隠してた痛みから
 隠しきれない痛みへと
 あの頃の貴方の
 涙の訳 今更分かるんだ
 
 
 
 
 
この背中に、
白い
無いとしても。
5-59:ヨナラを、云う為に。
 
 
 
 
 
 ダンッと机を叩く音。ウルビダが肩を震わせている。グランはただ、その肩を
そっと支える事しか出来なかったよ。
「やめなよ。気持ちは分かるけど…手、痛めちゃうよ」
「…煩い」
 俯いたその顔は見えない。見るまでもなかった。きっと今、自分も同じような
顔をしている事だろうから。
 ガイアの面々が集まっているのはグランの部屋だ。沖縄の試合は全て、パソコ
ンでモニターされていた。雷門の試合の相手がイプシロン改だと知った時から−
−いや、その前から。皆で示し合わせるまでもなく、全てを見届ける事を誓って
いた自分達。
 雷門が勝ったのは良い。でもまさか−−こんな事になるだなんて。
 
「…俺、思い出したんだけどよ」
 
 ウィーズが頭を掻きながら言う。
「ジェネシス計画が始まる前にさ。…500円、治に借りて…そのまんまだったわ。
返すのすっかり忘れてた」
「…あたしも…ッポ」
 クィールが、小さな声で呟く。
「万年筆…借りパクしてたッポ。気付いてたけど言い出したら怒られそうで…そ
のままズルズルと」
「あいつは怒らないわよ。…デコピンくらいは食らうかもしれないけど」
「そうかも…しれないッポ」
「…ほらもう。泣くんならちゃんと鼻かみなさいよクィール」
 鼻を啜り始めたクィールに、律儀にティッシュ箱を差し出すキーブ。そこで堪
えていた何かが決壊したのだろう。ついにクィールが、声を上げて泣き出した。
「…治兄ぃはさ、瞳子姉さんが好きだったんだよな。瞳子さんもあれ絶対治兄ぃ
に気があっただろ。本人達鈍いから、絶対自覚無かったんだろうけど」
「瞳子姉さんモテたもんなあ。ぶっちゃけ俺の初恋も姉さんだったわ」
「マジかよ」
 アークが、ハウザーが軽口を叩く。誰がどう見ても虚勢だった。
「…その瞳子姉さんは料理が壊滅的に下手だった。だから治兄がどんどん料理が
上手くなって」
「そうそう。…どっちが年上か分かんなかったし。研崎さんもイベントの時はい
つの間にか直接治兄ぃに話すようになってたしな。瞳子姉さんをキッチンに近付
けたらそれだけで何か起こるのがお約束でよ」
「…治兄のシチュー、また食べたかったな…」
 ネロと、ゲイルの声が切なく響く。
「ズズ…」
「やめましょう、思い出話は。辛くなるだけです。…ゾーハンもそう言ってます」
 最後にゾーハンの言葉をコーマが通訳して。再び室内に、沈黙が落ちた。
 グランは言葉にせず、ただ心の中だけで回想した。バラバラの境遇。バラバラ
の悲劇。個性も強ければ、被害妄想もまた強い。そんな厄介極まりない子供達を
実質まとめていたのは治だった。治はグランより一つ年上なだけだったが、誰よ
り大人で−−それでいて誰より子供の気持ちが理解できた。皆に慕われるのも、
道理だっただろう。
 こんな形で死んでいい人間ではない。無論それは今までの犠牲者にだって言え
た事だがとにかく−−彼は自分達にとって必要な存在だったのだ。こんな未来を、
結果を。一体誰が望んだと言うのだろう。
 心は捨てた筈なのに。あんなに涙を流したのに。まだ悲しみを感じるのはどう
してなのか。デザームが−−否、砂木沼治がこの世から消える。想像したくもな
い。したくなかったのに。
 
