助けて下さい。 私が私であるうちに。 救けて下さい。 この手が誰かを、殺める前に。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 2-37:細氷、満身創痍。
暗闇の部屋。悪趣味な器具や玩具が並べられたその場所で、モニターの画面だ けが煌々と光を放っている。 流れているのは、イプシロンと雷門の試合。イプシロンが先取点を取り、雷門 はレーゼが負傷退場。どちらが優勢かは語るまでもない。 だが今のガゼルには、画面を見る余裕などあろう筈も無かった。
「あぅっ!」
ガンッと大きな音と共に。壁に叩きつけられる少年の身体。背中を強かに打ち つけ、息が詰まる。 激しく咳き込みうずくまるガゼルを見下ろすのは、二ノ宮の喜悦に歪んだ笑み 。そこに怒りや憎悪といった感情は無い。だからこそ恐ろしい。 ただ“愉しいから”。それだけの理由で他人を痛めつけられる、この女の事が 。
「貴方が強情なのはよく知ってるわ。昔からそうなのよね?」
にこにこと、まるで子供のように笑う。まるで、仲の良い友達とおままごとに 興じる少女のように。 その顔だけを見れば。少年をいたぶり、暴力を振るっている女とは到底思えな いだろう。
「貴方達のデータは把握してるわ。ファーストランク以下の子達は、本来の性格 や性質からだいぶイジってあったりするけど。マスターランクの、貴方は違う」
貴方達だけ昔のままだと知ったら、イプシロンやジェミニの子達はどう思うか しら。 女は弾む口調で続ける。 「ねぇ?想像してみて頂戴な、涼野風介君?」 「やめろ!」 ガゼルはキッと女を睨みつける。
「私を…私をその名で呼ぶな!!」
それは遠い彼方に棄ててきた名前。 力と引き換えに、置き去りにしてきたあらゆる思い出の証明。 何より、自分からその全てを奪ったであろう人物に我が物顔で呼ばれる事が、 自分にとっては何より耐え難い屈辱であった。 自分の全ては、愛する父の為にある。その為ならば何を捨てても惜しくは無か っただろう。だが。 それが−−この女の愉しみがゆえに、無理矢理払わされた代価であったかもし れないと。その可能性が浮上した今ならば話は別なのだ。 父だけだ。父と、自分が捨てた過去を共有出来る者達だけ。 あの名前を呼ぶ事を赦せるのは。
「退屈なほどデータ通りなのね。変なトコでプライドが高いのも。一度決めた事 は意地でも突き通す頑固さも」
怒り心頭のガゼルを、どこ吹く風と言わんばかりに流す二ノ宮。そして倒れた ままのガゼルの前に立つ。 一歩歩くたび床を叩くヒールの音が、耳障りで仕方なかった。
「残念だなんて思ってないの。こう見えてあたし、物事に寛大なのよ。ポジティ ブって言った方が正しいかしらね」
寛大。ああ、ある意味そう言えなくもないな、とガゼルは内心で嘲る。確かに 、基本的に二ノ宮は怒らない。何故なら、予定外な事が起きようが関係ないから 。最終的に自分が楽しめればそれでいいから。 この魔女の目的が、父のような復讐や野望であったなら、どれだけ良かった事 だろう。
「まあ、結論から言うとね」
二ノ宮は涼やかに、流れるような動作で−−思い切り、ガゼルの頭を蹴り上げ た。
「貴方が口を割ろうが割るまいが、どっちでも構わないのよ。だから“コレ”は あくまで、あたしの個人的な趣味と厚意」
ガゼルは悲鳴を上げる間もなく、今度は後頭部を壁にぶつける事になる。蹴ら れたせいで瞼の少し上が切れ、血が吹き出した。 頭の後ろもなんだか濡れている。手を触れるとべったりと赤い色が張り付いた 。ああ、気持ちが悪い。目眩がする。
「もう一度訊くわね。貴方達…研究所のコンピューターにハッキングして、一体 何をしてたのかしら?」
