――西暦1995年8月、研究所・2F食堂B。
なるほど、此処なら多少暴れても問題なさそうだ。のび太はぐるりと辺りを見回す。
今、のび太、静香、ドラえもん、スネ夫、武、太郎、出木杉がいるのは研究員用の食堂。
多少散らかっていたが、ゾンビだらけの学校内と比べるとまだ綺麗な方だろう。
無機質な白い長テーブルとパイプ椅子が並び、四隅は観葉植物。
カウンターキッチンの奥には冷蔵庫と戸棚が見える。デザインは悪くない。白を基調とし、丸い枠と柱はシンプルだがお洒落だ。
まともな椅子とテーブルを揃えれば、可愛い家庭的なレストランに早変わりすることだろう。
あうう゛、と濁った声が響いた。パンッと軽い音が鳴る。テーブルの陰から這い出してきた男ゾンビの頭を、聖奈の銃が撃ち抜いた音だった。
「やるじゃん」
「伊達に修羅場はくぐってませんもので」
誉めるスネ夫に、苦笑してみせる聖奈。
「まあ。こんな事にもならなければ……要らなかったスキルでしょうけど」
こんな事に、ならなければ。
何千回、何万回と繰り返した仮定がまた胸によぎり、のび太は俯く。考えも仕方ない。どうしようもない。理性では分かっていても、ぐだぐだ考えてしまうのが人間だ。
この事件さえ起きなければ。自分はきっと、幸せだと気付く事さえない――平凡で満ち足りた人生を送ることが出来たのだろう。
父や母や、恩師から注がれる無償の愛に甘えて、毎日好きなだけ我が儘を言って、武に泣かされて人任せの仕返しばかり考えて。それがきっと、“普通”だったはずだ。それが誰かにとっては不幸なことであったとしても。
――だけど。この事件が起きなければ。僕はずっと、弱虫のままだった。大切な事が何一つ見えないままだったはずだ。
失ったものばかり数えてはならない。何が悲しいのか分からないほど、たくさんの喪失があったとしても――その果てに得たものがあった事を忘れてはならない。
そうでなければ。一体何の為の愛だったのか。何の為の犠牲だったか――分からなくなって、しまうから。
「のび太さん」
そっと。静香がのび太の手を握る。
「のび太さん、あたし……」
本当はたくさん言いたい事があったはずだ。のび太とドラえもんの殺し合いなんて見たかった筈がない。優しい彼女なら尚更だ。
それでも、止めるべき時でないと分かっている。分かっているから、何も言えない。
自分も本当は、何か彼女に言葉をかけるべきなのかもしれなかった。ドラマの中の主人公なら言う筈だ。
心配しないで、とか。絶対に勝つよ、とか。三流の台詞だってヒロインは安心するかもしれない。それが本来、ヒーローのあるべき姿なのかもしれない。
でものび太は。あえて何も言わない事を、選んだ。ただ黙って静香の手を握り返すに留めた。それが何よりの誠意だったから。
言葉にしなければ伝わらない。言葉にしなくても伝わる。矛盾する二つの真理は、その実どちらも真実だった。魔術師としてもう一つ書き加えることもできる。時には言葉より、行動が多くを語ることもある、と。
握った手の中に今、真実はある。震えた掌が、絡めた指先の温もりが、自分達に教えてくれる。恐れて尚前に進む。今がその時だ、と。
「……分かったわ」
彼女なりに答えを出したのだろう。静香は一瞬、強くのび太の手を握って――そして、離した。
「信じてるからね」
たった一言。山のような言葉からそれだけを選び、彼女は微笑む。のび太も頷き、微笑み返した。充分だ。想いはちゃんと、繋がっている。
何一つ問題などない。これは最後の挨拶でも何でもないのだから。
「男を見せろ、のび太!」
「負けんなよ!」
「死なないでください、絶対!」
武が、スネ夫が、聖奈がそう言って一歩下がる。太郎が叫んだ。
「仲直り…、頑張って!」
のび太は小さく笑う。自分は幸せだ。今日一日で何度それを実感することが出来ただろう。彼らがいたから自分は生き抜いてこれた。挫けずに済んだ。
感謝してもしきれない、得難い仲間達が此処にいる。
それを奇跡と呼ばずして、なんと呼ぼう?
