誰かに助けを求めても赦されましたか?
 誰かに救いを求めても良かったのですか?
 今はもう分からない事だらけですが。
 確かなのは今、私を引き上げる手があること。
 
 
 
 
 
この背中に、
白い
無いとしても。
1-27:あわせな、ゆめ。
 
 
 
 
 
 影山は呆然とその姿を見ていた。
 自分はあらゆるモノを利用し、裏切り、捨て去って此処にいるのだ。今更誰か
の助けなど期待していないし、助けるようなお人好しに心当たりも無い。
 なのに。
 今自分の手を握り、引き上げようとする手がある。
 一体、どうして?
 
「ごめん。本当にごめんね。こんなに遅くなってしまって」
 
 影山の手を握る少年−−聖也はそう言って、はらはらと涙を零した。
 
「四十年も、かかっちゃった。でもやっとやっとまた、君に辿り着けた。この
手を握れた」
 
 温かな雨が、風に舞って影山の手に落ちる。四十年−−何の事だろう。影山は
少年の顔に、全くといっていいほど見覚えがない。
 そもそも目の前の彼は、四十年前に生きていた存在には、とても見えないのだ
が。
 
「思い出して。君が俺に、教えてくれたんだよ。人を幸せにする、とっておきの
力を」
 
 聖也は目に涙をいっぱいに浮かべて、切なげに笑った。
 
 
 
「サッカーは大好きな人と仲良くなる魔法。一緒に幸せになる魔法そうだろう
?」
 
 
 
『サッカーはね、魔法なんだよ。大好きな人と、仲良くなる魔法。一緒に幸せに
なる魔法なんだ』
 
 
 
……!!
 
 それは、影山が幼い頃信じていた魔法。大事に大事に抱きしめ、しかし家族の
離散と同時に捨て去った魔法。
 それを知っているとは−−まさか。
 
「お前キーシクスなのか?」
 
 青みがかった黒髪。切れ尾の、群青の瞳。整った顔立ち。それらには確かに−
−あの頃影山が共にサッカーをしていた、女性の面影があった。
 
「俺は魔女だから。持っている姿は一つじゃないし、君よりもずっと長い時間を
生きてきたよ」
 
 よくよく聞いてみれば声も似ている気がする。女性にしては低めで、青年より
は少し高い、そんな中性的な声。
 信じられない。いや、しかし実際に魔女は存在したのだ。二ノ宮が魔女ならば
、他にも魔女がいても、おかしくはない。
 
「でもね。君は俺が知るどんな魔法より素敵な魔法をくれたんだ。何十年経って
君の事を忘れた日なんて、無かった」
 
 聖也の、影山の手を握る力が強くなる。その温もりが教えた。これは夢でも幻
でもない現実であると。そして。
 
「助けに来たよ、零治。今度こそ、君を助ける。あの時出来なかった分まで、君
を護る」
 
 彼は本気で、自分を助けたいと願っている事を。
 
……何故だ」
 
 声が震えた。情けないくらいに。プライドが山のように高い影山からすれば、
許せる筈もない事。
 しかし今は、羞恥を感じる余裕すら無かった。ただ何故、という疑問だけが脳
髄に満ちていた。
 
「私は君と仲間達を殺しかけたんだぞ。地区大会のあの試合で」
 
 地区大会決勝。帝国と雷門の二度目の戦いで、影山は雷門のフィールドに鉄骨
を降らせるという暴挙に出た。それこそ、雷門イレブンを皆殺しにするくらいの
つもりで。
 しかし、事前に罠を察知した鬼道が円堂に、イレブンをディフェンスラインま
で下げさせたせいで、誰一人落下の下敷きにはならなかった。
 地面に突き刺さった鉄骨が、豪炎寺目掛けて倒れてきた時は、聖也が彼を庇っ
た。結果聖也は脚を粉砕骨折する重傷を負い、以降のフットボールフロンティア
の試合に全く出られなくなってしまったのである。
 恨まれていない筈がない。そう思っていたのに。
 
