――西暦1995年8月、研究所・1F資料室。

 

 

 

「……行ったか?」

「うん。行ったみたい」

 

 廊下を覗きこむスネ夫が、指でOKを出す。はぁ、と溜め息を吐く武。どうしてこう上手くいかないのか。苛立ちというより、もはや諦めに近い。

 ティンダロスは思っていた以上に執念深かった。廊下をあっちへこっちへと逃げ回って、やっと撒いたはいいが――今度は別の問題が発生。

今此処には自分、スネ夫、聖奈、出木杉、太郎の五人だけ。明らかに人数が、足りない。

 

「まさかのび太さん達とはぐれるなんて。困りましたね。ティンダロス、まだ近くをうろついてるかもしれませんよ」

 

 困り果てた声で言う聖奈。

 

「逃げないで、戦った方が得策だったんじゃないですか?もしかして」

「あのデカブツと、逃げ場の少ない狭い廊下で戦えって?冗談キツいよ聖奈さん」

「言ってみただけです。少しだけ時間を稼いだら、危険を承知で探しに出るしかないでしょうね。厄介な話ですが」

 

 平然と会話しているようだが、皆息が上がっていた。随分長い時間追いかけっこに付き合わされたものだ。

正直、どの段階でのび太と静香がいなくなったのかもよく分かっていない。

 

「……出木杉?」

 

 一人。青ざめた顔で壁によりかかっている出木杉。武は訝しく思い、声をかけた。どうにも、様子がおかしい。

さっきから一人だけ何も口にしようとしない。

ブラックタイガー戦のダメージが大きく、身体的にキツいせいもあるだろうが――どうにも、それだけではない気がする。

 

「……完全に、してやられた」

 

 やがて。ポツリ、と落ちる呟き。

 

「最初からのび太君を引き離す気で……いや、なら直接のび太君を連れ去っても良かった筈。分からない、奴の目的は……」

「おい出木杉!何一人でブツブツ言ってやがる?」

「……ごめん、ジャイアン」

 

 片手で顔を覆い、疲れきったような声で、出木杉は言った。

 

「やっぱり、話しておけば良かった。静香ちゃんが偽物とすり替わってるかもしれないってこと」

!?

 

 偽物?何だそれは。とっさに思考が追いつかず、混乱する武。

 

「……僕とはる夫に、最初にブラックタイガーをけしかけたのはアルルネシアじゃない。静香ちゃんと同じ姿をしたアンドロイドだったんだ。

アルルネシアが作ったものだと思う。奴の科学技術は、22世紀に迫る域に達している」

 

 その武を見て、出木杉は口を開く。

 

「ブラックタイガーを倒して少しの間、僕達は揃って気絶していた。すり替わる隙はあったんだ。でも確信は持てなかった。だから……肝心な話を、君達に出来なかったんだ」

「おいちょっと待てよ、出木杉!」

 

 自分の悪い癖だ。頭の隅の冷静な部分で、武は己を非難した。だが、なかなか身体は理性の言うとおり動いてくれないものである。

言葉と同時、あるいは言葉より先だったかもしれない。武の手は、出木杉の胸倉を掴んでいた。

 

「何でそれ、俺達に言わなかった!?静香ちゃんが入れ替わってるって事はつまり、本物が捕まったって事だろが!静香ちゃんがどうなっても構わなかったのかよ!?

 

 感情的になったっていい事は何一つない。分かっている。しかし、怒りがそのまま言葉になった。

静香は自分にとって大事な仲間。仲間の危機は自分の危機だ。出木杉は確かに、自分達と同じ目的で動いてはいないのだろう。だとしても許せることではない。

 もしも彼が。セワシの為に静香を切り捨てるような選択をしたとしたならば。

 

「……アルルネシアの目的はあくまでのび太君を手に入れることの筈。静香ちゃんを捕まえたのはその人質である可能性が高い。

なら、自分達に条件を提示するまでは殺されない筈だ」

 

