全て壊してしまえばいい、こんな世界なら。 それを引き止める涙があったとしても。 僕等には還るべき場所があると知っている。 その為なら忘れよう、いくらでも、いくらでも。
この背中に、 白い翼は 無いとしても。 5-4:タナトスの、刻印。
やるべき事は山ほどある。コーマは忙しく、研究所の中を歩き回っていた。 グランもウルビダもあの状態。ここは自分がなんとかしなければ。少なくとも 余計な仕事を回さないよう、配慮するくらいはできる。 練習場の申請が終わったら、毎日の健康診断の手配。朝食は終わったが掃除 はまだだ。大きな施設は専門の清掃員がいるが、ちょっとしたフロアの整備や 各部屋の掃除は自分達で行わなければならない。 面倒だ。実に面倒だ。目下問題は、いかにしてクィールを掃除に引っ張り出 すかである。彼女の掃除嫌いは有名で、時間になると必ず隠れんぼを始めるの ももはや恒例行事と化していた。いや、隠れんぼだけならまだいい。時に鬼ご っこを始めてさらに研究所のあちこちを散らかすのは勘弁して欲しかった。捕 まえて連れ戻すのが自分の役目になってしまっているから尚更である。 普段なら。掃除が終わってから彼女を見つけるのが常だった。そうすればク ィールの遊びは“鬼ごっこ”には発展しないからである。しかし今はそうも言 っていられない。怪我人だらけで手が足りていないのだ。今まで甘やかしすぎ たと心底後悔する。まずは逃げられないようにがっちりホールドしなければ。
−−まったく…どこのお母さんですか、私は。
いや、母親なんてものテレビや小説の世界でしか知らないのだけど(瞳子は 年齢からいっても、母親より姉といった印象だったし)。きっとこうやって子 供の世話を焼くんだろうなと思う。 ふと足音に顔を上げれば、ヒートが早足で歩いてくるのが見えた。明らかに こちらを目指している。
「やっと見つけた、コーマ」
どうしたのだろう。心なしか顔が青いようだ。 「探したぜ。どうしても耳に入れておきたい話があったんだ。グランはあんな 状態だし、ウルビダもヘバってるし…実質No.3の立場はお前だろ」 「まあ、成り行きでそんな感じになっちゃってますけど。どうしたんですか、 そんなに慌てて」 グランやウルビダに話したかったという事は、ジェネシス全体、もしくはエ イリア全体に関わる大事な話なのだろう。ヒートはざっと周囲を見回して、通 路に人気がない事を確認する。
「…エイリア学園が沖縄の大海原中に襲撃予告を出したのは知ってるか?」
コーマは眉を寄せる。それは自分もつい先程聞いたばかりの話だった。大海 原中は、間抜けな理由でフットボールフロンティアを事態する羽目になったも のの、出場していれば全国大会には行っただろうチームである。ターゲットに 選ぶのも分からないではない。 しかし。 「知っています…が。どのチームが出撃かは聞いてないですね」 「って事はガイアじゃないんだな?」 「グランが倒れてるのにそれはないでしょう?」 「だよな…」 この様子ならば、プロミネンスも違うのだろう。ならば残るはダイヤモンド ダストしかないが−−。
「…アイキューに訊いたら、ダイヤモンドダストにも話は来ていない。プロミ ネンスとダイヤモンドダストのキャプテンも両方負傷中だしな。だけど、予定 日を考えれば今の段階まで誰にも声がかからないのはおかしい」
コーマの考えは即座に否定された。プロミネンスとダイヤモンドダストにも 声がかかっていない?どういう事だろう。実質エイリアに残っているチームは マスターランク3チームのみの筈である。 かつてサードランク以下のチームも存在していたが。フォースランク以下は 元々“選抜外”扱いだ。正直使いものにならなかった子供達である。最初から エイリアはマスター、ファースト、セカンド、サード、フォース=その他とい う仕切りだった。 そして度重なる実験の結果、サードランクもまた壊滅状態になり。今の形式 が出来上がったのである。最終的に実戦参加が許されたのはセカンド以上のメ ンバーだけだ。それ以外に隠れたチームがあるとは到底思えない。 「ジェミニは追放され、レーゼ以外の行方を知っているのは父上と一部側近の み…そもそも今更ジェミニを引っ張り出すのはないだろ」 「そしてイプシロンは研究所を脱走…ゼル以外の全員の死亡が確認されたと 伺っています」 「そうだ」 ヒートの眼に陰が落ちる。イプシロンは、恐らくエイリアで一番結束力のあ るチームだった。キャプテンのデザーム−−本名・砂木沼治はここが“エイリ ア学園”になる前から皆のリーダーだった人物である。仲間を思って直訴など しなければガイアに配属されていたほど実力もあった。 父ほどでなくとも。自分達にとって大きな存在だった。チームの垣根なく愛 されていたと言っても過言ではない。皆の頼りになる兄であったひとだった− −実際彼の死を知って何人もの仲間が涙を隠していた事をコーマは知ってい る。
−−いや…よそう。今考えてもどうしようもない事だ。
悲しみに沈み、振り返る事に意味などない。死んだ人間が生き返る事などな いのだから。コーマは無理やり悲哀を振り切った。 「そしてもう一つ気になる事がある…これが本題だ。科学者達が噂してたらし い。沖縄で実験をやる、と。日程はまさしく、襲撃予定日と同じ日」 「…何ですか、それ」 嫌な予感しかしない。実験−−頭の中で、緋色を纏った女が下卑た笑みを浮 かべた。思い出しただけで吐き気がしそうだ。イプシロンの死の真相は知らな いにせよ、アルルネシアが一枚噛んでいるのは間違いない。 エイリアのメンバーは皆影で噂しあっている。イプシロンメンバーは、アル ルネシアの凄惨な生体実験に耐えかねて脱走を図り、殺されてしまったのでは ないか、と。
