――西暦1995年8月、研究所・小部屋。
お客さんだわ、と。アルルネシアが呟いたので、静香ははっと部屋のドアを見た。
まさか、のび太が来てくれたのか。そう思った次の瞬間、木製のドアは吹き飛んでいた。頑丈な板が、随分とあっけなく。
「あ……!」
砂埃の向こうに見えた姿に、静香は歓喜の声を上げた。のび太さん、と名前を呼ぼうとして言葉が詰まる。
その隣にもう一つ見慣れた影がある事に気付いたからだ。
「ドラちゃん?どうして貴方がのび太さんと……?」
自分で口にして、悲しくなった。ほんの少し前なら疑問に思う事も無かった筈だ。
のび太の隣にドラえもんが、ドラえもんの隣にのび太がいる。それが当たり前だった。不思議でも何でも無かった。
それが今は――何故、と。問いかけるようになってしまっている。
自分はのび太の敵だ、と。そう冷たく言い放った時のドラえもんの顔が、忘れられない。
「細かい説明は後にしようか。……安心して。君を助けるまでは、味方でいてあげるから」
ドラえもんは少しだけ困ったような顔でそう言った。君を助けるまでは、という事は、やはり完全に味方になったわけではないようだ。
抱いた期待など僅かばかりのものだったが、それでも落胆せずにはいられない。
彼がのび太を殺そうとしている、なんて。今でも信じたくはないのだ。
「静香ちゃんを放して貰おうか、アルルネシア」
のび太は銃を構えて言い放つ。優雅にお茶を飲んでいたアルルネシアは肩をすくめ、椅子から立ち上がった。
「やぁね、せっかくのティータイムなのに。女にそんな無粋なものを向けるだなんて!」
「女の子を縛って監禁するような鬼畜が、どのクチで言ってやがるんだか。ガタガタ言わずさっさと言う通りにしろ、下衆が」
答えたのはのび太ではなくドラえもんの方だった。静香は、ん?と思う。何だろう。
いつもより言葉遣いが汚いだけではなくて、前に逢った時よりドラえもんに余裕がない気がする。何だか苛立っているようだ。
まあ全ての元凶たるアルルネシアに対して、冷静であれというのもまた酷な話だが。
「鬼畜!下衆!あたしにとっちゃ最高の誉め言葉よ。ありがとー。でもせっかく手に入れた人質、そう簡単に返すと思う?」
そうだ。ついさっきまで、アルルネシアと普通に会話してしまったが為に忘れかけていたが、この魔女の本質は人間の悪意。
仲間達の内部崩壊を起こし、静香を人質に皆を脅す為に、こうして自分を捕まえたのだ。
静香は必死で考える。このままの流れだと、高い確率でアルルネシアは自分を盾にするだろう。
捕まったのは自分の油断もなくはないし、それならそれで仕方ないが、のび太の足を引っ張るのは非常に頂けない。ならば、そうなる前にこの手枷から抜け出すのが最善なのだが。
何が困ったって、この縄、全然ほどけてくれないのである。さっきからさり気なく緩めようと努力はしてるのだが。
また、縛られている位置が高すぎて歯で噛み切ることもできやしない。
さあどうするか。呑気なようだがここで平静さを欠いたら負けだと分かっていた。
力技でほどけないからといって、それで全てが終わりな訳じゃない。小細工次第で縄を切る、緩ませるなども不可能じゃない筈だ。
そしてそれさえ無理でも、言葉という武器は残されている。
既に痛いほど学んでいた。魔女や魔術師が何故“真実”と“言葉”を剣に変える事が出来るのかを。
「確かにこの状況じゃ、あたしは体のいいい人質だわ」
だから静香は選択した。今自分が持てる最大の武器を。
「だけど。このままあたしを捕まえていても、そんなに面白い展開にはならないんじゃないかしら」
「へぇ?何でそう思うの?」
「簡単よ。人質は一人。しかもあたし、女の子なのよ?」
既に一つ知っている。自分は女の子。実はこれが、魔女に対して一種のカードになるのである。
アルルネシアは断じてフェミニストではない。彼女はあくまで、可愛い男の子や見目麗しい青年、イケてるオジサマを優先する。
だが、アルルネシアに“優先される”はそのまま、“地獄の果てまで虐め殺される”ことを意味するのだ。
「貴女があくまで好きなのは男の子だもの。あたしは興味の対象外。最初に貴女は言ったものね」
同性の女の子にアルルネシアが欲情する筈がなく、そういった興味も一切沸かない。だから、拷問という愛でられ方もしない。楽しくないからだ。
「人質が二人以上なら、一人は簡単に殺せる。その方が見せしめの効果もあるしね。
そして一人でも、あたしが男の子だったらいくらでも拷問できたわ。殺さずともそれで充分脅迫になる。
でも実際あたしは一人きりの人質で虐めがいもない女の子。貴女にとって良い条件じゃないのは、説明するまでもないわよね」
つまり。いくらアルルネシアが静香を盾に脅しても、のび太が脅しに屈しなければ何も出来ないという事だ。
出来るのはたった一度、静香を殺すことだけ。そして逆に静香を殺してしまえば、もうのび太がアルルネシアに従う理由はなくなる。
静香の耳を切るとか、鼻を削ぐとか、そういった拷問をしても彼女にとって面白いことは何もない。
無論。もしアルルネシアが本気で静香を人質にする気なら話は別だった。
面白くなかろうと静香が死ぬギリギリまで拷問し続けるだけの事だ。しかし静香には分かっていた。今のアルルネシアに、そこまでガチでのび太を脅迫する気はない。
何故なら。もっと面白くなる未来を、知っている筈だから。
「貴女はあたしに赤で真実を教えた。それはあたしの口からのび太さんにそれを伝えさせて、絶望する様が見たいからじゃないの?