 武に掴み上げられたまま、静かな声で出木杉が告げる。

 

「そして……奴の今までの言動と性格から分析するに。女の子である静香に奴が欲情することはなく、従って拷問にかけられる率は低い。

……何より。偽静香を使ってアルルネシアが何をしようとしてたか探りたかった。だから気付いていないフリをさせて貰ったんだ」

「だからって……だからってお前!」

「分かってる。これ以上の言い訳はしないよ。こんなに早くのび太を連れ去られたのは完全に僕のミスだ。判断を誤った。

殴りたければ殴っていいよ。それで……君の気が済むならね」

 

 出木杉は弱々しく笑う。武はカッと頭に血が上り、拳を振り上げた。聖奈とスネ夫が息を呑む気配。振り下ろす寸前に、武は出木杉の顔を見て動きを、止めていた。

 あちこちの塗装が剥がれ、配線が剥き出しになったアンドロイド。

武が手を下すまでもなく、出木杉はボロボロだ。我ながらおかしなヒロイズムだと思うが――既に手負いの相手をさらに打ち据えるのは、独自の美学に反する事に違いなかった。

 急に、自分が惨めになる。情けない、矮小な生き物だとしか思えなくなる。

出木杉への怒りはあったが、殴ったって何も解決しない。むしろ状況を悪化させるだけだ。

冷えた頭で己の愚かさを嗤う。どうして自分はいつも、暴力で鬱憤を晴らそうとしてしまうのだろう。

 

「……けっ。ズタボロのお前をこれ以上殴ったら、俺が悪者みてぇじゃねーか。ざけんなよ」

 

 乱暴に出木杉を突き飛ばし、悪態をつく。今の顔を、誰にも見せたくなかった。きっとどうしようもないほどみっともない顔をしているに違いない。

 

「今静香ちゃんはいない。だから、さっきは話せなかったことを今、話す」

 

 出木杉は壁に手をつき、どうにかといった様子で立ち上がる。

 

「この世界は……セワシ君がプレイするゲームみたいなものと君達は思ってるかもしれないけど。

正確には違う。この世界も紛れもない現実。普通の現実ではないけどね」

 

 はっとしたように、口を開いたのは聖奈だ。

 

「過去!のび太さんに聴きました。ドラえもんさんは言ってたって…自分達が未来から来たんじゃなく、私達が過去にいるって」

「そう。ただし既に話した通り、僕達はタイムマシンを持ってない。この世界はね、過去を再現した箱庭なんだ。

だから僕達はこの先何が起きるかも知っていたし、未来……正確には現在から資料も持ち込めた。おかげで少々混乱させてしまったようだけどね」

 

 そういう事だったのか。漸く、武の中でも繋がった。タイムマシンがない=時間を渡る手段がないのに、彼らとこの世界との時間に差異が生じる理由。

未来の新聞や雑誌が放送室にあった訳。それらがやっとここで説明されたわけだ。

 しかしそれだとまだ、“過去は過去”であって今現在起きている現実だということにはならず。自分達も、再現された過去を生きる幻という事になってしまうが。

 

「此処は過去を再現した世界だけど“上書き”が出来るんだ。もしただ再現されるだけの世界なら、史実にない出来事は一切起こらない筈だろ?」

「だよ、な」

「正確にはまだこの世界は“過去”でしかない。だけどある条件を満たすと、本当の“過去”として上書きが出来るんだ。だからセワシ君を筆頭に僕達もまた君達を誘導し、望む過去に変えようと奮闘してきたわけ」

 

 望む過去。そうか。だから廃旅館で。

 

「お前らの知る史実でも、健治さんは死ぬ運命にあった。だからその過去を変えよと……あの人が死なない歴史にする為に、セワシはあの場に現れて、大広間に入るのを止めようとしたわけか」

「正解。思ったより理解が早いじゃないか、ジャイアン」

 

