その日はとても晴れた日で。 冷たい風の中息を止めたの。 一瞬停止した時、見せられた現実。 時計の針はもう、動かない。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 3-7:かの人の、免罪符。
体中が酷く痛む。まるで骨の中からガンガンと金槌で殴られているかのよう。 その痛みが、メトロンを現実に引き戻した。
「う…ぐぅ…」
僅かに身じろぎするだけでも激痛が走る。うっすらと眼を開き、真上を見れば そこに空があった。夕闇に染まりかけた、逢魔が時。 どうやら自分は生きているらしい。 三階の連絡通路を走り抜けようとして−−トラップに引っかかったのか、ある いは意図的にボタンが押されたのか。橋は爆破され、自分達は真っ逆様に落下し た。 確かに、三階からならば死ぬか生きるかは五分五分だったかもしれないが−− 我ながらしぶといものである。 あちこち傷だらけだ。肋骨が何本もイカレてるのは明白だろう。折れてはいな いようだが脚も怪しい。足首を捻ったのか。 脇腹にはガラス破片のようなものが突き刺さっている。下手に抜くと悲惨な事 になりそうだ。 額を伝う血が鬱陶しくて、どうにか動く左手で拭う。
−−みんなは…?
どうにか上半身を起こし、周囲を見回す。辺りは崩れた連絡橋の瓦礫だらけだ 。もしあの下敷きになっていたら、と想像した時だ。
大きな瓦礫の下から染み出す大量の朱と。
そこから覗いている、頭と手足に気がついたのは。
「……ひっ…ぁ…!!」
喉からはもはや悲鳴すら出なかった。ただひきつれたような嗚咽が漏れただけ で。 手足の肌の色と髪の色。それは丁度二人分。もはやピクリとも動かない“それ ”がケンビルとファドラである事は、明白だった。
「痛いぃ…痛いよう…ッ!」
呆然としかけたメトロンの耳が、少女の泣き声を拾った。メトロンは這うよう にして、そちらに身体を向ける。 マキュアがいた。その脚は有り得ない方向にねじ曲がっている。さらには鋭い 瓦礫が突き刺さり、ぱっくり割れた肉の間からは骨らしきものが見え隠れしてい た。 「マキュア…!」 「メトロン…!あ…ぁ…痛い、痛いの…助けて…!!」 自分も人の事は言えないが、本当に惨い怪我だ。そしてメトロンはさらに残酷 な現実を思い知る。 あの脚では、多分もう−−彼女はサッカーどころか歩く事すらままならないだ ろう、と。
「マキュア!メトロン!!」
瓦礫の隙間から這い出して(どうにか潰される事態は免れたらしい)、気丈に も立ち上がったのはゼルだった。 事切れているケンビルとファドラ。そして無残な姿のメトロンとマキュアを見 て顔を歪める。
「くそっ…酷すぎる…!!」
そのゼル本人はといえば。他のメンバーと比べれば奇跡的なくらい軽傷と言え る。が、あくまで自分達に比べればの話だ。 細かな破片でできた傷は体中にあるし、おそらく左手は折れているのだろう。 嫌な色に腫れ上がり、だらんと垂れ下がっている。
「もう…俺達三人しか残ってない…」
皮肉にも転落したせいで地上、それも建物の外まで辿り着いている。しかし、 まだ研究所の敷地内。黒いサッカーボールの転移機能は使えない。 敷地の外、樹海へ続く門開け放たれている。距離は五十メートル強。普段なら ば、あっという間に走り抜けられる近さだ。 でも今は。もはやまともに走れるのはゼルしかいない。マキュアに至っては立 つ事も出来まい。 その上。
「シンニュウシャ、ハッケン」
あれだけ派手にトラップに引っかかったのだ。防犯システムが作動しないわけ がない。
「排除スル」
研究所の庭は、警備マシンでいっぱいだった。ロボット達は丸い眼に無機質な 害意を漲らせて、イプシロン最後の三人を見ている。 さらに今度は、明らかに殺意にまみれた武器を持っているのだ。夕日を浴びて 、ロボット達の鋭利な爪は、既に血を浴びたかのごとく真っ赤だった。
「どうして…よ…?どうしてなのよ…?」
マキュアが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、叫ぶ。
「どうして!マキ達がこんな目に遭わなきゃいけないの!?何でみんな殺されなき ゃいけないの!?マキ達が一体何をしたっていうの!?」
泣き叫ぶ声がメトロンの胸にも突き刺さる。 自分達の選択を後悔したわけじゃない。ただ、何故こんな事になるまで追い詰 められなければならなかったのが解せない。 それともこれは、罰なのだろうか。 真実に目を逸らして生きてきた、自分達への。 命令だからと、使命だからと、人間達を傷つけてきた自分達への。
−−理不尽だ、と。そう感じる事すら罪なのか…?