そして最終的には……あたしが最後までのび太さんの近くにいた方が、貴女にとって面白みのある展開になる。違う?」
ギリギリの綱渡り。本当は、静香も怖かった。怖かったが、その恐怖を顔に、声に出すまいと全力で押し殺していた。
それらの感情に気付かれたら、アルルネシアはきっと自分の提案には乗ってこない。そう思ったから。
「ふ…ふふふ。くふふふふっ!……ええ、ええ。素敵じゃないの静香チャン。
確かに女の子に興味はないけど、肝が座った子供は好きよ?痛快だもの」
アルルネシアは肩を震わせ、ひとしきり笑うと――とん、と丸テーブルを小突いた。途端闇色の靄となってテーブルが消え失せる。ティーセットも茶菓子も椅子も全て一緒に、だ。
「ま、一応言ってはみたけど……あたしも決めてたのよねぇ。既に物は最初の目論見通りには動いてないし。
貴女の言うとおり、貴女を使ってのび太ちゃん脅してもあんまり愉しそうじゃないしね。他ももっと面白いことがあるなら、そっちで遊びたい。的を射てるわよ、貴女」
パチン、と指を鳴らすアルルネシア。突然、静香の両手を拘束していた縄が消滅する。いきなりだったので思わずつんのめる静香。転ぶ寸前、のび太が体を支えてくれた。
「あ、ありがとうのび太さん」
「ど、どういたしまして」
思いがけず顔が近い。思わず互いに目を逸らしてしまった。そんな場合じゃないのは分かってるが、絶対頬が赤くなっていたと思う。ああ恥ずかしい。
「はいはいはいはいリア充はそれくらいにしておいて頂戴ねムカつくから」
「不本意ながら同意する。リア充爆発しろ」
「ど、ドラえもん目が怖い目が!」
まさかの不意打ちに一気に青ざめるのび太。静香も冷や汗をかいて苦笑いする。どうでもいいが、1995年にリア充なんて言葉は無かったと思う、多分。
「静香チャンの言うとおり。作戦変更して貴女を解放してあげるわ。精々のび太ちゃんに絶望を教えてあげるのね」
やっぱりそれが狙いだったか。もはや悪趣味だと突っ込む気にもならないが――いずれにせよ真実には辿り着かなければならなかったのだ。今だけはその悪趣味に感謝してやってもいい。
真実を与えられた自分。その先どんな道を選ぶかは、こっちの自由だ。
「ついでに貴女達が知りたがってることを教えてあげるわ。この研究所からの町の外まで続く、緊急脱出ルートについて」
「!」
「ちゃんとあるわよぉ、【町の外に出る方法はあるわ。この研究所の地下三階に、脱出用の列車があるの。それに乗ればススキヶ原の外まで逃げられる筈よ。】
でも……貴方達が列車に乗れるかは怪しいわねぇ」
「……どういう意味?」
魔女はわざわざ赤で宣言した。ならば【地下三階に脱出用の列車がある】という言葉は間違いなく真実である筈だ。
しかし列車に乗れないかもしれないとはどういう事なのか。
「赤で続けてあげるわ。【列車を動かすには、地下四階の最奥のフロアで、この研究所の自爆装置を押さなきゃいけないのよ。
でもってスイッチを押したらもう解除出来ないわ。そんな大事な起動パネルがある……一番奥の部屋よ。何も配置されてないわけないわよね?】」
意味を理解するまで暫し時間を要した。じわじわと静香の顔から血の気が引いていく。なんということか。此処に来て、最大の難関が待ち受けていようとは。
自爆装置、なんて。物騒極まりないものを押して、急いで脱出しなければならない上に。
アルルネシアの口ぶりから察するに、その部屋には何か厄介な化け物が配置されているという。いや、推測ではなく確定だ。アルルネシアは赤で言い放ってくれたのだから。
「怖じ気づいたのかしら?まさか此処まで来て逃げたりはしないわよね?」
「勿論だよ」
「やだカッコいいわのび太ちゃん!食べたくなっちゃいそうよ!」
強く言い切ったのび太に、アルルネシアはけらけらと嗤う。
「赤で教えてくれてありがと。出来ればあんたがそのまま逃げ遅れてくれると有り難いんだけどね」
「世界を超える魔女にそんな期待しても無意味よ?ふふ、分かってるわよねぇ」
そうだ。アルルネシアはいざとなったら異世界へ逃げる事も出来るのだ。便利というか厄介というか。静香はただ無言で魔女を睨みつける。
「ご機嫌よう、皆様方。最後の舞台にまで辿り着けたら、見守るくらいしてあげるわ。
さっさと死んでしまった方が幸せだったって、すぐ後悔する事になるでしょうけどねぇ!きゃはははははっ!」
甲高く耳障りな声を残し、魔女は姿を消した。静香は俯く。死んだ方が幸せ。確かにそうかもしれない。
アルルネシアが何故そんな事を言ったか、静香は知っている。もう自分はアルルネシアの赤を聴いてしまっているから。のび太の、ひいては自分達の。先に待つのが、どれだけ残酷な未来であるかを。
だってセワシは。
「……さて。戻ろうか。君達の仲間が探してる筈だ」
静香が口を開くより先に、ドラえもんが冷たく言い放った。
「喜びなよのび太君。君の大事な仲間の前で、終わらせてあげようって言うんだから。最期の花道くらい盛大に飾らせてあげるよ」
「最期になんかならないさ」
対しのび太の声には、強い決意の色が。
「少なくとも、君と仲直りするまでは」
戦いが始まる、十分前。
第百話
救助
〜嵐の前の静けさ〜
幸せになりたい、楽して生きていたい。