信じてきた答えが正解じゃなくてもいい。 君が願うならそれが真実だ。 想いを道標と掲げて歩き続けて。 挫けて転んで、僕等は生きていく。 この背中に、白い翼は 無いとしても。3-23:奈落、落とし。 またあの夢だ。風丸は直感していた。こんな短い期間で立て続けに見るだなんて、一体どういう事だろう。 暗い暗い、奈落に続くかのような道。否、此処が果たして道と呼べるものであるかも定かでない。確かなのは自分は今幼い姿に戻っていて、がむしゃらに何かから逃げ続けているという事だ。 これは夢。幼い頃通り魔に遭いかけたせいで見た、ありもしない過去のトラウマ。その幻。頭では理解しているのに、何故こんなにも怖いのだろう。 逃げても逃げても終わりが見えない。苦痛から解放されない。さながら、ここ最近の自分の心情のようだった。 いや。終わりは、来るのだ。少なくともこの夢がいつもと同じパターンならば−−結末は最初から決まっているも同然である。 逃げて逃げて、足がもつれて転んでも逃げて。だけど。「つかまえた」 喜悦の滲む男の声。パーカーのフードを掴む骨ばった手。 結局捕まる、自分。押し倒され、馬乗りになられ。手足をバタつかせて抵抗しても、子供の力ではどうにもならなくて。 振り上げられる、銀色の光。「いやだぁぁぁぁ−−ッ!!」 いつもなら。男が刃物を取り出してきた時点で夢は終わる。もしくは視点が切り替わって、風丸は幼い自分がメッタ刺しになるのを傍観する形になる。 だが。今回は、違っていた。 夢は終わらなかった。風丸はいつまでたっても風丸のままだった。「あああっ!」 バタフライナイフの細身の刃が、太ももに深々と埋まっていった。ごりごりと骨を削られる感覚。吐き気がするほどの激痛。溢れ出す鮮血を、男は美味しそうに舐めとった。 変態サディストめ。 吐き出したかった罵声は、あまりの苦痛に音にもならない。 男は子供の、みずみずしい脚が大層気に入ったらしかった。ざくざくざく。風丸の太ももばかりを狙って刃は振り下ろされる。時には深く突き刺し、時にはズタズタと切り刻んで。−−やめて。お願い、やめて。 弱々しい懇願。泣き叫ぶ声すら徐々に力を無くしていく。−−やめて。やめてよ。もう走れなくなっちゃうじゃないか。 昔から走るのが好きな子供だった。走り続けたら風になれる気がしていた。速さがあれば、誰かに追いつき、追い越すなど容易い。速さがあれば誰にも負けない。何だって護れる。そう、信じていたのだ。 そして。脚が早ければ勝てた。大好きな円堂とする、大好きなサッカーだって−−。−−…サッカー? 激痛を僅かに意識から逸らしたのは、疑問だった。どうしてサッカー?どうしてそう思った?自分は中学に上がるまで、まともにサッカーなどやった事は無かった筈だ。 確かに昔から円堂と遊んでいたし、幼なじみと呼べる間柄ではあったけど。小さな頃は円堂もサッカーを禁止されていたわけだし、彼とサッカーをやった事などある筈もない。 なのに。何故今、そう感じた? 小さな頃から円堂とずっと一緒にサッカーをやってきた、だなんて。−−この夢は、俺が小さな頃…通り魔に襲われかけたのが原因で見てる。その筈なのに。 何かが、おかしい。 通り魔に遭った頃、自分はろくにサッカーボールに触った事などないし。そもそも、あくまで襲われかけただけで、こんな風に刺された事なんてない。 あったら今、生きているわけない。 なのに何故こんなにリアリティのある夢を繰り返し見るのだろう。ありもしない過去だというのに。「ぐぅっ…!」 