それは、既に何回も繰り返された問いだった。そのたびにガゼルは同じように 答える。
「あんたに、教える事なんか何もない」
来る、と思うのと来た、のは同時。肩口から蹴り上げられ、仰向けに頃がされ て。左肩を、体重をかけて踏まれた。骨の軋む痛みに歯を食いしばる。
「これは厚意と言ったでしょ?つまりはあたりなりの慈悲なのよ?話せばすぐ解 放してあげるし、話さなくても結果は一緒なのに」
そうなのだろう。 実際、彼女は暴力こそ繰り返すが、ガゼルの精神が壊れないレベルの拷問に留 めている。理由は簡単、発狂されたらおもしろくないからだ。 逆に言えば。ガゼルが話さない事で拷問を続ける大義名分が立つ。この状況そ のものが彼女を楽しませているわけであり、ガゼルにとって本意であろう筈もな い。 それでも口を閉ざす理由はただ一つ。
「私は、もう…あんたの命令になんか従わない!」
それが唯一自分に出来る、抵抗だからだ。
「あ、そう」
二ノ宮は機嫌を損ねた様子すらなく。ただ、まるで道端の蟻を踏み潰したかの ような気安さとさりげなさで−−ガゼルの肩を踏み砕いた。
「−−ッ!!」
脳髄を引き裂くような激痛。しかし、ガゼルは意地だけで悲鳴を噛み殺した。 無様な悲鳴など上げて、女にこれ以上の愉悦を与えてなるものか、と。 痣と傷だらけの身体で地面に縫い止められいる様が、既に情けないものである としても、だ。
「じゃ、そっちはもうイイわ。どうせすぐ分かる事だもの。そろそろただ苛める だけも飽きてきたし…」
苦悶から脂汗を流すガゼルの胸元に、魔女は爪先を移動させる。少し力を込め れば、今度は肋骨がイカれる事だろう。 痛みを覚悟し少なからず恐怖を抱きながらも、ガゼルは女に射殺さんばかりの 眼光を突きつけ続ける。 「本題、入りましょうか。貴方に頼み事があるの」 「頼み事…?」 呆れ混じりに返す。ここまで人を散々なぶりものにしておいて、今更頼み事? 「何が望みか知らないが…今更私が聞くとでも?」 「思わないわね。貴方、意地っ張りだもの」 だから、切り札を用意したの。 そう言ってパチン、と二ノ宮は指を鳴らす。すると、黒いコートを着た小柄な 人物が奥から姿を現した。
「……?」
一体誰だろう。エイリア学園の誰かだろうか。顔はフードのせいでまるで見え ない。性別すら分からない。 だが、ガゼルにとって最大の問題は。 その人物が、片手で引きずってきたモノにあったのだ。
「バーン…!!」
それは−−ガゼルと同じように、あるいはそれ以上に痛めつけられ、ボロボロ になったバーンの姿だった。 恐らく、自分よりも先に二ノ宮に捕まり、拷問を受けたのだろう。 こめかみから流れ出した血や、裂けた頬にこびりついた既にドス黒く変色して いる。左手は手首から指先まで血だらけで、よくよく見れば何本かは爪が無かっ た。剥がされたのか−−そう思ってぞっとする。 プロミネンスのユニフォームに隠れて見えないが。服の下が青痣だらけである 事は想像に難くなかった。 「どうし、て…」 「あら?聞いてなかったの?」 意識を失い、床に投げ捨てられたバーンを一瞥し。二ノ宮は言う。
「あたしは言ったわよ。貴方“達”は、何をしていたのかって」
目を見開く。確かに、それは複数形。だが自分は知らなかった。バーンまでも が、二ノ宮に反旗を翻そうとしていた事など。
「この子は、薬品や器具を盗んで、あたしの実験を邪魔しようとしたの。かなり 手荒なやり方でね。そのくせ貴方と同じように、目的については一切口を噤むも のだから」
