引き金を引きなさい、弱き者よ。 かの人を想うならば地の果てだって追っていきなさい。 それでもまだ逃げるなら、臆病な背中を私が撃ち抜いてあげる。 気付いてた?思い出に縋ってるのはどちら様? この背中に、白い翼は 無いとしても。4-4:哀の、芳香。 階段を駆け下りる足は、どんどん早くなる。暗い踊り場を抜け四階へ。そしてさ らに何かから逃げるように三階へと。−−夏未さんに…酷い事言っちゃった。 秋の頬を、ぽろぽろと涙が伝う。−−私だって…円堂君の為に何一つ、してあげられないのに。夏未がどれほど円堂に恋い焦がれているか知っている。その想いがどれだけ真摯 で、切実なものであるのかも。だからこそ、言わなければならないと思った。自分が本気で好きになった人を、 あれだけ愛してくれている彼女だからこそ。 目を逸らさないで。円堂のありのままを受け止めて、と。−−でも、分かってるの。それは本当はとてもとても辛い事だって。誰だって、恋した相手の一番好きな姿がある。好きであればあるほど、その姿を 長く置きとどめておきたくなる。そうではない姿を見て、失望してしまうのが恐ろ しくなる。自分とて例外ではないのだ。ただ秋は、己の醜さを熟知していた。その上で円堂 の全てを受け入れる覚悟を決めた。本当の愛は、その先にこそあるものと知ってい たから。−−だからこそ…本当は、円堂君をあのままでいさせちゃいけないのも分かって る。ただぶつかり、諭す事が優しさではない。時としてその行為は、容易く押し付け へと変わるからだ。静かに、傍で待つのも必要な事だと知っている。でも。あの姿は円堂自身すら本当に望んだ姿じゃない。そして何より、あのまま では衰弱死すらあり得るのだ。何かをしたいと思って逢いに行ったけれど。夏未に逢った事で、結局本人には逢 わずに引き返してきてしまった。いや、もしかしたら夏未がいなくても、自分は円 堂に逢わなかったかもしれなかった。 心が折れかけているのは、円堂だけじゃない。「秋」不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。いつの間にか自分は二階の廊下まで降りてき ていたらしかった。 一之瀬が、小さく笑みを浮かべてこちらを見ている。「円堂には、逢えた?」さすが幼なじみと言うべきか。すっかりお見通しらしい。秋は無理矢理笑顔を作 る。「ううん。…引き返してきちゃった。夏未さんもいたし」 嘘では、ない。ただその夏未も結局、円堂には逢わなかっただろうというだけで。「秋…いいよ」「え?」「うまく、言えないんだけどさ」一之瀬は頭を掻いて言う。それは昔から、一之瀬が何かに困ったり煮え詰まった 時の癖と知っていた。「無理して、笑わなくていいよ」 一瞬。声を亡くす、秋。「辛いのは自分だけじゃないから、とか。みんな辛いんだから頑張らなきゃとか思 ってるんだろうけど。…俺や土門の前でくらい、楽にしてればいいじゃん」ね、と笑う一之瀬。彼だって辛い筈だった。なのに、自分のことをこんなに気遣 ってくれる。優しくしてくれる。 だから。だから、自分は。「…相変わらずだなあ」思い出す、その感情。実のところ今でさえ完全に失ったわけじゃない、鮮やかな 色。「一之瀬君、変わらないね。優しいとこ、変わってない」 秋は、目を閉じて。一つ大きく息を吐いた。深呼吸して、大好きな人−−それが恋人でも家族でも友達でもいい−−の笑った 顔を思い出す。そうすると、気持ちがすっと溶けて軽くなる。かつて一之瀬が教え てくれたおまじないだった。 今考えたのは円堂の顔ではなかった。 小さい頃いつも隣にあった−−一之瀬の、笑顔だった。「私も…もっと優しい人間になれたらなぁ…」小さな呟きを拾われたのか、一之瀬が僅かに眉を顰める。多分彼は、秋は優しい 子だよ、と言ってくれる。そうじゃないと知っているのは秋自身だけだ。自分ほど残酷で身勝手なエゴイストはいまい。なんせ、何一つとっても己のこと しか考えていないのだから。「優しく、なりたいな」 優しく。そしてもっと、強い子になりたい。「そうしたら、もっと誰かの為に、何かができたのに」 悔いているのは円堂に対してだけではなかった。 風丸に対してもそう。 ヒロトに対してもそう。 雷門の仲間達みんなに対してもそう。 自分はいつだって、無力だ。「秋は、悔いてるんでしょ?」 ぽん、と温かな手が肩に置かれる。見つめた先、穏やかな一之瀬の瞳があった。「悔いて、誰かの為になんとかしなきゃって思うキモチ。それがある人間が強くて、 優しいってことだと俺は思うよ。だから…」 少しだけ。優しい一之瀬の瞳が、辛そうに伏せられる。「大丈夫。秋はもう、とっくに“優しい子”になれてる。少なくとも、悔いる事す ら諦めかけてる俺なんかよりは」「一之瀬君…」 なんだか、既視感を覚えて、つい自然に笑ってしまった。「え、秋?」「ふふっ…いいの、何でもない」ちょっと申し訳ないと思う。一之瀬だって真剣に悩んでると分かっている。でも、 彼の言葉で安堵してしまった自分がいるのも確かなのだ。自分より誰かの方がずっと凄い。だからなんとか足手まといから脱却しなけれ ば、と。そんな焦燥と無力感を抱えていたのは自分だけではなかった。一之瀬もま ったく同じ事を考えていたなんて。 いや、多分。一之瀬だけではなくて。「…ね、一之瀬君。今更なんだけど、ね」秋がその話をしようと思ったのはきっと。