男は、刃物で大きく風丸の太ももを抉った。肉が避け、血管や筋が千切れ、骨が露出するほど凄まじい傷。こんなに痛いのに−−自分はまだ、意識がある。 この次はどうなるか。否が応でも思い知る。男は血で滑るナイフを愉しげに眺めた後、今度は風丸の左肩に突き刺した。「−−ッ!」 脚をなぶった次は腕。肩を刺し二の腕を刺し手の甲を刺しまた肩へ戻る。みるみる原型を失っていく風丸の左腕。 わざと急所を外して、風丸が苦しむのを楽しんでいるのだ。吐き気がした。弱い者をなぶって、いたぶって、悦に浸る臆病者。これも人間の一面かと絶望したくなる。 趣向を変えてか、男は次に腹のあたりに刃を走らせた。柔らかな下腹に埋め込まれる金属。内臓をかき回されるのは激痛なんてレベルじゃない不快感だ。 刺したナイフを引き抜き、男は傷口に顔をうずめた。風丸の腹にぐいぐいと顔を突っ込んで舐めまわす。溢れ出る赤が美味しくて堪らないといった様子で。 あまりの壮絶な光景と痛みに、風丸の脳は現実逃避を始めていた。今殺されていく、まさになぶりものにされているのは自分じゃない。全く見知らぬ子供に違いないと。自分もまた発狂し始めているのだろうか。 内臓をしゃぶって、きまぐれに左腕を刺して。男は暫くそれを繰り返し続けた。風丸は不思議でならない。何故自分はまだ死ねないのだろう。 助けて、と弱々しく呟いた唇から血泡が零れた。早くこの苦痛から解放してくれるなら、それが死でも構わなかった。 やがて、その時は来る。 失血で朦朧としてきた意識の中。血でぬらつく刃先が滑るのが見えた。左肩を狙った筈の刃物は、風丸の左胸を貫いていた。つまり、心臓を。 さっきまでとはまるで違う、噴水のように血が噴き出した。男は風丸の胸から迸った紅を頭から被る。即死。その筈なのに、風丸はその瞬間を理解していた。やっとこれで、終わったのだと。 そう、終わった筈だった。実際その一撃を最後にあらゆる苦痛は消え去り、風丸の体は生き物のそれから死体に変わったのだから。 なのに、その後の光景が見える。メッタ刺しにされ血の海に溺れて眼をぽっかり開けて死んでいる幼い風丸を見て、男がぶつぶつ呟いているのが聞こえるのだ。「失敗だ失敗だ失敗だ失敗だ…」 口回りについた血を舌先で味わいながら、苦い表情でぼやきを漏らす。そこに、人一人殺したという罪悪感は一切感じられない。 あるのは常軌を逸した、狂気のみ。「ツギは、もっとうまくやらなくちゃ」 うっかり殺してしまった。もっと楽しむつもりだったのに失敗した。次はもう少し手加減して刺さなくちゃ。さしずめ、そんなところだろうか。 理解出来ない。理解したくもない。「…あ?」 唐突に男は風丸の遺体から目を離し、立ち上がった。ぐるり、と振り向いて−−ぞっとする。男の痩けた頬が紅潮し。唇の端がニィ、とつり上がったから。 その視線の先に居たのは。「か、ぜ…まる…?」 まだ幼い、円堂守。−−駄目だ、円堂。 風丸は叫んだ。叫んだつもりだった。−−逃げろ。逃げるんだ、早く!! だが声になる筈もない。自分はもう死んでしまっている。喉が動かないばかりか息もできない。刃物で割られた心臓が鼓動を刻める筈もない。 風丸の叫びは、円堂には届かない。「…ま……か…っ…かぜ…る…っ!!」 ひきつれた悲鳴。ガタガタと震え、膝をつき、円堂は死んだ風丸に手を伸ばす。「かぜ、まる!風丸!!風丸ッ!!あああああっ!!」 何度も何度も友の名前を呼びながら。泣き叫び、すがりつくその姿が風丸の胸を抉る。−−ごめん。ごめん、円堂。 そんな風に、泣かせたくなんてない。 