身体がダルい。熱っぽい。この聖域はむしろ涼しいエリアに入るというのに。
「おい、クジャ…」
ジタンが心配そうに顔を覗きこんでくる。大丈夫。この程度大した事ない。僕 を甘く見るな−−そう言おうとして、激しくむせた。咳をするたび、肺の奥に疝 痛が走る。うまく息が出来ない。
「何…これ…」
漸く、それだけを搾り出す。クジャは口元を押さえていた掌を見た。濡れた赤 。明らかに唾液では無いもの。 次の瞬間、ズキリと胃の腑の底から突き刺すような激痛が走った。腹の底から、 まるで内臓を食い荒らすような痛み。悲鳴すら上げられずに、クジャは地面に転が った。 聖域の清らかな水が身体を抱き止める。冷たい筈なのに、その冷たさすら感じ られない激痛。身体を抱きかかえるように丸めて、痛みに耐える。死ぬほどの痛 みと戦う時、人は転げ回って苦しむ事すら出来なくなるのだと知った。
「クジャ!おいっしっかりしろ!クジャッ!!」
弟が頭上で叫んでいるのが聞こえた。相変わらずお人好しだ。自分はずっとこ の少年を憎み、否定し、殺そうとしてきた敵だといいのに。何故心配する?さっ きといい今といい絶好のチャンスではないか。今のうちに自分を殺してしまえば 手柄になるのに。 兄らしい事など何もしてはいない。自分も彼を、弟として愛した事など無い。 いつだって嫉妬と憎悪の大丈夫だった。むしろ最低の家族だ。なんせ自分は元い た世界で彼を−−。 ああ。思い出した。 「相変わら、ず……馬鹿なんだから、君は…」 「うっせぇ!どうせ頭空っぽの女好きだよ悪かったな!!こんな時まで毒吐いてん じゃねぇよっ」 いや、そこまでは言ってないけど。段々激痛の波が去ってきて、クジャは一つ 息を吐いた。喉に血の混じった痰が絡まって気持ち悪い。どうにか深呼吸して、 煩いくらい早鐘を打つ心臓を落ち着かせようとする。
「……大丈夫…もう」
まだズキズキとした痛みは残っていたが、耐えきれないほどではない。そろそ ろと身体を起こし、聖域の台座に座り込んだ。足に力が入らない。まだ立つのは やめた方が良さそうである。 「おい…本当に大丈夫かよ。顔真っ青だぞ」 「平気。だいぶ落ち着いた。…今のところはね」 申し訳程度だが、自らにケアルガとリジェネをかけた。これで少しは持つ筈だ が。
「今のところ…って事はやっぱり」
暗い顔でジタンが言う。まぁそうだろうね、とクジャは苦い笑みを浮かべた。
「ガーランドの話は…やっぱり正しかったって事だ。僕の身体にも闇のクリスタ ルが埋め込まれてるらしい。近く、僕は食い殺されるだろうね」
発作が一回起きればもうアウトかと思っていたが、そうではないらしい。どう にか呼吸を整える。多少は楽になったが、もはや予断は許さない状況という事だ ろう。まさかこんなに急に症状が出るなんて。 聖域の清水と冷や汗で全身がぐっしょり濡れている。何だか急に、何もかもが どうでも良くなってしまった。さっきまであんなに死ぬのが怖かったのに。 それは多分。 「くそっ…どうにかなんねぇのかよ…。このままじゃどっちみち…」 「ジタン」 思っていたより、静かな声が出た。名前を呼ばれ顔を上げる盗賊。その表情が 、凍る。
「お迎えが来たようだね」
残念ながら天使様の来迎ではないようだけど。クジャは自嘲する。分かってい る。どのみち自分は、天国になど行けはしないと。
「とりあえず…話、させてくんないスかね」
返り血で服を汚した夢想が、そこに立っていた。誰の血か?考えるまでもない 。酷く泣きたくなって、絶望以外に何も見えなくなって−−死神は笑った。
「来たね。親殺しの罪人が」