「ありがとうって」
 
 やがてウルビダが、絞り出すように言った。
「せめてそう言えたら…こんなにも後悔することは、無かったんだろうか」
「…そうかも、しれないね」
 残念ながら−−そのチャンスが殆ど無かったのは確かだ。治は人であった頃の
記憶を奪われていて。仮に自分達がいくら感謝を伝えたところで、その本当の意
味を理解することは叶わなかっただろう。
 本当なら此処にいる誰もが、今すぐにでも研究所を飛び出し、沖縄へ飛んでい
きたい筈だった。死んで欲しくない。どんなに記憶を書き換えられても生きてい
て欲しい。エゴだろうと何だろうと、そうすがりついて、泣き叫びたかった筈で
ある。グランも、例外ではない。
 しかし、それは自分達に赦されないこと。大人達は今、自分達が研究所を出る
ことを赦さないだろう。シールドを張られている現状、転送システムが無ければ
外には出られず、システムを起動させるには許可がいる。
 ガゼルが一度失敗した為、システムは尚強固になっているし、何かあれば即座
に電源そのものを落としにかかるだろう。何よりハッキングしている間に−−全
てが終わってしまうことは、目に見えている。
 
「あ…!」
 
 ネロがパソコンを見つめ、声を上げた。
 
「見ろ。ゼルが…」
 
 誰もがその光景を凝視する。さっきまで廃人同然の姿で車椅子に座っていた彼
が、立ち上がり、デザームの側まで歩いていく。
 その眼に、意志の光を宿して。
 
「ゼルは…自分の意志で、戻ってくることを選んだんだね。どんなに現実が辛く
ても…残酷でも」
 
 グランは眼を閉じる。自分達も−−受け入れなければ、ならない。
 ゼルが眼を覚ましたのは、紛れもなく。
 
「立ち上がったんだ。大切な人に…サヨナラを云う為に」
 
 全ては−−前に進む為に。
 
 
 
 
 
 
 ゼルはそうして、かの人の側に立つ。
 全ての声は、最初から聴こえていた。それでも自分は心に蓋をして、無理矢理
に聞き流していたのだ。現実を受け入れるのが、あまりに怖かったから。
 敬愛するこの人はきっと知らないだろう。この人が死んだ後に、モールが後を
追ったことも。仲間達が次々命を落としたことも。ゼルを行かせる為に、マキュ
アとメトロンが犠牲になったことも。たった一人生かされたゼルが−−どんな絶
望を味わったかも。
 知らなくていいし、知る由もない。答えはいつも自分の中にしかないものなの
だから。逆に言えば全てはゼルの心一つ。ゼルが受け入れなければ永遠と世界は
制止したままだっただろう。
 もう生きていくことそのものが怖くて、苦しい。本当はずっと眼を閉じ、耳を
塞いだままでいたかった。一度皆を失って、それだけでこんなに悲しかったのに
−−もう一度デザームを失わなければならないなんて。絶望で、死んでしまいそ
うだ。
 だけど、ゼルには分かった。分からされてしまった。今立ち上がらなければ、
一生後悔すること。彼との約束を守れないということを。
 
「貴方は…最低なエゴイストだ。貴方が傷つくことでみんながどれだけ苦しむか
…分かっていない筈もないのに。貴方は何一つ、貴方自身の為に動けないんだ」
 
 ゼルは言った。後悔しない為に−−溜め込んできた想いの全てを。
「だけど…だけど。みんな貴方が大好きだった…!本当はもっと貴方とサッカー
がしたかった!イプシロンだけじゃない。ヒロトも、リュウジも、怜名も、ルル
も、晴矢もみんなみんなみんな!!
「…私もだよ、ゼル」
「それなのに!貴方にこんな形で死なれても尚、俺達に生きろと言うんですか!!
どんだけ酷いこと言ってるか、分かってるんですか…!!
 堪えきれなかった涙が、後から後から溢れ出す。感情なんて取り戻さなければ
良かったとすら思った。悲しくて胸が張り裂けそうだ。それでも感情が無ければ、
自分達の“本当”を伝える事は叶わなかっただろう。
 デザームは知らなければならなかった筈だ−−自分達の痛みを。自分達が彼の
痛みを知らなければならなかったのと同じように。
 
