地球儀をくるくるくるくる。 世界旅行気分で夢見る僕等。 眩しい笑顔の向こう、迫るは影法師。 楽しかった昨日を、ノイズの中にかき消していく。 この背中に、白い翼は 無いとしても。 4-33:祭壇の、生贄。 こぽり、と耳元で水が鳴る。此処は何処だろう。自分はどうしてこんな場所に居るのだろう。意識が緩 やかに水の中を弛んで、浮き沈みを繰り返す。落ち着いて考えるべきだ、と。今までの経験が告げている。全身を包むこ のなまぬるい感触は−−液体。自分の身体は爪先から頭まで水に浸かってい る。本当なら意識が無い間に溺死していた筈だ。しかし苦しくないばかりか、 何故だか普通に息が吸える。普通の水では無いのかもしれない。ゆるゆると眼を開いてみる。痛みは無い。なまぬるい感触はあるのに、景 色も水中とは思えぬほどクリアだ。意外だったのは自分の身体を包む“水” が黄緑色に光っている事くらいか。−−落ち着かなければ。もう一度暗示をかけて、自分−−風丸一郎太は一つ深呼吸した。そうだ、 パニックになってはいけない。いくら自分の身体が拘束され、黄緑色のおか しな水が張られた狭いビーカーに閉じ込められているとしても。−−思い出せ。俺は…何でこんな事になってる?そうだ、確か−−自分は福岡にいた筈だ。福岡で、雷門のみんなと一緒に いて。それでグラン達ジェネシスと試合をして−−ああ、思い出した。集中 攻撃を受けて、意識を飛ばしてしまったのだ。覚えているのは、ウルビダの一撃で吹っ飛ばされ、ゴールポストに叩きつ けられるまで。 最後に見たのはグランの涙と、泣き出しそうなウルビダの顔。 最後に聞いたのは、円堂の悲鳴。 その後どうなったかは−−まったく分からない。−−あの試合状況だ、残念ながら雷門は負けただろうな…。だがそれ以上に気にかかる事がある。ジェネシスが円堂にふっかけていた 取引。風丸を助ける為に、円堂大介のノートを渡せというアレを−−円堂は 了承してしまわなかっただろうか。彼が仲間思いなのは知っている。だがノ ートが敵方に渡る事がどれだけ危険か、知らない筈は無いだろうに。風丸が危惧する最大の理由は、今の自分の状態そのものにあった。あれだ けボロクソにやられたのに、傷が殆ど消えている。骨折も治っているようだ。 まさか自分はそれだけ長い間眠っていたのか? あるいは、この水にそのような作用があるとでも?−−健全な場所、じゃあ無さそうだな…ここ。首と、辛うじて上半身の一部だけは動く。水の色が邪魔だが、どうやら此 処は電気の消えた実験室らしいという事が分かった。自分が入れられている のと同じビーカー(いや、形からするに大きな試験管と言った方が正しいか もしれない)が幾つも幾つも並べられている。見つめている間に、段々と眼が慣れてきた。そして気付く。ビーカーの殆 どに、自分と同じように人間が入れられている事に。「なっ……!?」 風丸は絶句した。ビーカーに入れられている者達に見覚えがあったのだ。 長い黒髪を水の中にたゆらせ、全身にコードを繋がれているのは−−デザー ムだった。デザームだけじゃない。メトロンにマキュアにクリプトに−−イプシロン のメンバーのうち十人がそこにいた。誰もがユニフォーム姿で、意識を失っ ているように見える。いないのはゼルだけだった。−−これは…これは、まさか。 さすがに動揺せずにはいられなかった。聖也の報告を思い出す。『一人だけ保護した。イプシロンの副リーダーのゼルだけな』『一時は意識不明の重体。頭と胸に裂傷、左腕と左鎖骨の骨折。細かい傷が 全身にあって酷い有様だった。必死で二ノ宮んとこから逃げて来たと予測さ れる』『どうにか意識は戻ったんだがな。…ショックが酷くて…人形みたいにまっ たく反応しねぇらしい。話を訊けるような状態じゃねぇとよ』−−ゼルが精神崩壊を起こすほどの出来事が…起きていた。だから他のイプ シロンメンバーの生存も絶望的だ、と…。硝子ごしでは、彼らが生きているか死んでいるかも分からない。よしんば 生きていたところで、この状態を生きていると呼べるだろうか。 これでは、生体実験の道具−−モルモットではないか。−−やはり…やはりこの場所は。「目を覚ましたようだな」不意に、声が聞こえた。水と硝子を介している為、籠もっていてよく聞き 取れない。男か女かも判別出来ない。 しかしその方向は、分かった。「もう少し時間がかかるかと思ったが…さすがと言うべきか」廊下に繋がるドアが、いつの間にか開いている。光の中から、こつんこつ んとブーツを鳴らして歩いて来る人影があった。アルルネシアか、と身構える。が、違った。その人物は黒いコートに黒い フードで顔を隠しており、アルルネシアよりずっと華奢で小柄だった。「誰、だ…?」試しに声を出してみる。息が出来る時点で予測はしていたが、不思議と口 の中に水が入ってくる事もなく、普通に喋る事が出来た。「俺は…破滅の魔女、グレイシア。アルルネシア様の家具だ」「家具…?」「そうだ」グレイシア、と名乗った存在は風丸が閉じ込められているビーカーの真正 面に立った。「どうせ貴様は理解して無いだろうから…教えてやる」近くで見て、風丸は気付いた。コートを着込んでいるせいで分かりづらい が、グレイシアという人物はよく見れば胸が膨らんでいる。威圧的な口調か ら男だと思ったが、どうやら少女であるらしい。 だがそんな考察は、グレイシアの次の一言で粉微塵に吹っ飛んだ。