精一杯の皮肉を、吐き捨てながら。
Last angels <詞遺し編> 〜3-23・袋小路〜
世界はただ沈黙を守り、傍観者に徹する。役者達にあらゆる残酷な選択を押し 付けて、無言で続きを促す。脚本に書いたままの、悲劇的な結末を待ち望みなが ら。 −−戯曲的に文章を綴るなら、こんな感じだろうか。クジャは元いた世界で見 た、有名な戯曲を思い出していた。 実際、この閉じた世界は巨大な舞台演劇のようなもの。シナリオを書き、自分 達を踊らせて楽しんでいる“誰か”が確かに存在するのだろう。
「僕達は所詮、神々のゲームの駒ってわけだ」
冗談じゃない、と。少し前の自分なら、そう憤慨する事も出来ただろうか。今 はもはや、理不尽に怒る気力すら無い。
「哀れなもんだね。僕も、君もさ」
ティーダは俯いたまま、呟く。
「…否定、出来ないのが悲しいッスね」
その様子だと、やっぱり全部知ってるんだな、と。彼は苦い笑みを浮かべて、 顔を上げる。
「ティーダ…なぁ、嘘だよな?」
信じられない、信じたくない−−そんな表情で、ジタンが問う。縋るように、 否定の言葉を期待しながら。
「お前がライトさんを殺したなんて…クジャの事も殺そうとしてるって!なぁ、 嘘だって言ってくれよ!!」
スッと、ティーダが表情を消す。心を殺し、自分を殺し、あらゆる感情を封じ た顔。 覚悟を決める事で諦めてしまった者の顔だと−−クジャはそう、思った。
「……全部聞いたんじゃ、無かったのかよ」
冷たい声で、夢想と呼ばれる青年は言い放つ。 「闇のクリスタルを宿した契約者達は、いずれクリスタルの生贄となって命を落 とす。完成したクリスタルは、輪廻を繰り返す為に力を使い果たす、神竜の新た な器となる。本体は一つ。残りは予備」 「……!?」 驚いたのはジタンだけではない。クジャもだ。 闇のクリスタルが、繰り返される世界の鍵になっているという話は聞いていた 。しかしそれはあくまで確証の無い話であった筈。 ティーダの話の中には、聞き覚えの無いキーワードが混じっていた。神竜?新 たな器?一体どういう意味だ。それに何故、ティーダがそんな事を知っている?
「ライフストリーム。幻光虫。異界。星の命が俺に真実を教えてくれた。多分そ れは、俺が異界の民だったからこそ」
明るく、太陽のように仲間を照らす青年の姿は、どこにも無かった。淡々と真 実を語る夢想。まるで大いなる意志を代弁するかのように。
「いずれ無残に死ぬさだめの契約者。だから俺は選択した。その命を無駄にしな い為に。これ以上の悲劇を食い止める為に」
契約者は全員殺す、と。 闇のクリスタルは破壊しなければならない、と。
「なぁジタン。俺のしてる事、間違ってる?」
逆に問われ、言葉に詰まるあたり正直だと思う。やはり、ジタンと自分は似て も似つかない。
「確かに、もしかしたら…正しいのは、お前の方なのかもしれねぇ」
それでもなんとか反論の糸口を探そうと、盗賊は口を開く。
「どうすればいいとか、何が最善だとかさ…俺には何も分かんないよ。だからエ ラそうな事言う資格無いかもしれない。でも…」
顔を上げ、ジタンは言う。訴えるように、叫ぶように。
「お前らしくねぇよ…!何アッサリ諦めてんだよ!!」
光だ。クジャは弟を、どこか眩しい気持ちで見つめる。そこにあるのは確かな 光。自分には無い、けして手に入らない清らかな光。 綺麗すぎて、羨ましくて、自分に持っていない物をたくさん持っている彼が妬 ましくて。愛すれば愛するほど、不甲斐なくて惨めな己を浮き彫りにされるよう で。自分はその全ての感情を、憎悪に置き換えた。 思い出した。思い出したのだ。