「でも、結局誰も死んでない。俺が豪炎寺を庇ったのは、豪炎寺を助ける為だ
けじゃなかった。俺なら下敷きになっても、死なないと思ったからなのさ」
 
 少年の眼に、憎悪の焔は無かった。少なくとも影山に向けられるような暗い感
情は、何も。
 
「君にこれ以上手を汚して欲しくなかったから。全てはそんな、俺のエゴ」
 
 何を馬鹿な事を。
 もうとっくに自分の手は血に染まっている。この身体も、魂も、心も、どうし
ようもない程醜く汚れきっているのだ。なのに今更何を!
 そう笑い飛ばそうとしたのに、出来なかった。聖也の身勝手さを嘲る事が、ど
うしても出来なかった。
 この感情の名前も知らないのに。
 
「私は鬼道を追い詰めた。毎日毎日、暴力を奮って傷つけた」
 
 今でも恐ろしいほどハッキリ蘇る。暗い部屋。泣き叫ぶ声。謝る声。自分の怒
声。もがく小さな手足。血の匂い。身体を濡らす朱。
 その日々のせいで、鬼道は一生消えない心の傷を負って。アルルネシアにその
トラウマにつけ込まれ、苦しんで苦しんで死んでいった。
 
「私が鬼道を殺したも同然だ。誰かに赦される資格など、ない。」
 
 影山はハッキリと悟っていた。自分こそが鬼道のあらゆる苦しみの根源であり
、鎖だったのだと。
 自分さえいなければ。自分にさえ出逢わなければ−−きっとあの子は。
 
君は確かに鬼道を苦しめた。でもね」
 
 鬼道、気付いてたよ、と。聖也の顔が悲しげに歪む。
 
「本当は同じだけ、零治が苦しんでたって事も。零治が本当は我が子のように
鬼道を愛してたって事も全部全部、分かってたんだよ」
 
 息を呑む。
 それを聖也が知っていた事も驚いたし、鬼道が気付いていた事にも驚かされた
 
「君はお父さんに、普通の愛し方をして貰えなかったから。同じ事を、鬼道に
してしまってたんだね。愛する事と傷つける事を、同じにしてしまったんだ」
 
 そうだ。そうなのだ−−自分は。
 
そうだ」
 
 影山の視界が緩やかに滲んでいく。
 
「私は鬼道を愛していた。本当の息子のように」
 
 自分は。当たり前のように、普通の父親にならなくてはと思った。しかし、虐
待されて育った子供は、虐待する親になってしまったのだ。
 愛すれば愛するほど手が出た。歪んだ愛は暴力に変わった。躾と称して、恐ろ
しい事もおぞましい事もして。駄目だ駄目だと分かっているのに繰り返してしま
う。
 自分が父にされてきたのと、まったく同じ事を。
 
しかし結局、私はあの子の父親にはなれなかった。あの子を傷つけるだけ傷
つけて、むざむざ死なせてしまった」
 
 あの子をエイリアに関わらせたくなくて。鬼道の愛するモノに少しでも報いた
くて、帝国学園だけは破壊しないよう上層部に進言した。
 でも結局その程度なのだ。自分が彼の為にできた事なんて。
 
「あの子だけじゃない。私は関わる者に不幸ばかり振りまいてきた。私を信じた
ばかりに世宇子の子供達はみんな死に、佐久間や源田も。馬鹿馬鹿しい。何が
幸せの魔法だ」
 
 自分は結局生まれてから死ぬまで、誰かを幸せにするサッカーなど出来はしな
かった。
 願っても願っても、想いの届かなかった父。救えなかった現実に絶望して、全
てを諦めたのだ。
 そう、自分の復讐の本当の目的は、世界を呪っての事じゃない。サッカーを憎
いと思い込む事で、全てを諦めようとしたに過ぎないのだ。
 
「そんな事、ない!!
 
 ハッとする。もう一つ。聖也よりも華奢で白い手が、影山の手を掴んだ。
 
「貴方は私に人を愛する事を教えてくれた!独りぼっちの私に居場所をくれた
世界をくれた!!たくさんの絆をくれ、未来をくれた…!!
 