脚に傷はつけてないから安心して、と。とても安堵など出来る筈もないのに、 そんな事を言う魔女。 ガゼルはただだ呆然として、意識を失いぐったりとした様子のバーンを見る。 酷い怪我。真っ青な顔色。辛うじて命に支障は無い−−そんなレベルの傷だろう 。 早く手当てを、と思って伸ばしかけた手に再び激痛が走る。肩の骨を折られて いた事を忘れていた。
「その様子だと貴方と協力して…ってわけじゃないみたいだけど。罰は与えなく ちゃ、ね?」
はっとした次の瞬間。 胸の中で鈍い嫌な音が響いて−−ガゼルは絶叫した。
「ああああっ!!」
声を上げるとか上げないとか。そんな誓約は吹っ飛んでいた。肋が二三本、折 られた。それでもなお脚を乗せたまま体重をかける二ノ宮に、今度こそ意識が飛 びかける。
「きゃははっ!イイ声で鳴いてくれるじゃない!!それが聴きたかったのよぉ!!」
悪魔。魔女というより、人の皮を被った悪魔だ、コイツは。 やっと脚をどけられて、ゼイゼイと荒い息を吐くガゼル。自我を保てているの が奇跡的だった。息をするたび、胸と肩に酷い痛みが走る。
「随分遊んであげたけど、あなたはまだ動けるわよね?」
何だ。今度は何をする気だ。虚ろな眼で女を見て−−二ノ宮が持ち出した物に 気付き、ぎょっとする。 刃物だ。恐らくとても高価な品だろう。金の柄に細かな細工が施された、肉厚 の短剣。魔女の扱い呪具−−アセイミ。
「お願い、聞いてくれるかしら」
女は刃物をくるくる回して−−バーンの身体を仰向けにすると、ぴったりその 首筋に刃を向けた。
「イプシロンがもし、雷門に負けたら」
ガゼルの顔から血の気が引いていく。 分かった。分かってしまった。彼女の狙いが。
「ガゼル、貴方が彼らを“追放”して」
バーンの細い首筋を、ナイフでスッとなぞる。小さく引かれる赤い線。それだ けでも、ガゼルに絶望を植え付けるには充分で。
「あえて言ってあげる。断れば…この場でバーンの首を切り裂くわ。きっと綺麗 な赤い噴水が上がるでしょうね?」
それは、ガゼルにとっては選びようのない、最悪の二択だった。 是と答えて、イプシロンを彼女の元へ“追放”すれば。良くてジェミニと同じ 処置。悪ければより悲惨な生体実験の道具−−最終的に待つのは死だろう。 そして否と言えば。今すぐにでも、二ノ宮は躊躇う事なくバーンを殺す。その 首筋を切り裂く。頸動脈を切られれば即死は免れられまい。 自分はそう義理堅い性格ではないし、バーンにしろイプシロンにしろ仲が良い かと言われればそれも違うだろう。 でも−−どちらかを見捨てるなど出来よう筈もない。仲間が傷つくのを見たい わけもない。
−−何とか、バーンを連れ出せば…!
その時。偶然にも、二ノ宮の携帯が鳴った。ほんの一瞬ながら、彼女が自分達 から気を逸らした。 今しか、ない。
「ウォーターベール!」
ガゼルは軋む身体に鞭打って跳び、両脚を大地に叩きつけた。瞬間、水流が鋭 い飛沫となって吹き上げ、二ノ宮へ襲いかかる。 今だ、とガゼルが素早くバーンに駆け寄ろうとした、その時だった。
「甘いわねぇ」
二ノ宮の前に現れた魔法壁が。ガゼルのウォーターベールを防ぎ。 「リフレク」 「……!!」 跳ね返された。弾かれた水はまるで矢のように、ガゼルの全身を切り刻む。 今度は悲鳴すら、上げられなかった。
「さぁ、本来ならこれで、貴方も貴方の護りたい人達も皆殺しになるところだけ ど」
もう立ち上がれない。朦朧とする意識の中。ガゼルは聴く。 喜悦に満ちた、魔女の言葉を。
「もう一度訊いてあげる。あたしは優しいから。…ねぇガゼル?」
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何時になれば、朝は来るというの?