これ以上、後悔したくなかったからな のだろう。「私の初恋の人、一之瀬君なの」今日伝えなくても明日伝えればいい、なんて。もうそんな浅はかな事は思わない。 今日と同じ明日など絶対に来ない。無限に続く幸福なんてない。 だから言うべき時を、誤らない。「私…“私”が一之瀬君を好きになった理由が今、すごくよく分かる」 カッコイイから、だけじゃなかった。 優しいから、だけでもなかった。一之瀬一哉はフェニックスだ。何度燃え尽きても翼が折れても、諦めずに空へ挑 み続ける。舞い上がり続ける。その心の美しさに、自分は惹かれたのだ。 多分リカは、そんな一之瀬の持つ“強さ”を、直感的に見抜いたのだろう。「だけど…私じゃ、一之瀬君を幸せにしてあげられない。だって私達、似すぎてる んだもの」「……そうかもね」一之瀬は否定しなかった。彼も薄々気付いていたんじゃないだろうか。秋と一之 瀬の組み合わせでは、何かを変える事は難しい、と。 だけど。だからこそできる事もあるのだろう、と。「…それに。一之瀬君の一番は、私にはならないから」ぎゅっと、一之瀬に抱きつく。深い意味があるようで、何の意味もない行為だっ た。未来に進む儀式でありながら、過去を断ち切るには至らない行いだった。一之瀬がまだリカに対して、恋愛感情を抱くレベルにないことは分かる。でも、 彼を幸せにできるとしたら、それは彼女以外には有り得ない。一之瀬は、本当の意 味でもう、秋を見ていないから。 自分が今、一之瀬を一番に見ていないように。「…秋」 小さく息を吐く一之瀬の顔は見えない。でもその声は、穏やかだった。「ありがとう」何に対しての“ありがとう”だろう。もしかしたら一之瀬自身にもうまく説明出 来ないのかもしれないけれど。「きっと大丈夫だよ、秋」 そっと身体を離し、見つめ合う互いの顔は、どこか晴れやかだった。「出来る事は、必ずある」 秋も、今度ははっきり頷く事が出来た。こんな不器用でエゴイストな自分達だけど、愛する事の意味を誰より理解できて いるから。 きっと、なんとかなる。 考えればいい。自分なりの方法で、救う未来を。「うーん…」階段の影。壁にもたれかかって、リカは意識して独り言を言う。わざと言葉にし た。しなければ、挫けそうだったから。「デバガメする気やなかったんやけどなぁ…ホンマにタイミング、悪すぎるわ」もう二階の廊下には、誰もいない。一之瀬と秋は既に立ち去った後だ。だからリ カが何を呟こうと、それを彼らに拾われることはない。「かなわんなぁ…」二人の話の全てを聴いていたわけではなかった。むしろ内容的には殆ど聴いちゃ いない。でも、リカはそれを見てしまった。二人が抱き合っているところを。秋に 優しい言葉をかける一之瀬を。なんとなく予想していたことだ−−一之瀬と秋が幼なじみだと知ってから。秋を 見る一之瀬の眼が、どこか慈しみに満ちていると気付いてから。それでも−−これはほぼフラレ女王の直感というヤツだったが−−彼らの間に は不思議な壁があって、恋人同士の間柄でないことは分かっていたから。自分にも まだまだチャンスはあると、楽観視していたのだけど。「ダーリン…無理して笑っとった」 恐ろしく演技上手な彼だけど。辛い辛いと叫ぶ心を押し殺して、笑っていた。 それが自分の役目だと云うように。「でも、擦り切れて擦り切れてどうしようもなくなった時…一番に頼れる存在は、 ウチやなかった」一之瀬が本当の意味で秋を好きかどうかは分からない。恋心ではなく、それは一 番近しい異性の親友という意味なのかもしれない。それは秋の側にも言えること だ。彼女が恋愛的に一番好きでいる存在が円堂であることは明白だから。そう。この気持ちは嫉妬より、己に対する失望だ。秋と一之瀬が恋仲であるか否 かが問題なのではない。一之瀬が頼りたい仲間が自分でなかった事がショックだっ たのだ。「涙が、出るわ」確かに自分は秋に比べ、あまりにも一之瀬との付き合いが浅い。時間も長いとは 言えない。まだまだ自分が一方的に彼にへばりついている段階だと分かっている。でも彼は自分の雷門入りを認めてくれた。仲間として迎えてくれた。だから−− 少し、ほんの少しだけ自惚れていた事は否定出来ない。 一之瀬のすぐ近くに赦されるようになっただなんて、まったく夢を見過ぎてる。「こんなに、こんなに…好きやのに」愛するだけじゃ。護りたいと願うだけじゃ駄目なのか。まだまだ足りないものが 多すぎる。焦りばかりが募る。自分達の時間は無限ではないのに。「…何してんの、リカ」「……小鳥遊」 たまたま一階から登ってきた小鳥遊に、怪訝な顔をされた。「ブツブツ独り言喋っちゃって。気持ち悪いんだけど?」あまりにハッキリ言ってくれるもんだから−−ついつい噴き出してしまった。隠 し立てせず、ズケズケものを言ってくる彼女の気質が、嫌いではなかった。気を使わなくて楽でいい。もしかしたらリカが今一番素直に接する事が出来る相 手かもしれない。「いや、な」 そういえば、と思う。そういえば小鳥遊にもいたのだっけ。気になって気になって−−本人は認めやし ないだろうが−−護りたくてしょうがない、そんな男の子が。「恋って幸せやけど、なかなかめんどくさいな−って話」 何ソレ、という顔をする小鳥遊に。リカは、さっきまでのことを話してみる。 ぐだぐだ悩むのは性に合わない。考えるのは、動いてからでいい。 NEXT |
この腐った世界で、まだ成し遂げていないこと。