自分達は。 当たり前のように生きている事すら赦されないのだろうか。 幸せを、願ってはならなかったのだろうか。
−−違う。そんな筈、ない。
『イプシロンのキャプテン、デザームとして。これが最期の命令だ』
その時。メトロンが思い出したのは、敬愛する人の凛とした声だった。
『生きろ』
絶対なものなど何もない。誰かの何かが必ず正しい事など断じてない。 でも。 矛盾と継ぎ接ぎだらけの自分達の世界でたった一つ信じられるものがあるとし たら。自分達に裁定を下せるものがあるとしたならば。 それは不平等で理不尽な神様でも、自分達を切り捨てた皇帝陛下でもなく。自 分達を最期まで信じてくれた人の意志ではないか。 そしてデザームの元に集った自分達の絆が答えなのではないか。
−−デザーム様は言った。俺達に…“生きろ”って。
それは、単なる命令ではない。 自分達にとって唯一無二の免罪符たる事をメトロンは今ハッキリと理解した。 彼は自分達を赦してくれたのだ。 生きていていいのだと。 どんな悲しい世界だとしても、誰が否定してもそれは−−過ちなどではないの だと。
『頼む。私を…最期までお前達のキャプテンでいさせてくれ』
自分達にとってあの人は神ではなかった。王でもなければ、教祖でもなかった 。 もっと近い場所から自分達を愛し、慈しんでくれた−−親。そんな彼をキャプ テンとするチームは、家族。 最期の最期までそうありたいと彼は願った。そして。
『お前達が私の誇りだ。忘れてくれるな』
誇りだと。 そう言ってくれた。 ならばそれ以上にどんな真実が必要だと言うのだろう。
『ゼル、どうかイプシロンを頼む』
今ようやく分かった気がした。 誇り高きイプシロンの戦士として自分がすべき事が何であるのかを。
「…マキュア」
嗚咽する少女に声をかける。
「お前、デザーム様が…イプシロンが好きか?」
本当は痛みに泣き叫んでいたいのだろう。それでも必死で己を保っているらし い彼女は、泣き塗れた瞳でメトロンを見た。
「…好きだよ」
泣きながらも。 しっかりした口調で、彼女は言った。 「好き。大好きに決まってる!デザーム様もイプシロンも…みんなと一緒にやる サッカーも!!」 「……そうだよな」 メトロンは微笑む。自然に笑みが零れていた。当たり前の事を確認しただけな のに、嬉しかった。体中を苛む痛みを忘れるほどに。
「俺も大好きだ」
大好きで。 心の底から誇りに想う。
「だから、マキュア」
だから。だからこそ。
「此処で、俺と一緒に死んでくれるか」
マキュアが眼を見開く。しかし、彼女以上に驚愕を露わにしたのがゼルだ。 「何を馬鹿な事言ってるんだ、メトロン!?」 「悪いけど、本気だ」 激昂し、肩を掴むゼルの手にそっと触れる。
「デザーム様は言っただろ。お前にイプシロンを任せるって」
その言葉の真意を、本人に問う事はもう叶わない。 解釈は聴く人の数だけあるかもしれない。自分の考えはかの人の本当の願いに 沿うものではないかもしれない。
「だからお前は生きなきゃ駄目だ。何が何でも」
でも自分は、決めた。 己の心に従うことを。 メトロンは知っていた。 それ以上に最善の選択は無い事を。
「客観的に見て考えろ。俺とマキュアはもう大して動けない。こいつらを突破し て敷地の外にはいけないし、樹海を走って奴らを撒くなんてもってのほかだ」
そう、敷地の外に出れば終わりというわけでもない。黒いサッカーボールのワ ープ機能にはクセがあり、使用者が数秒動かないでいる必要がある。 ボタンを押してから転移出来るまでも数秒はかかる。つまり、警備マシンズか ら逃げ回りながらワープする事は極めて難しいのである。
「三人で逃げ切るのは無理だ。分かるな?」
残念だが、自分とマキュアはゼルの足手まといになってしまうだろう。 マキュアには申し訳ないがそれが現実だ。
「俺達が、突破口を開く。その間にゼル、一人でも逃げて欲しい」
こうして会話している間にも、ロボット達はじりじりと包囲網を狭めていって いる。あの鋭い爪で斬りつけられたら、痛いどころでは済まないだろう。 もう体中が充分痛いのに、これ以上痛い思いをしなくちゃいけないなんて−− 本当は嫌だった。何より怖くてたまらない。みんなは命懸けで自分達を護ってく れたのに、情けない事ながら自分はまだ死ぬのが怖いのだ。 でも。闘わなければならない時なのはハッキリしている。今逃げ出したら間違 いなく後悔する事も。
「嫌だ…っ!」
普段、デザームほどではないにせよ冷静沈着だったゼルが。激情を露わにして 叫んだ。
「嫌だ!絶対に嫌だ!!お前達が残るなら私も残る…動けないなら私がお前達を護 るから!!だから…頼む、死ぬんて言わないでくれ!!」
あらゆる苦痛を絞り出すような声。自分の決断が彼をそこまで追い詰め、苦し ませている。 分かっている。それでもメトロンは考えを曲げる気は無かった。
「じゃあ…こうしようぜ、ゼル」
黒いサッカーボールを思い切り蹴りつけた。クロスドライブによって、近付き つつあったマシンの一部が粉々に消し飛ぶ。 ずきり、と胸や腹の傷に激痛が走ったが、歯を食いしばって耐えた。呻いて、 動きを止めている暇など無い。
「お前が無事脱出できたら。その時は…助けに来てくれ。雷門の連中と一緒に… …俺達をさ」
結局、同じ事を言っている。それもさっき以上に卑怯な言い回しを選んだ。ゼ ルも理解はしただろう。それでも彼はこう言ってしまえばNOと言えなくなると知 っていた。 自分達の副将は、本当に優しい男だから。
「…マキュアからも、お願いしていい?」
そして。ずっと黙っていたマキュアも口を開く。大きな眼に涙をいっぱいため て、微笑んだ。
「マキ達、頑張るから。だからきっと…助けに来て。ね?」
ゼルが葛藤しているのは見てとれた。だから自分達は奇しくも同じ台詞−−そ して同じ言葉を叫んでいた。
「頼む、ゼル」
「お願い、ゼル」
「「イプシロンを殺さないで」」
自分達の意志を、希望を繋いで。
「く…ぅ…っ!!」
唇を噛み締め、涙を流して。
「うわあああああっ!!」
ゼルが、走り出した。メトロンはマキュアと顔を見合わせて、互いの涙を拭う 。 これが最期の涙だと、確認するように。
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変わりゆく者と、それを望む者。