護るべきを壊して。 一つ息を吐いて、諦めに嗤う。 君が幸せなら他に何も要らない。 君を見れないなら、この眼も要らない。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 4-18:絶望の、魔術師。
これは何の夢だろう、と源田は思う。夢である筈だ。こんな記憶、自分 にはない。こんな出来事は無かった筈なのだから。 夢の中の場所は、帝国学園。影山の部屋である事はすぐに分かった。こん なだだっ広くて寂しい場所を自分は他に知らない。 その景色の中、源田は険しい顔で歩いている。目的地が何処かは明白だ。 影山は椅子に座り、どこかつまらなそうな顔でパソコンを眺めていたから。
『…何の用だ、源田』
少し距離を置いて。影山と対峙する源田。
『……何の用か、なんて。既にお分かりなんじゃないですか、総帥』
語る源田の顔は険しい。徐々にその感情が、見ている源田の方にも流れ込 んでくる。 ああ、そうだ。これは怒り。理不尽な現実に対する、そしてそれを行った 目の前の男への、憤りだ。この時の自分は、いつになく冷静さを欠いていた。 いや、仮に冷静だったとしても−−同じ事をしていたかもしれない。 限界だった。何もかも、全てが。
『…鬼道は自分では何も語らない。貴方が語れなくしていると言っていい。 だけど…』
ぎらり、と音がしそうなほど苛烈な視線を投げつける源田。
『だけど!帝国イレブンはみんな知っている…!!貴方が鬼道をどんな目に 遭わせているか、そのせいで鬼道がどれだけ苦しんでいるか…!!』
鬼道が“鬼道”になる前−−身寄りをなくして孤児院にいた頃。彼の素晴 らしいサッカーセンスを見初めて鬼道財閥に推したのが影山だった。同時に 影山は鬼道の教育係になり、忙しい義父よりずっと長い時間を鬼道と過ごし てきたと聴いている。 だが影山は−−どこかが決定的に歪んでいる。 彼の手腕は認めよう。作戦立案力、指揮能力、管理能力に対応力−−どれ をとっても天才的だ。自分達の実力を謙遜するわけではないが、影山の指揮 あってこその帝国と知っている。そういった面では自分も彼を尊敬してい る。 でも、それとこれとは話が別なのだ。 影山の鬼道への“教育”はあまりに度を超している。普段から課すハード ルが凄まじく高いのは勿論、躾と称した暴力が日常的になっている。中には 言葉にするのもおぞましい“罰”もあると知っている。 源田には理解できる筈もない事だった。鬼道を選び、育てる事を決めたの は影山本人の筈である。なのに何故、過剰な暴力で痛めつけようとするのだ ろう。鬼道ほどの才能をあっさり潰して、特になる事があるとは到底思えな い。 鬼道はもう、ボロボロだ。彼が仲間の干渉を嫌がるのは知っていたから今 まで黙っていたけれど。さすがにもう、限界だ。傷だらけ、火傷だらけで− −今日高熱を出して倒れた鬼道を見て。源田の堪忍袋の尾はついに切れたの である。
『これ以上、あいつを傷つけないで下さい…!それが出来ないなら、俺達の 前から消えて下さい!!』
皆が自分を温厚な人間と思っているのは知っている。実際源田は滅多に怒 らないしかなり気が長い。自分でもそれを自覚している。 だから多分−−人生で初めてだったのではないだろうか。ここまで誰かに 対して、憎しみにも近い怒りを抱いた事は。
『…貴方に』
源田は一つ、大きく息を吐く。
『感謝すべき事もたくさんあると分かっています。自分が今とても無礼な態 度をとっている事も』
無理矢理感情を落ち着けようと、努めた。そうでなければすぐにでも影山 に殴りかかってしまいそうだったからだ。
『それでも…赦せない事は、あるんです』