 馬鹿にしてんのか、と腐りたくなる武。残念ながら、自分が頭脳労働向きでない自覚はある為何も言う事が出来なかったが。

 何より。さっき暴力を戒めたばかりである。ちょっとムカついたかで殴っていては、今までの自分と何も変わらない。

 

「まあ、殆ど上手くいかなかったわけだけどね。僕達は災禍の魔女の存在も知らなかったし、アンブレラが元凶かどうかってのも半信半疑だったから

……殆ど魔女に先手を打たれちゃった。結局、健治さんの死も回避出来なかったわけだしね」

 

 出木杉は別に、自分達を責めているわけではないのだろう。だが、武にはそうとしか聞こえなかった。

唇を噛み締め、俯く。救う事が、出来なかった。もう少し自分が早く決断して、現場に駆けつけていたら。

実際何も結果は変わらなかったかもしれないが、少なくともここまでの後悔はせずに済んだかもしれないのに。

 

「過去をたった一度上書きできる。僕達に与えられた武器はそれだけだった。でも僕達には……それだけしか、無かったんだ」

 

 どこか遠くへ想いを馳せるように、出木杉は天井を振り仰いだ。

 

「そして。その武器で僕達は……この世界を救おうとしている。たった一つの鍵。それが見つかれば、全て助かるかもしれないんだ」

 

 さっき出木杉はその鍵を“情報”だと言った。しかし自分達に教えられたのはそこまでだ。

どんな情報かも、それを使って何をしようとしているかも教わっていない。もう少し詳しく話してくれればいいものを、と内心不満だったのだが。

 今なら分かる。出木杉は話したくても話せなかったのだ。なんせ傍には静香がいた。その静香が偽物だった場合、全てアルルネシアに筒抜けになってしまう。

 

「今なら話せんだろ」

 

 武は切り出す。

 

「お前らが探してる情報。一体なんなんだ。それが手には入ると何で世界が救えるんだ?」

「……そうだね。今なら言っても大丈夫かな。それは……」

 

 出木杉の言葉が中途半端に途切れた。その目が驚愕に見開かれている。何なんだ、と思いつつ。武はその視線の先を見て――。

 

「ドラえ、もん」

 

 その名を、呼んでいた。

 

「やあ」

 

 ドラえもんは片手を上げて挨拶した。酷く慇懃無礼な、敬意や好意などひとかけらもこもっていない所作。

たったそれだけの事でまた一つ自分達は思い知らされるのだ。彼はもう自分達の仲間だった彼ではないのだと。

 

「のび太!静香ちゃん!お前らなんで!?

 

 スネ夫が裏返った声を上げる。なんとドラえもんと一緒に入室してきたのは、静香とのび太の二人だった。二人とも固い表情でこちらを見る。

 

「心配かけてごめん。大丈夫。静香ちゃんは僕達で助け出してきたから」

「じゃあやっぱり、さっきまで僕達が静香ちゃんだと思ってたのは……」

「うん。偽物……だったよ」

 

 のび太さん、と静香が小さくのび太を呼ぶ。気のせいだろうか。静香の目が悲しそうに見えるのは。

 

「……出木杉君。どういうつもりなのかな、君は」

 

 ドラえもんは出木杉を見て、問う。

 

「まさかセワシ君を裏切る気じゃないよね?」

「まさか」

 

 そこでやっと。表情を消していた出木杉が、固い笑みを浮かべた。

 

「裏切るもんか。……でも。セワシ君の為を思うから此処にいるんだ。ドラえもん、君なら分かるだろう」

 

 ドラえもんは答えない。少しばかりの沈黙の後、まぁいいや、と溜め息混じりに漏らした。

 

「最後の鍵は、見つかった」

!!

「君の処分云々より先に、僕は僕の仕事をさせて貰う。のび太君。僕は約束は守ったよ?」

 

 そこでドラえもんは、初めて嗤った。

 

「さあ、殺し合おうか」

 

 

百一

 暴力

〜振り上げたの意味は〜

 

 

 

 

 

静かなる戦いは影の中、日の目は当たらない。