「仲直り……ね。見当違いって言葉の意味分かる?仲直りもそもそも、僕達最初から友達でもなんでもないじゃないか」
ドラえもんが吐き捨てる。空気が変わった。のび太は身構える。この部屋は広い。が、障害物は多いのだ。放置されたテーブルに椅子に、観葉植物。これらをいかに利用するかが、勝負の分かれ目となる。
ただし。この勝負、自分の予想が正しければ前提からして不利だ。ドラえもんが反則技を使わない保証など、どこにもないわけで。
「時間もあんまりない。……始めよっか、のび太君!」
反射的に真横に飛んだ判断は正しかった。ジジッ!と嫌な音がすぐ脇でする。いつの間にかドラえもんの手にはショックガンが。それも、どうやらただのショックガンではなさそうだ。レーザーが当たった箇所が明らかに焦げている。
「改造したってわけ?とんだチートだね」
「失敬な。タイムパトロールが使ってるのと同じくらいまで電圧を上げただけだよ。これくらいしなきゃ、凶悪犯に太刀打ち出来ないからね」
タイムパトロール。その単語に眉を潜める。タイムマシンなどないと言ったのはドラえもんだ。だからてっきりタイムパトロールの存在も幻想だと思っていた。しかし、こうして具体例に出してきたことを考えると――何もかも幻ではないと、そういうことなのだろうか。
かつん、と音がした。しまった、とのび太が思った瞬間足下が沈みこむ。間一髪、近くのテーブルに捕まって脱出する。
「管理者権限発動。“しずめだま”だよ、よく逃げられたね」
さっきまでのび太が立っていた場所が液状化している。しずめだま。鳥人間の世界を冒険した時、カラス警備隊に捕まった武たちを救出するのに使われた秘密道具だ。地面を液状化させ、その上にいた者達の自由を奪うのである。
「君達が見てきた秘密道具は、半分が幻。もう半分は、この世界の管理者である僕達に与えられた“管理者権限”ってヤツが具現化したもの。どこでもドアなんかがいい例だね」
なるほど。此処が“箱庭の世界”であるなからこその能力というわけか。
自分はまだ、セワシがいかようにしてこの世界を作り、ゲームマスターとなり得たかは知らない。この世界の仕組みもまだきちんと把握出来たわけじゃない。
だが。テレビゲームに例えればけして難解な話ではないのだ。ゲームの制作者はキャラクターに好きな能力を好きなだけ付加できる。非常に大雑把だが、つまりはこういう解釈で問題ないだろう。
異世界からの介入者であるアルルネシアのこともあるし、周りくどい手で仲間達を生き残らせようとしているあたり、何もかもがセワシの創作というわけではないだろうが。ドラえもんとセワシを作ったのはセワシだという情報は既に提示されている。ならば理論上いくらでも特殊能力を追加できる筈だ。もしかしたら、何か制約はあるかもしれないが。
「さて、お楽しみはこれからだ。管理者権限発動、“スモールライト”!」
何か後ろ手で隠してると思ったら、お馴染みにして厄介極まりない道具が出てきた。ライトを向けられたら一瞬で終わりだ。横っ飛びに回避。のび太の目の前にあったパイプ椅子がみるみる小さくなっていく。
「!?」
つるり、と足が滑った。ぎょっとして見れば、地面に油が撒かれている。撒いたのは十中八九ドラえもんだろう。となれば普通の灯油やガソリンである筈もない。
「管理者権限発動……“天地逆転オイル”」
ドラえもんの無感動な呟きを耳にした瞬間、のび太の視界はひっくり返っていた。まるで高い場所から落下したかのように、のび太の身体は天井に叩きつけられる。衝撃が全身を襲った。
「がっ……!」
「のび太さんっ!」
静香の悲鳴のような声が明後日の方向から聞こえる。打撲の痛みもそうだが、並行感覚が最悪の状態だ。ゆるゆると天井から降ろされ、どさりと床に落ちる。
天地逆転オイル。確かこれは、地底人と戦った時ドラえもんが使ったもの。オイルを流しこんだ場所の重量場を一時的に狂わせ、地面に斥力を発生させて敵を弾き飛ばすとかなんとか。
「くそっ!」
こちらにドラえもんを殺す気などさらさらない。だが、やはりあちらはそれなりのつもりらしい。このままでは延々となぶり殺しにされるだけだ。なんとか反撃の糸口を掴まなければ。
のび太はドラえもんの腕を狙い、引き金を引く。だがそれよりドラえもんの“発動”が早かった。
「管理者権限発動。“ひらりマント”」
のび太の弾丸は、ドラえもんが取り出した真っ赤なマントを前に、流れるように逸らされてしまう。斜め上に弾かれた弾丸は鈍い音を立てて天井に食い込んだ。
「厄介極まりない」
出木杉が堅い声で呟く。
「君にとっては悪夢だろ、のび太君」
「はは、そうかもね」
体はあちこち痛いが、まだ軽い打撲のレベル。問題はない。が、出木杉の言うようにけして楽観視できない状況なのは間違いなかった。
今まで助けてもらってきた、たくさんの秘密道具。それらが今敵として一斉に自分に牙を剥いている。他ならぬ、ドラえもんの手によって。
「君を敵に回すと、こんなに手強いなんて……思ってもみなかったよ、ドラえもん」
ネズミが大の苦手で、可愛い女の子とどら焼きに滅法弱くて。結構転ぶしドジだし、肝心なところで四次元ポケットが壊れたり本人が故障したりするし。
だけど。不器用で意地っ張りだけど、いつも自分達を助けてくれたドラえもん。いざという時凄く勇敢なこと、誰よりみんなを守ろうと頑張ってくれることを知っている。
「でも、こんなの全然悪夢じゃない」
ドラえもんが今。どんな闇の中にいるかは分からない。セワシの為に全てを捨てて、だけど捨てきれないものがあって今、苦しんでいる。
その眼に映る真実だけは、誤魔化せない。どれだけ言葉で否定しようとも。
「君が仮に僕を本当に殺そうとしても。【僕は絶対君を殺したいだなんて思わない。だからこれは殺し合いなんかじゃないし、悪夢にもならない。】親友としての、決闘だ」
分からないことはたくさんあるけど。
分かることも、確かにあるから。
「今度は僕が、君を助ける番だ」
ほら、そうやって今。口を引き結んで、一瞬視線を泳がせた。迷ってないなんて嘘はきかない。必要ない。
どうかさらけ出して。君の真実を。
「僕が屈するか、君が根負けするか。勝負だよ、ドラえもん!」
のび太は地面を蹴って、ドラえもんに踊りかかった。
ひらりマントで全ての弾丸は逸らされてしまう。ならば遠距離から撃つのは無意味。
多彩な攻撃手段を持つドラえもん。大した運動能力もない自分が勝てる確率は、恐ろしく低いかもしれない。だが、この世界に“絶対”などないから――自分はけして、諦めない。
突破口は、必ずある。
第百三話
決戦
〜情ゆえに、愛ゆえに〜
愛が途切れぬように繋いで。