殺害されてしま ったのに。 この矛盾が何を示すのか、染岡には分からない。そもそも自分は頭脳労働には 限りなく不向きなのだ。 ただ、一つ確かなことがある。それは。
−−もし…もし鬼道を殺したのが影山の意志なら。赦さないどころじゃ、済まね ぇぞ。
自分と鬼道はそう長い付き合いではない。とりたてて仲が良いわけでもないし 、一番最初は敵だった事もあって第一印象も悪かった。最期まで拭い去れない不 信感があった事も、否定はできない。 だけど。彼がいつも陰日向問わず、チームの為に奔走してくれていた事を知っ ている。体調が悪い時も、精神的にきつい時でも、自分達の前ではけして弱った 姿を見せなかった。 立ち続け、皆の支えになる事こそ自分の役目と示すように。 実際、彼の作戦立案力のみならず、存在そのものに自分達は皆救われてきた。 本当はもっと“ありがとう”を伝えるべきだったのに。素直とは程遠い口下手な 自分は、まともに感謝を口にする事もできなくて。 本当は、死ぬほど後悔しているのだ。言えなかった一言が胸にくすぶったまま 、じくじくと現在進行形で傷を抉り続ける。 彼の全てを奪ったのは誰だ。 自分達の本当の敵は誰だ。 せめてそれを知りたくて−−そうでなくば手向ける事もできなくて−−染岡は 此処にいる。
−−俺は円堂達みたく、前向きな理由で立ってるわけじゃねぇ。…だけど。
埠頭の倉庫街。その入り口にキャラバンを停止させ、イレブンは地面に降り立 つ。 ナメやがって。染岡は口の中で悪態をついた。冗談のつもりか、嫌がらせか。 鬼道の、彼らの人生をブチ壊しておきながら。 倉庫街の入り口には、“帝国学園”と書かれた看板と、見覚えのないエンブレ ムが掲げられていた。
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悪夢、再臨。