いつからだろう。自分達の足下から、全てが消え失せていたのは。
踏みしめる大地すらなく。見上げる空は偽りばかりで。伸ばす手は何処にある。 脚は、臓物は、魂は。自分自身の身体すら存在するかも怪しい世界。 もしかしたら最初から、なのだろうか。平凡に見えた日常の中で、狂気はいつ も棘のように潜んでいたのかもしれない。 ただ、気付かずにいただけで。 「くそっ…やめろよ!やめてくれよ!!」 殆ど泣き声だ。バッツは自覚しながらも、どうにか震える脚を叱咤して立ち上 がった。どちらの血を被っているかも分からないほど、真っ赤に染まった有様で 戦い続けるオニオンとティーダを止める為に。 その瞬間、ティーダのエナジーレインが炸裂した。オニオンは避けたが、二人 を止めようと接近していたジタンが巻き込まれる。 全身に酷い火傷を追って、小柄な身体がクリスタルの壁に激突した。 「ジタンッ!!」 畜生。畜生!!どうしてこんなことに。柱に乗り上げたジタンはそのままぐった りしてしまっている。酷い怪我だ。このままでは−−。 しかし近付こうにも、争う二人の攻撃に道を阻まれてしまう。ジタンを巻き込 んだ事にも気付いていないのか、二人は憎しみに目をぎらつかせて対峙している。 周囲を巻き添えにするだけではない。オニオンの肩から噴き出す血。ティーダ の脇腹から溢れ出す朱。このまま闘い続ければ、二人失血死は免れられないだろ う。 「やめて…やめてよ二人とも!仲間なのに、どうして…!」 「邪魔をするな!!」 ビクリ、と少女が肩を震わせる。二人に駆け寄ろうとしていたティナに、ティ ーダが彼らしからぬ声で怒鳴ったのである。 「こいつはスコールを殺した!セシルもだ!!赦せない…もう仲間なんかじゃない っ!!」 流石と言うべきか、その隙に動くのがクラウド。すかさずジタンの救助に走る。 しかし。 動く気配の無い盗賊、その首筋に手を当てた兵士の顔がさっと青ざめる。駄目 か…と彼の唇が紡ぐのを、バッツは絶望的な面持ちで見つめる。 そんな、まさか。ジタンまで? 戦況が動く。魔法を放とうとするオニオンに、ティーダは渾身の蹴りを見舞っ た。鈍い音。おそらく肋骨の何本かはイカれただろう。 しかし痛みを感じていないかのように、少年は空中で体制を立て直す。そのま ま怒りを解き放つかのような−−プチメテオ。 ティーダは回避行動を起こしたものの、ややタイミングを見誤った。強烈な魔 法が夢想の左半身を掠める。 「あああぁぁぁっ!!」 一つ一つの傷は浅くとも、数が多かった。血を撒き散らしながら、転がるティ ーダの身体。 トドメを刺すべく、オニオンが魔法の構えをとった。ティーダはもはや動けな い。 「やめて−−っ!」 「ティナっ!?」 自分の身も構わず、少女は少年の前に躍り出ていた。逃げろ、駄目だ。バッツ は叫ぶ。オニオンナイトのファイガ−−あの威力なら庇ったティナごとティーダ の身体を焼き尽くすだろう。 そしてもしティナを殺してしまうようなことがあったらオニオンはもう―― 戻れない。きっともう光の元へは帰って来れまい。 ほんの僅かな距離が、絶対だった。業火を予想し、少女が目をぎゅっと瞑る。 しかし。 「あ…」 焔が放たれる事は無かった。オニオンナイトは魔法の構えをとったまま固まっ ている。その細い背には−−大きな岩の破片が、突き刺さっていて。 とさっ。 あまりにも軽い音。少年の身体が横倒しになる。一体何が起きたというのか。 茫然と佇むバッツは−−その姿を視界に捉え、目を見開いた。 「別れの時間だ。哀れな戦士よ」 ゴルベーザ。 魔人の異名を持つ鎧の男は−−無感動に言葉を放った。 Last angels <答捜し編> 〜1-6・護れない 少女〜 いつも、護られていた。 子供扱いされたくないのだと。自分は護る側に立ちたいのだと。だからもっと 強くなりたいと−−語っていた少年。 彼は気付いていない。そう信じて突き進める事こそ、何より強さの証だという のに。彼は自分のように、甘えたりしなかった。女だから、子供だから。自分と 同じ言い訳が彼にもできた筈なのに。 今。ティナの前で彼は−−オニオンナイトは、血だらけで倒れている。 ティーダとの戦闘で負った傷に加え、ゴルベーザの一撃。遂に身体が限界を超 えてしまったのだろう。 「オニオン…」 いつも自分を、その小さな手で引っ張ってくれていた。華奢な背中で必死に護 ってくれていた、幼くも勇敢な戦士。 いつしかティナも彼を護りたいと願うようになっていた。護られるだけでは変 えられない。彼がくれたものを返せるくらい強くなりたい−−その隣にいたい、 と。 ああ、そうか。そうなのか。 「君は…私と同じだったんだ、ね」 オニオンに護られていたティナは、その分だけ彼を護れる強さが欲しかった。 そして同じように、ライトに護られていたオニオンは、それ以上に彼の支えにな りたかった。 同じ、なのだ。自分がこの少年に向けていた感情と−−少年がリーダーに対し 願っていたことは。 「だから…辛かったんだよね。悲しくて…悔しかったんだよね。…ごめんね…」 自分は彼を、護れなかった。彼が何故苦しんでいたのかも分からず、ただ戦い を止める事だけを考えていた。 「ごめんな…さ…」 はっと顔を上げる。オニオンは血にまみれた顔で、小さく謝罪を繰り返してい た。