感謝しているのは嘘じゃない。でも、いくら恩人とはいえ、大切な仲間を 理不尽な暴力で傷つけていい理由にはならないのだ。
『俺には貴方が分からない。貴方が何を考えているのか、何故鬼道をあそこ まで追い詰める必要があるのか…!』
影山の虐待から鬼道を救い出したい。あまりに悲しい現実から、悪い夢で あれと願いたくなるような事実から助けたい。だから自分は今、ここにいる。 もう後悔しない為に。 その覚悟は何も鬼道の為だけではない。鬼道のあんな姿を見せられ続けて 精神的にズタズタになっている佐久間達の為、ひいては自分の為だ。 せめて知りたい。影山の考えを。影山にとって鬼道有人はいかような存在 であるのかを。
『鬼道は、貴方が選んだ存在の筈です!』
分かっているから。どんなに虐げられても、鬼道がどれほど影山を慕って いるか。 義父よりもずっと近くにいて、様々な教えを、温もりをくれた人。鬼道に とって影山こそが二人目の父親であった筈で。
『貴方は、鬼道を愛してるんじゃないのですか…!?』
影山にとっても、鬼道は我が子のように愛しい存在である筈と。 そう信じるのは、間違いだろうか。
『…………源田』
長い沈黙の後。
『言いたい事は、それだけか?』
影山は口を開き−−ゆっくりと立ち上がった。
『勝利者で在りたいならば、お前達はただ黙って私に従っていればいい。何 度も何度も…口が酸っぱくなるほど教えこんだ筈だがな』
冷たい汗が、頬を伝う。源田は否定した。影山の言葉ではない−−ただ彼 が言葉を発しただけで、立ち上がっただけで−−気圧された自分を認めたく なくて、心の中で否定を叫んだ。声にならない時点でそれは無意味極まり無 いことだったけれど。 影山の声はいつも抑揚がない。何を考えているか分からない。 だが今日の、今の声はそう−−分かる。
『私は私の目的の為に此処にいる。障害は全て排す。お前も知っているだろ う』
意図して。源田を威圧している。 いや、威圧というレベルじゃない−−憎しみを込めた、殺意にも近い−− ああ、分かるのに、なんと表現すればいいか分からない。
『私の中に踏み入る事は、何者も赦さない。踏み入ろうとした事さえ許し難 い』
この恐怖の根元を、原因を。 なんと説明すべきなのだろう。
『必要なのは逆らわぬ、従順な駒のみ』
知らない。今まで帝国のGKとして、怒りや憎しみに満ちた目に晒される 事は幾度となくあったけれど。 こんな深く、おぞましく、冷たく、悲しい闇を−−味わった事など一度た りとてない。 なんなのだこの人は。この人は何を抱えていると言うのだ。この人の力は 一体何だというのだ。言葉だけで所作だけで、こんなにも他人を縛り付ける なんてまるで−−魔術師ではないか。それも白じゃない、黒にまみれた絶望 の魔術師だ。 対峙すれば分かると思っていたのに。何一つ分からないばかりか、ますま す分からなくなってしまった。気圧されるばかりで何の言葉も出てきやしな い。押しつぶされそうな心と、漏れ出しそうな悲鳴を抑えるだけで精一杯だ。
『鬼道が何故私に逆らわないと思う?奴は知っているからだ。私と離れたら 強くなどなれない…何の力も得る事はできない。惨めに負けるだけだとな』
一歩、影山が近付いてくる。 源田は一歩後ずさろうとして−−身体が動かない事に気付いた。凍りつい ている。全身を冷たい汗が濡らす感覚はあるのに、動けといくら脳が命じて も身体が動いてくれない。
『そして、もう一つ』
また、一歩。 源田は呟く−−嫌だ、と。
『鬼道は知っている。悪い子供は叱られる。悪い事をしたら躾られる』
さらに、一歩。 ああ、嫌だ。
『誰だって叱られたくは無い。痛い思いはしたくない。…そうだろう?』