「風丸一郎太。貴様はあの試合で…ウルビダの一撃を受け、命を落とした」「なっ…!?」 死んだ?自分が?「嘘を吐くな!じゃあ今此処にいる俺は何だ!?幽霊だとでも言うのか!?」 「何だ、意外に鈍いんだな。まだ分からないのか」 呆れ果てたと言わんばかりに、彼女は言い放った。「感謝するがいい。我が主が、貴様を生き返らせてくれたのだから」 その言葉に−−風丸は絶句する。それは自分があの試合で死んだという事実よりさらに衝撃的な事だった。 グレイシアの主。アルルネシアが死者を生き返らせる力を備えている事はも はや周知の事実である。そして生き返らせた死者を、その意志をねじ曲げて自在に操る事が出来る のも。「そんな…馬鹿な…っ」 じゃあ自分は? 今此処にいる自分の意志は?「嘘だぁぁぁっ!!」 絶叫する風丸。嘘だ嘘だと喚き、頭を掻き毟る。いや、本当はわかってい る。佐久間と源田という実例がある以上、自分達は何が何でもアルルネシア の前で死ぬ訳にはいかなかったのだ。 それなのに、自分は。「安心するがいい。貴様の出番はまだ先だ」 取り乱す風丸をよそに、グレイシアは淡々と告げる。「貴様よりも先に、働いて貰う連中はたくさんいる。こいつらもそんな駒の 一つ」こいつら、とグレイシアが指した先には、イプシロンメンバーの入れられ たビーカーがあった。利用され、捕らわれ、運命を狂わされ−−また利用さ れようとしている子供達。「イプシロンに…何をしたんだ。何があったんだ」見えている答えだとは思った。聞かないのが賢い選択かもしれない、とも。 それでも風丸は訊いてしまった。『お願いっ…デザーム様を死なせないでぇっ!!』 大阪、ナニワ修練場。ボロボロになって、それでも全力でぶつかってきた 彼らを。愛する者達を守り抜こうと戦った主将と、敬愛する人を死なせたく ないと泣いた者達の声を、思い出したから。「奴らはエイリア学園を追放され、処分を受けた。用済みになった駒とはい え、我が主の研究材料にはふさわしかったのだろう」 ふん、と鼻を鳴らすグレイシア。「しかし愚かな事に、イプシロンは研究所から脱走を図った。エイリアを完 全に裏切ったのだ。よって……約一名を除いた全員が処刑された」「……!!」 ああ、そうだろうとは−−思っていた。だが改めて聞かされるとショック は大きかった。約一名−−研究所から逃げ切れたゼル以外の全員が殺されて しまったというのか。あれだけ力強く、誇り高い戦士達が−−全員。「処刑しただけじゃ飽きたらず…こいつらも生ける屍として、操るって言う のかよ」 グレイシアは答えない。だがその沈黙は何よりの肯定に他ならなかった。「ふざけるなっ!お前…何も感じないのかよっ!?そんな非人道的な真似が赦されていい筈がない!!こいつらがどんな想いでエイリアにいたか…サッカーしていたか、何も知らないくせに!!」 風丸は吠えた。先程までの恐怖を忘れるほど、頭の中は怒りで支配されて いた。アルルネシア。あの女はいつもそう。自分達の心も、大切なものも、誇り すら嬉々として踏みにじる。人間じゃない。こんな真似、人間の心で出来る 筈がない。魔女と呼ぶのもおこがましい。 あの女は−−悪魔だ。「そんな事、あの方には関係ない事だ」 グレイシアはあっさりと言い放つ。「他人の心配をする余裕があるのか?いずれは貴様の番だというのに」自分の番。ああ、確かにその通り。けれど今、風丸は一人誓っていた。現 実は怖い。とんでもなく怖い。そして理不尽極まりない。でも。「何もかもが…お前らの思う通りになるなよ。人間ってヤツはお前らが思う ほど弱くない」 本当の強さは暴力じゃない。 誰かを、何かを想い、願い続ける人の心だ。「神よりも悪魔よりも、強いのは人の絆だ。無論魔女にだって負けやしない。 俺だって…!」絶対に、屈してなどやるものか。喩えあの魔女が自分を操るべく黒き魔法 をかけてきたとしても、どれほど地獄に等しい光景が目の前に広がったとし ても。心までは。魂までは。譲り渡してなるものか。決めたのだ。自分は自分に 出来る事をすると。救う為に命すら懸けてみせると。ジェネシスとの戦いを思い出す。あと少しだった。もう少しでこの手は届 いたのだ。その全てを、あんな魔女のせいで無為にされてなるものか。「抗い続けてやる。戦い続けてやる。何があったとしてもだ!…そう」 風丸は真っ直ぐにグレイシアを睨みつけた。「いつか皆で…本当に楽しいサッカーをする為に。それが出来る未来の為な ら俺はもう、諦めたりしない…!」 少しだけ、長い沈黙があった。フードの奥の闇から、グレイシアがじっとこちらを見ているのは分かる。 色の無い視線にえんえんと晒され続けるのは居心地が悪かった。せめてその 顔が見えたら、表情を窺い知る事も出来るのに。 一体、何を考えているのだろう。「…お前、アルルネシアの家具だと言ったな」 耐えきれず、風丸の方から沈黙を破った。「何であんな奴に仕えてるんだ。それとも、お前も操られているのか?」 気配が動く。ふっ、と漏れた吐息から、グレイシアが笑ったのだと分かった。「…知りたいか?」そして−−黒皮手袋に包まれた細い指が、フードにかかった。バサリ、と グレイシアがフードを外す。 薄暗い中でもハッキリと分かった。露わになったその素顔は。「なっ…!?」 絶望が。形となって、目の前に在った。NEXT |
堕ちて、堕ちて、堕ちて。