こんな筈じゃなかった。 こんな事は望んでなかった。 繰り返し繰り返し悔やんで。 僕等はそれでも、生きてく。 この背中に、 白い翼は 無いとしても。 4-8:素晴らしき、この世界。 一人きりの音楽室。ぽろん、と鳴る柔らかな音。 吹雪がピアノの鍵盤に人差し指を乗せた事に、深い意味はない。ただ、懐 かしく思っただけだ。音楽が大好きだった父、ピアノをよく弾いてくれて。 父の弾くピアノがアツヤは大好きだったな、と。 二人が大好きだった曲。一つや二つじゃない筈なのに−−今はもう、思い 出せない。一人じゃ弾けない。歌えない。 孤独はこんなに怖いものだったんだと、今更ながら思い出す。 −−前に進むって、決めた筈だったのにな…。 まただ。またしても自分は立ち止まっている。円堂は自分が必要だと言っ てくれた。頼ってくれた。なのに自分はその期待に何も応えられない。いざ 彼が辛い時、自分の事で手一杯で支えにもなってやれない。 なんて酷いチームメイトだ。 「風丸君…」 自分と同じように、あるいは自分以上に思い悩んでいたであろう風丸は、 立派に己の答えを示してみせた。文字通り身体を張って誇りを護った。命賭 けで自らのサッカーをやり遂げてみせた。 結果は関係ない。どんな負け試合だったとしても関係ない。試合の中で彼 が見せた勇姿は、誰の胸にも鮮烈な輝きを残しただろう。なのに自分のした 事はなんだ。ストライカーの役目も果たせず、一点をもぎ取る事も叶わず。 『悩んだって惨めに嫉妬したっていい。どんな事だって意味は絶対あるし』 −−意味はあるって。君はそう言ったけど…風丸君。 『大丈夫。心配するな』 −−悩んでも。前に進めなきゃ、意味がないよ。 『お前は独りなんかじゃない』 −−そう笑ってくれた君を僕は…独りきりで逝かせてしまった。 分からない。 どんなにぐるぐる回っても終わらない。 いつまでもいつまでも、悲しいまま。光は射した瞬間に、途絶えてしまう。 −−やっぱり。僕は…この世界で生きてちゃいけなかったんだろうか。 「吹雪君?」 はっとして吹雪は顔を上げた。引き戸を開ける音も足音もしていた筈なの に、気付けなかった。 目の前に照美の顔がある。じっとこちらを見つめている。 「考え事の邪魔、しちゃったかな?」 困ったように笑う。ああ、また。心配させてしまった。 「…ううん。大した事じゃない、から」 あれ。おかしいな。 笑顔を作るのって、こんなに難しかったっけ。 「吹雪君、嘘、下手だよね」 「……」 「私と同じだなあ」 はにかむ照美の向こう。窓の外が、いつのまにか真っ暗になっている。ま だ日の落ちる時間じゃない。どうやら夕立が来るようだ。 嫌だな、と思う。雨が、じゃない。雷の音が嫌いだった。雷門イレブンの シンボルは稲妻なのに。 落雷の音は否が応でも思い出させる。全てを失ったあの日の−−雪崩の音 を。 「…アフロディ君は、どうしてここに?」 気持ちを切り替えたくて、無理矢理話題を振った。少女めいた容姿の彼だ と、君付けするのも違和感があるな、なんて思いながら。 そんな吹雪の考えを知ってか知らずか、照美はにっこり笑って言う。 「ピアノを弾こうと思って」 「…弾けるの?」 「一応ってレベルだけどね。技術はともかく、絶対音感ってヤツはあるみた いだよ。寒くなると、楽器の音ってどんどん低くなっちゃうよね。管楽器や 弦楽器が特に顕著だ」 「そうなんだ?全然分かんないや」 イメージが合いすぎだ。つい教会でオルガンを弾く照美を想像してしま い、吹き出してしまう。その背中に何もない時でも、天使の羽根が見えるよ うな人間。それが吹雪の中の亜風炉照美という人物だった。 「ちょっとだけ話したっけ。…総帥に拾われる前。僕はある男の商売道具の 一つだった。奴隷って言った方が正しいかな」 照美の抱く、重たく冷たい過去。思い出したい事ではないのだろう、少し だけ苦しげに、眉が潜められている。 「そこで…まぁ、音楽好きの客に売られる時もあって。ピアノやら何やらの 基礎的な技術を教わったんだよね。最初は音符どころかカタカナも読めなく て苦労したなぁ…まだちっちゃかったし」 ろくにカタカナも読めない頃に、親の愛も知らずに生きていた少年。胸が 痛くなる吹雪。彼に比べたら自分は−−自分を不幸だなんて、思ってはいけ ないのだ。 自分には家族に囲まれた幸せな時間があったのだから。 「一つ。好きな曲があるんだ。誰かに押し付けられたんじゃなくて…私の意 志で」 細く白い指先を鍵盤に乗せる照美。ぎしり、と使い古しの椅子が軋む。 「ね。せっかくだから、聴いてくれないかな。是非君に聴いて欲しいんだ」 特に断る理由は無かった。天使のような容貌の彼が奏でる音色に、純粋に 興味を抱いたのもある。 吹雪が頷くのを見て、照美は鍵盤に指を滑らせた。緩やかな前奏が音楽室 の空気を震わせて−−彼は謡い出したのだった。
|