「…俺はバーン様からざっくり話を聞いただけだ。だが、バーン様が本気で実 験を止めようとしている事を考えれば…ろくな実験じゃない事は予想がつく」
ヒートは真っ直ぐな眼でこちらを見た。ああ、変わらない、とコーマは思う。 どれだけ運命を、未来をねじ曲げられても。彼は彼のまま、“厚石茂人”と いう一人の人間のまま、その強さを忘れていない。
「俺はバーン様を信じている。部下として仲間として…幼なじみとして、友と して」
分かるなあ、と心の中で呟いた。それはまさしく、自分達がグランを信じる のと同じ感情であったから。 「…バーン様が止めるべきと思ったなら、それは人として止めるべき悲劇だ。 …マスターランク同士、確執のあるメンバーもいるのを承知で言う。協力して くれないか、俺達に」 「ヒート…」 マスターランクとして3チームが振り分けられて以来、中には関係を悪化さ せた者がいることを否定できない。ジェネシスの座を巡るいがみ合い。出来レ ースだと分かってからより一層溝は深まってしまった。誰か悪いでもない、た だ誰もが父に愛されたかったばかりに。 プロミネンスの実質主将補佐はヒートとネッパーの二人だ。それほどまで聡 明な彼が、状況を理解していない筈もない。その上での申し出−−よほどの覚 悟がなければ出来まい。
「ヒート、私も…」
自分も同じ気持ちだ。これ以上魔女の思うようになどさせはしない。コーマ がそう口にしようとした、その時だ。
「悲劇を止めることなど出来はしない…所詮人間の、お前達などに」
かつん。
「全ては我が主、アルルネシア様の手の上。逃れることなど出来はしない…ど んな者も、等しく絶望は降り注ぐ」
かつん。
「大人しく未来を享受すれば、少しは長生きが出来るというのに、何故逆らお うとするのやら」
そいつは。ヒールの高いブーツの踵を鳴らして、ゆっくりと歩いてきた。コ ーマも、ヒールも。言葉も出ず、その姿を凝視する。 否−−否。自分達が見ていたのは、黒いローブに黒いフードで顔を隠した、 その人物ではなかった。ただただ、その隣に立つ人間を凝視していた。
「何…で…!?」
長い黒髪が、揺れる。彼は言葉を発した人物より背が高く、同じく黒いコー トを着込んでいた。同じように顔を隠してさえいてくれたら分からずに済んだ のに−−目の前に具現化した絶望などに。
「デザー、ム…」
名を呼ぶと。青年は少しだけ反応して、コーマを見た。その瞳は血のように 紅い色。光はなく、虚ろな視線はどこか不安定だ。 死んだ筈の彼が、何故。その姿が普段と変わらぬものであったなら、思わぬ 無事とぬか喜びできたかもしれない。だがデザームは正気を失いかけた眼で、 見知らぬ人物に連れられている。 最悪の想像しか、出来なかった。
「お前は…誰だ。デザームに何をした」
先に冷静さを取り戻したのはヒートの方だった。低く、唸るように黒コート の人物を睨む。 「我が名は、破滅の魔女グレイシア。アルルネシア様の忠実な家具。…じきに 忘れられない名になる」 「魔女、だと?男のくせにか」 ヒートの言葉に、グレイシアと名乗る人物は低く嗤った。黒いローブのせい でいまいち体格が分からないが、なるほどその声は少年のもののように聞こえ る。 「威勢のいい事だが、いつまでその余裕が保てるかな。何故我が主が死んだデ ザームを生き返らせたか、少し頭を働かせれば分かる筈だ」 「なっ…!」 生き返らせた。その単語で、コーマの頭は目まぐるしく回転した。沖縄の襲 撃予告と実験。出撃チームが不明の現状。生き返させられたデザームと、アル ルネシアの趣味−−一本に繋がり、絶望的な結論に辿り着く。
「…これ以上まだ、彼を…彼らを辱めるというのですか」
コーマの中で。 何かが音を立てて、切れた。
「恥を知りなさい!私達も彼らも断じて、あなた方の玩具などではない… っ!!」
理性は彼方へ消し飛んでいた。何かを考えた時既に、コーマはグレイシアに 殴りかかっていたのだから。 一瞬、眼があって−−フードの中の深紅の瞳が、嘲りに歪んだ気がした。
「馬鹿が」
ざくり。耳元で不快な音。 いつの間にか、グレイシアの手には鍵のような形の剣が握られていて。その 剣からは紅い滴が滴っていて。 それを見てから漸く激痛が来て−−コーマは悟った。自分は、斬られたのだ と。
「コーマ!!」
ヒートの悲鳴。コーマは膝をついて、苦痛の呻きを殺した。斬られた左肩か ら、だらだらと血が流れ落ちていく。あと少し、刃先がズレていたら心臓だっ た。わざと外したのだ−−自分達により恐怖を植え込む為に。
「楽しみにするがいい。最高の宴が始まる。生贄は大人しく見物していろ」
くるり、とグレイシアが背を向ける。デザームは少しの間だけ、じっとこち らを見つめていた。濁った紅い眼が辛い。涙もなく、泣いている。そう見える のは自分だけだろうか。
「デザーム…目を覚ましなさい……っ」
痛みに喘ぎながら、コーマは言った。
「このままでは貴方が守ろうとしたモノまで…失う事になる…それでもいい のですか」
デザームは、何も答えない。見つめあっていた時間はほんの僅かだった。彼 もまたきびすを返し、グレイシアについて歩き去っていく。 世界には、絶望しかないのか。コーマはただ唇を噛み締める他なかった。
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せめて足掻きなさい、永遠に。