「確かに契約者は…何もしなくても死んじまう運命だったかもしれない。だった らその前に殺して、輪廻を防ごうってのも分からないでもない…。でもな、じゃ あ犠牲になる奴らの未来はどうなるんだよ!そいつらの幸せだけ、最初から弾く ってのかよ…!!」
自分は、ジタンを捨てたのだ。精神的に追い詰められていたからだとか、あの 男から逃がす為だったとか、そんな事は関係ない。 まだ幼い弟を打ち捨てた。その事実に変わりはない。ジタンだってそれを分か っていた筈なのに、彼は。 記憶があってもなくても、どうして守ろうとするのだろう。こんな、最低の兄 を。
「考えろよ、考えて考えて考えて、全部終わっちまってから諦めろよ!みんなで 生き残る方法、幸せになる方法…お前一人なら無理でもみんなでなら、見つけら れるかもしれないだろ…!!」
甘えた理想論。笑い飛ばしてやりたいくらいの。 なのに。涙が出そうになる。諦める事ばかり覚えていた自分には、けして出来 ない事。無限の可能性を、信じる力。 だから多分、あの二つの星を巡る神話の終わりで。自分はこの少年に、敗れた のだろう。同時に、救われたのだろう。 −−だけど。
「何で一人で背負おうとすんだよ!!俺達、仲間じゃないのかよ…!!」
弟は。自分の心と魂は救えても−−命までは、救えない。救いようがなかった のだ。それが自分のさだめであったから。そう。今も、昔も。
「……不思議だなぁ」
聖域の空を仰ぐティーダ。 「親父と、同じ事言うんだな。…やっぱ、俺らしくないんだろう…な」 「分かってるなら何で…っ」 「ごめん、ジタン」 ティーダはその手にフラタニティを出現させる。弱々しい笑みを浮かべて。
「もう、戻れないッスよ」
脆い心が紡いだ、悲壮すぎる覚悟がそこにある。ジタンも唇を噛み締めて、両 手に短刀を現した。けれど、クジャは。 「…いいよ、もう」 「クジャ!?」 弟の肩に手を置き、首を横に振った。
「思い出したんだ…この世界に来る前の物語を。君がどんなに庇ってくれても僕 は…何処にも、逃げられないんだって」
目を見開くジタンに、静かに語る。
「彼の言う通り。ここで彼が僕を見逃しても、闇のクリスタルに必ず殺される。 …そして、そのどちらからも逃れて。輪廻の鎖を断ち切る方法が、あったとして も…」
瞼を閉じる。弟の顔を見ながら、言える言葉では無かった。言えば泣き声にな ると分かっていた。
「遠からず…僕の寿命は尽きる。時間が止まったこの世界だから、生きていられ たけど。僕の身体はもう、ボロボロなんだよ」
お前は所詮、なりそこないだと。テラの民の器になれぬ失敗作だと−−父親の ように信じてきた男に、告げられたあの日。自分の命はあと僅かだと知らされ、 自暴自棄になった。世界の全てに裏切られたと、そう思った。
「ははっ…とんだ喜劇だね!八方塞がりだよ。クリスタルに食い殺されるか、君 に身体を切り裂かれるか、寿命が尽きてボロ雑巾みたいに死ぬか!逃げ道なんか ない。僕の未来には、可能性なんかないんだ…っ!!」
堪えようと思ったのに。一度決壊してしまった涙は、止まらない。溜まった感 情を吐き出すように、泣き叫ぶ。
「何だよ、それ…っ」
かくん、と。ジタンが膝を折った。その細い肩も震えている。
「…そうだったな」
そして。悲嘆に暮れる兄弟に、夢想もまた静かに告げる。
「あんたも…俺と、同じなんだな」
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逃げる場所なんて、何処にも無かった。