彼の涙なんて、見たくなかったのに。−−俺、死んじゃったよ。ごめん。ごめん…っ。 大嫌いなんて言わなければ良かった。 喧嘩の上でつい口を滑らせただけだとしても、言っていい言葉ではなかった。死んだ後までも後悔する事になるだなんて、思ってもみなかった。『円堂なんか…大っ嫌いだ!』 嘘だ。大好きだったんだ。 彼と一緒にいる毎日は楽しくて、それが当たり前過ぎて分からなかったこと。円堂は最高の親友だ。彼とするサッカーは最高だ。 だから。−−もし、神様なんてものがいるなら…お願い。 円堂を、助けて。 男が血まみれの刃物を持ったまま、ゆっくりと円堂に近付く。円堂が新たなターゲットになった事は明白。その狂った笑みが全てを物語っている。 逃げて、という声は声にならない。円堂は泣き叫んで風丸の遺体に縋り続けている。それを成した加害者が振り上げる刃にも気付かない。−−お願い。円堂を、殺さないで! 心の中で風丸が絶叫した時だ。男の身体が不自然な形で吹っ飛んだ。まるで見えない手で殴り飛ばされたかのように。「赦さ、ない…」 じわりじわり。円堂から立ち上るのは、金と黒の入り混じったオーラ。具現化されたものを見て、風丸は眼を見開いた。「風丸を…返せぇっ!!」−−あれは…ゴッドハンド…!? だが、自分の知るそれより遙かにまがまがしい。あれは一体。こんな闇の気配を、まさか円堂が。 あれでは、まるで−−!「風丸!」 はっとした。世界は突然ひっくり返り、風丸は慌てて身を起こしていた。 身体は、動く。自分は死体じゃなくなっている。そして目の前には−−心配そうな円堂の顔。−−また、円堂に起こされたのか…。 この間とまったく同じパターン。違うのは悪夢の生々しさと、いつもの続きまで見てしまった事。 全身が冷や汗でびっしょり濡れている。怖かった、本気で。途中から夢だということを忘れていたほどに。−−なんて、夢だ。 昔から見る悪夢とはいえ。普段の何倍も悲惨で、後味の悪いものだった。「ちょ…大丈夫か風丸?」「だ、大丈夫、だ…」 思わず身体を抱きしめて、吐き気に耐える。生きたまま。骨を削られる触覚。肉を抉られる激痛。刃で腹の中身をかき回される、文字通り内腑の底から湧き上がる不快感。 そして。 目の前で友達が襲われかけても何も出来ない無力感と、円堂から感じた有り得ないほどドス黒いオーラ。 こんなにも鮮明に思い出せてしまう。所詮夢。有り得ない光景だというのに、どうして。−−なんで、こんなに不安になるんだ。「風丸?」 円堂の訝しげな顔。泣いてなどいない。きっと鬼道が死んだ時は泣いただろうけど。一人で泣いている時もあるのかもしれないけれど。 また彼が泣くんじゃないか。泣くような出来事が起こるんじゃないか。あの夢は何かの暗示だったのではないか−−そんな事を思ってしまい、たまらない気持ちになる。「…大丈夫」 嫌だ。もう、これ以上の悲劇なんて。「大丈夫だから」 風丸は己に言い聞かせる為に言葉を口にした。円堂はその言葉にますます不安げな顔をする。「…悪い夢で魘されてたのは、二回目だよな」 風丸が悩んでるは知ってるんだ、と円堂は言う。「些細な事でもいいからさ。ちゃんと相談してくれよな。…仲間だろ?」「…ありがとう」 そんな顔はして欲しくないけれど。その気持ちだけは、受け取りたい。 大丈夫だ、ともう一度心の中で繰り返す風丸。 大丈夫。自分は死んでないし、これから死ぬとしてもそれはずっと先の話だ。惨劇を防ぐ為に、自分達は此処にいるのだから。NEXT |
醒めない夢の、意味は。