泣きながら、あらゆる感情に顔を歪めながら。 「護れ、なかった…。護るって決めたのに…あの日、護れなかった分まで。ウォ ルも、ティナも、みんなみんな…」 「!オニオン、あなた…」 「ごめんなさい…」 そこにいたのはただ、親に謝るように涙を流す子供だった。どうして、どうし て。後悔と疑問を呟きながらひたすら謝る小さな少年。 完全に正気に戻れたわけではないのだろう。それでも正気と狂気の狭間で最後 に残ったのは−−護りたいという願いと、護れなかったという悔恨。 「護れてた…よ」 もう現在形には出来ないかもしれない。それでもティナは言った。少年の小さ な身体を抱きしめて。 「あなたはいつも、私を護ってくれてた…。いつも一生懸命で…その姿が、力に なってた。きっとそれは、私だけじゃない…」 涙で世界がぼやけていく。嗚咽が聞こえた。泣いていたのは、血の海に倒れた ままのティーダ。すぐ側に立つフリオニールも、その瞳に涙を溜めている。 愛しくて、悲しくて。そんな涙を流せるほどに、自分達は皆互いを愛していた のだ。仲間を。戦友を。共有した時間は短くとも−−そこには確かな絆があって。 「きっと、ライトさんも。あなたにたくさんのもの、貰ってたと思う。きっとあ なたに感謝してたって、思う…」 まだ泣くな。そう思うのに、震える声はどんどん泣き声に変わってしまう。 「そうか、なぁ…」 ティナの腕の中で、オニオンナイトが小さく微笑んだ。 「ちょっとは役に、立ててたのかな…」 そうだよ。だから大丈夫だよ、と。ティナは囁いて、抱きしめる腕に力をこめ る。自分にはもう他にできる事が無いから。 「だから、ね」 最期になんてしたくない。サヨナラは、言わない。 「もう、頑張らなくてもいいんだよ。自分を責めなくて、いいの。無理しなくて も、いいの」 「…そう?」 「そうだよ」 「そっか…」 大丈夫。あなたが背負っていたものを、自分は逃げずに引き受ける。 その姿が、教えてくれた。 「おやすみ、オニオン。目覚めた時にはきっと、朝は来ているから」 うん、と小さく頷いて。少年はゆっくりと瞼を下ろした。 そしてそのまま−−再び眼を開く事は無かった。 「死んだのか」 低い声に振り向く。オニオンの身体を横たえ、ティナは立ち上がる。真正面か らゴルベーザに向き合う為に。 「一応、訊くね。どうしてこの子を殺したの」 一応、とつけたのは、既に答えは見えていたから。多分、彼は。 「この少年は、味方でありながら我が弟を…セシルを殺した。私はその仇を討っ たまで」 淡々とした口調はワザとだろう。言葉の端々に、押さえきれない憎しみが滲み 出ている。 やはり、セシルは死んでいたのか。ティナは唇を噛む。悔しい。悲しい。大切 なものがどんどんどんどん、指の隙間からすり抜けていく。 こぼれ落ちた砂はもう、元には戻らない。 「意外だな」 「え?」 「……お前も、狂うかと思っていた」 この子を殺したお前が言うのか、と。怒り狂う事は出来なかった。ゴルベーザ の声はけして自分達を見下したものではなかったから。静かに、憎しみに墜ちて なお−−慈みに満ちたものだったから。 だからこそ、涙が止まらない。怒りではない。絶望とも違う。この感情を、な んと呼べばいいのかがわからない。 「狂えない、よ」 そんな資格、自分にはない。 「でも、分かるの。もしライトさんの死に立ち合ったのがオニオンでなく私だっ たら…同じ事をしていたかもしれないって」 誰の事も憎めない。ただ無力な自分が恨めしいだけで。 オニオンの暴走は、まるでいつかの自分を観ているようだった。もし一つ選択 肢が違っていたら、彼の姿はティナと入れ替わっていただろう。 行き場の無い感情を持て余し、それでもぶつけなければ壊れてしまいそうで。 必死でもがいて、抗っていたのだろう。今にも崩れ落ちそうな足場に怯えながら。 「ゴルベーザさん、正直に答えて」 涙を強引に拭う。赤く腫れた瞼が痛い。 「あなたは…セシルの仇を討って、幸せになれた?」 漆黒の鎧に隠れ、ゴルベーザの表情は窺い知れない。それでも彼が息を呑む気 配だけは伝わってきた。 教えて。答えて。ティナは再度促す。 「もしあなたの気が晴れたなら…それでいいんだと思う。あなたは不本意かもし れないけど…それはこの子の死が、無駄にならなかったって事だから」 「ティナ…?」 クラウドが訝しげに名前を呼ぶ。普段は怜悧なその瞳が揺れている。 「あなたは本当は、とても優しいひと」 彼の目的は多分、オニオンを殺す事だけではない。そもそも既に虫の息だった とはいえ、さっさとオニオンにトドメを刺す事ができた筈。 それをしなかったのは。 「私達の前で、この子を殺す意味。あなたはちゃんと分かってた。憎まれる覚悟 もしてた。私に…オニオンとお別れする時間を、くれた」 彼が根っからの悪党であったなら。あるいは慈悲慈愛以外の感情を全て捨て置 いてきてしまったような聖人ならば。 自分はこんな話などしていない。する必要も無かっただろう。 「貴方の望みは、何?本当はとてもささやかな事、願ってたんでしょう?」 きっと、自分達と同じように。 「貴方の幸せは、何?」 一瞬だけ、強い風が吹いた気がした。血の匂いで麻痺した戦場。その空気すら 浄化する、一陣の風が。 NEXT |