「…そうだ」
 
 デザームはゼルを見て、微かな波を打つ湖畔のような−−とても静かな声で、
言ったのだ。
 
「約束の一つ。…研究所から逃げ出したあの日。私がお前達に命じたことは、覚
えているな」
 
『お前達、今から私の指示をよく聴け』
 
「私は確かに、最低のエゴイストだ。自分の生きる理由が欲しくて、自分が誰か
の役に立てると信じたくて…お前達を利用していた最低の人間だ」
 
『イプシロンのキャプテン、デザームとして。これが最期の命令だ』
 
「でも。…いや、だからこそ。お前達が幸せになってくれるなら…それ以上の望
みはない。私の未来も、体も、サッカーも…全部くれてやる」
 
『生きろ』
 
「それでも誇りだけは捨てない。それが…イプシロンというチームが生きた証だ
から。…お前達が生きてくれるなら、その証はけして失われない」
 
 やはり。デザームは全部分かっていたのか。酷い男だ。どこまでも、どこまで
も−−チームのことしか、考えてない。
 そんな彼が、自分達は本当に好きだったんだ。
「…私……デザーム様が本当に好きでした。私のことだけを見て欲しいって思う
くらい、好きで好きでたまらなかったんです。デザーム様のいない世界なんて…
考えられないです…なのに…」
「モール」
 むせび泣くモールに、デザームは優しい声をかける。
 
「ありがとう。…だが、私を想うなら生きてくれないか。確実な事なんて何もな
いが…生きていれば可能性はゼロじゃない。生きてくれ。だってお前達は…」
 
『頼む。私を…最期までお前達のキャプテンでいさせてくれ』
 
「お前達が私の、生きた証」
 
『お前達が私の誇りだ。忘れてくれるな』
 
「幸せになれ。これが私の…正真正銘、最期の命令だ」
 
 簡単に言ってくれる。幸せになれ、でなれたら苦労しないのに。
 だけど自分は、他に言葉を持たないから。
 
「…分かりました。キャプテン」
 
 いつものように頷くのだ。
 イプシロンの副将・ゼルとして。彼を慕い続けた少年、瀬方隆一郎として。
「…貴方は酷い人だけど。俺達はみんな…貴方に感謝していますよ。俺達が喧嘩
した時、いつも仲裁してくれたこととか。父さんの鉢植え壊しちゃった時、一緒
に謝りに言ってくれたこととか。…風邪引いた時、つきっきりで看病してくれた
こともありましたね」
「…言っただろう。その全部、私のエゴだ」
「はい。…貴方がかつて失った本当の兄弟と私達を重ねているのは、知ってまし
たよ」
 それでも嬉しくて−−毎日が楽しかったのだ。
 幸せだった。あの時は気付く事が出来なかったけれど。
 
「……時間が無いわ」
 
 瞳子の声が、ゼルの追憶を終わらせる。
「……私が、終わらせるから。それしか方法がないのなら」
「瞳子姉さん…」
「…思い出せたのね、隆一郎。本当の貴方と、貴方の想いを」
「はい。…姉さん達のお陰です」
 自分はいつも一人ではない。独りで生きてはいない。瞳子に、治に、様々な人
達に救われて今此処にいる。
 それが一つの奇跡であり、幸福と呼ぶべきものだ。
 
「本当に…ありがとう御座いました。治兄さん。約束、守りますから。イプシロ
ンの誇りは俺が汚させやしない」
 
 
 
『ゼル、どうかイプシロンを頼む』
 
 
 
 ゼルは頭を下げた。冷たい涙で、顔と声を滲ませながら。
「さようなら。生まれ変わったらまた、一緒にサッカーしましょう」
「そうだな」
 デザームの肩が腕に回される。幼い頃よく抱きしめてもらって、くっついて寝
た。夜が怖くないように。怖いものが来ないように。
 思い出して−−また涙が、出た。
 
「サッカーをしよう。そうしたらまた笑顔になれる。今までそうだったように」
 
 さようなら、大好きな人。
 未来の何処かで、いつか。
 
 
 
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約束を守った君に 僕は 何をしてあげられるんだろう。