一歩。 一歩。 一歩。 ゆっくりと、確実に近付く。 ほら、もうこんな近く、に。
『鬼道を躾るのは私の役目で、お前達を躾るのは鬼道の役目と思っていたが …どうやら甘かったらしいな』
嫌だ。嫌だ。嫌。
『お前にも、直々に教えてやる。悪い子に躾を与えてやる』
源田は恐怖に満ちた眼で、眼前に立つ男を見上げた。鬼道達より長身とい え、自分もまだ幼い子供にすぎない。影山の痩躯を見上げるしかない。それ だけの差がある。 そう、差だ。 大人と、子供の。
『お仕置きだ。もう逆らう気など、起きないように』
戦慄きながら、源田の口が開かれる。恐怖で心が飽和していく。臨界点に 到達する、瞬間。 影山の手が伸びてくるのを見て−−絶叫していた。
『嫌だぁぁぁぁっ!!』
長い髪を振り乱し、逃げようとするが出来なかった。その寸前に男は源田 の髪を鷲掴みにして引き倒していた。床に叩きつけられる。痛い、と思うよ り先に次の衝撃が来た。長い足で蹴り飛ばされた身体が地面を転がってい く。 逃げなければ、と思った。情けないと分かっているがそれ以外に何も考え る事が出来なかった。這い蹲る背中をさらに踏みつけられる。呼吸が止まる。 怒りに満ちた視線が背骨に突き刺さる。心臓を射抜かれる。
『何度でも、教えてやろう。これは慈悲だ』
肩を掴まれ、身体をひっくり返された。眼を合わせてはいけない。眼を合 わせたら本当に囚われてしまうと知っていた。だから必死で顔を背けた。 それが気に入らなかったのかもしれない。がつん、と頬骨に衝撃。殴られ たのだと気付いたのは唇の端が切れてからだ。 鉄の味がする。不味い。そうこうしている間にも痛みはやってくる。頭。 顔。肩。胸。腹。繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。ご きり、と身体の何処かで嫌な音。掠れた悲鳴が喉から漏れる。 まるでその声を潰そうとするかのように、無骨な指が首を掴んだ。大きな 大人の掌はたやすく細い喉を握りこんでしまう。気管支が圧迫がされる。息 が、出来ない。 しかし苦痛はそこで終わらない。ざくり、と今までとは違う痛みと音がし た。視線だけを下ろして見れば、ユニフォームの腹の辺りが大きく切り裂か れている。じわり、と滲む赤。 源田は目を見開く。影山は左手で源田の首を締めて馬乗りになり、右手で 刃物を握って源田を斬りつけ始めた。浅く、時には深く。その度に走る激痛 が、意識を失う事を許してくれない。 さらに手が、ビリビリの衣服にかかる。もう何処を触られても痛かった。 血でぬらつく冷たい床の上、さらにおぞましい行為が続く。 やっと喉を解放され、激しく咳き込んだ。源田の頬を涙が伝う。痛みと、 屈辱と、生理的嫌悪と、悲しみと、恐怖と−−幾多もの感情がない交ぜにな った滴が。
『痛い…痛い、痛い…やめて、下さ…』
懇願する。殺される、そう思った。 このままボロボロにされて、布切れのような姿で自分は死ぬのだと。 同時にこうも思った。 鬼道はいつもこんな痛みに耐えていたのか、それなのに気丈に笑っていた のかと。たった一度で死にたくすらなっている自分とは大違いだと。
『逆らうな…私に逆らうな逆らうな逆らうな!!』
揺さぶられる身体、魂、心。源田は無意識に繰り返していた。ごめんなさ い、その一言を。汚され、壊され、狂わされながら。
『ごめんなさい…ごめんなさ…』
何に対しての謝罪か分からぬままに。
−−−ほら、スイッチが入ったよ。
頭の中で子供の声がした。嗤う声だった。
−−−目覚めなよ、早く。
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刺の痛みも嘘も、気づかなければ良かったの。