 照美だった。荒れ狂う潮風に金糸を靡かせ、本当の女神のように、彼はその手
を差し出していた。
 彼を捨てた筈の、影山に。
 
「間違っていた事は、たくさんあったかもしれない。でも何回だって言います。
私は、貴方が教えてくれたサッカーが大好きです…!!貴方だって本当はサッカー
が大好きだった筈です!!
 
『だから僕はサッカーが大好き!』
 
 そうだ。
 結局叶わない魔法だったけど。幻になってしまった魔法だったけれど。
 自分はサッカーが大好きだった。
 彼らと、同じように。
 
「アフロディ、お前は今でも尚サッカーが好きなのか。私に手を差し出すとい
うのか
 
 どうして、なんて聞くだけ野暮かもしれない。
 憎しみより愛を選ぶ。愛の女神の名に相応しく。
 ああ彼はここに来て本当の神になったのかもしれない。偽りの、形だけの神で
はなく。人間として、最高の神に。
 
「恩人を助けたい。そしてサッカーが好きだ。それ以上に何の理由が必要なん
ですか」
 
 誰かを救いたいと願う気持ち。
 何かを、誰かを愛する気持ち。
 ずっと忘れてきた、やっと思い出せた気持ちが、そこにある。
そうだよ、影山」
!!
 照美の後ろから、意外な人物が顔を出した。
 財前塔子。財前総理の一人娘にして、雷門ディフェンスの要。そしてデータに
はあった−−鬼道とは、幼なじみにして特別な関係にある可能性が高い、と。
 
「あんたは、あんたが思っているほど恨まれちゃいない。あんたが犯した罪が消
えるわけじゃないとしても間違った事、たくさんやってそこにいるんだとして
も」
 
 何故彼女が自分を助けようとするのか。鬼道を傷つけ続けてきた自分を、誰よ
り恨んでいて然るべきなのに。
 どうしてそんな−−泣き出しそうな顔で自分を見るのだろう。
「少なくともあたし知ってるんだ。鬼道はあんたを赦してなかったけど、でも
本気で恨んでたわけじゃなかった。今の自分があるのがあんたのお陰だって事も
あんたのおかげでエイリアに帝国が潰されずに済んだって事も気付いてたよ
……!」
「鬼道はあんたを赦したがってた。だからあんたと決着をつけたくて此処に
来たくてでも来れなくて」
 少女の眼に、みるみる涙が溜まっていく。
 
「生きろよ、影山。あたしはあんたを恨んでるけど。鬼道の恩人で、あいつに
サッカーを教えてくれた人に、死んで欲しくない!!
 
 影山のサングラスが外れ、風に飛ばされていった。
 黒いブラインドごしにしか見えていなかった世界が、突然クリアになる。
 自分の手を必死で握る二人の少年がいた。自分を見て涙を流す少女がいた。
 
私はとうに自分はこの世界に必要ない存在と、そう思ってきた。だから反
発して、足掻いてやろうとしたのかもしれない」
 
 やっと気付けた。
 でも全てはあまりに−−遅すぎて。
 
「私にはもはや救われる価値もない。それでも君達は救いに来てくれて、鬼道
もそれを望んでくれたというならそれだけで、充分だ」
 
 影山が何をしようとしているか分かったのだろう。三人の顔に絶望の色が走る
 
「ありがとう。そしてすまなかった」
 
 自分は鬼道と同じ場所には行けないだろう。最期の最期まで教え子達を苦しめ
るなんて、酷い大人だ。
 それでも。これが自分に出来る最期の償いで、けじめ。
 
 
 
 
 
「君達が、生きてくれ。これ以上、誰かを悲しませる事が無いように」
 
 
 
 
 
 悪夢は。
 
 
 
 
 
 悲しい夢はどうか、自分達で終わりに。
 
 
 
 
 
「零治−−っ!!
 
 
 
 
 
 突風と共に、影山は聖也と照美の手を思い切り振り払っていた。彼らの明日を
、途切れさせない事を願って。
 
 悲しい夢に、さよならを。
 
 落下しながら影山零治は静かに眼を閉じた。
 次に巡る世界が、訪れる未来が。
 彼らにとって幸せな夢である事を祈りながら。
 
 
 
 
 
NEXT
 

 

波間に溶けた、最期の祈り。