大嫌いだと。そう言ったのも嘘じゃない。事実ドラえもんはのび太が嫌いだった。彼と話すたび、語るたび――もう戻れない日々を思い出させる彼のことが。
家族として。仲間として。友として。
心から彼を愛していた事実を、否が応にも思い出させる彼。最悪だ。きっと本人は自覚さえしていないのだ。自分がどれだけ残酷な真似をしているかなんて。
だけど一番酷い事をしているのはこの自分。
のび太を見るたびセワシを思い出し。セワシを見るたびのび太を思い出す。
重ねるたびに罪悪感で死にそうだった。どちらへの気持ちも同じだけ重い。
そんな赦される事を思う自分に失望して、絶望した。
だから多分、逃げ続けていたのだと思う。どちらも助けたいのに、その選択が選べない。
そればかりかどちらも失わなくちゃいけない。
現実のあまりの無慈悲さに押し潰されそうだった。
のび太と馬鹿馬鹿しく騒いでいる時だけは忘れていられたけれど。我に返った瞬間そんな自分に気付いてまた死にたくなる。
何度そんな葛藤を繰り返したか、分からない。
――だけど。もし二人とも助けられるなら。そんな方法があるなら。
いもしない神様に感謝したっていい。自分が望むのはいつだって彼らの幸せだけだ。
――ごめんね……セワシ君。……弱いや、僕。
この無限の物語を終わらせられるかもしれない。それは一縷の望み。一縷の、希望。
のび太達に世界の外側について話す展開など前代未聞、予想さえしていなかったこと。
そうだ、この世界は良くも悪くも予想外だらけなのだ。
ならばその“イレギュラー”に賭けてみたい。セワシの意志を超えられない自分でも、それくらいは赦される筈と信じて。
「まず前提として言わなきゃいけないのは。全部が僕とセワシ君の記憶……記録に残ったデータに依った話だってこと。だから曖昧なところも少なからずある」
本当の痛みを知るのはセワシ一人だけだ。ドラえもんは俯く。
「ただ。始まりは今から百年くらい前だってのは確かだよ。本物の“1995年8月”だ」
「ってことは。この箱庭の外の本当の時間は、今から百年後ってこと?」
「そうだよ。ただ……正直途中から、正確な暦がわかんなくなっちゃってるんだけどね。君達の知る22世紀に、及ばずとも近い科学力があるとだけ言っておく」
のび太の質問に頷く。科学力、という言い方をしたのは“科学文明”ではないからだ。すぐに分かることだから今その説明は省くけれど。
「……僕は君達に言ったね。タイムマシンなんか存在しないって。実際、君達の知る22世紀の世界は幻だ。いや、幻になったと言うべきか」
廃旅館でのび太達と再会した時、ドラえもんは呟いた。全てが幻だったら良かったのに、と。
本当に辛いのは。実は幻でありながら何一つ幻で無かった事なのだ。
「百年前の現実には、実在したんだよ。タイムマシンも、あの22世紀やドラミや……秘密道具も、全部ね。
オリジナルの僕は……22世紀からダメダメなのび太君を矯正しに来た存在だった。君達の知るシナリオ、そのままさ」
本当なら、そんな日々が続く筈だった。
すぐ泣きつくのび太をドラえもんが叱り、不思議な冒険をして、秘密道具でドタバタ騒ぎをして――こんな血なまぐさい物語にはならない筈だった。それが本来の世界だったのだから。
「でもアルルネシアが来た事で全ては破綻した。勿論当時アルルネシアの存在を知ってた奴は稀だっただろうけど……とにかく奴がバイオハザードを起こした筈で、歴史はねじまがってしまったんだ」
「消滅したんですね」
聖奈が悲しそうに言う。
「本来あった筈の22世紀も……オリジナルのドラえもんさんも」
そう。
世界がウイルスに呑み込まれるのはあっという間だった。放送室の新聞記事がその全てを物語る。ウイルスが蔓延した日本はあっさり世界に見捨てられた。某国に至っては世界の為と正義を振りかざして都心に核を落としてきたのだからどうしようもない。
「ススキヶ原から始まった異変は、世界を侵して、破滅させた。たった数年。それも多分持ちこたえた方だろう。文明はウイルスと、それに付随する様々な争いのせいで、滅びの一途を辿った。当然、22世紀の未来に繋がる筈もない。アンデットと、壊れたビルと、焼き払われた大地。……そんな世界で、生き残った人間が一人だけいたんだ。誰か、わかるよね?」
「セワシか!」
「そう。彼はウイルスの完全適合者だった。だから感染する事も老いる事もなく生きた……否、死ぬ事が出来なかった。そんな彼に残された希望は一つだけだ」
想像するだけで気が狂いそうだ。彼の絶望。彼の嘆き。彼の、闇。世界にたった一人。アンデットと屍の山に囲まれて、それでも生きなければならない絶望を。一体誰が理解出来るだろう。
しかもこれが全てでは、ない。
「セワシ君は決意した。歴史をあるべき姿に戻す事を。そしてその手伝いをさせる為に、この僕と出木杉君を生み出したんだ。……そう」
そこで言葉を切り。
ドラえもんはのび太を、見た。
「かつての親友と……オリジナルのドラえもんと同じ姿の僕を、造ったんだ」
ああ。今ののび太の顔も仲間達の顔も、なんて表現すればいいのやら。のび太は目を見開き、暫くそのまま視線をさまよわせた。彼なりに必死で考え、葛藤しているのだろう。あるいは薄々予想はしていたのだろう。それでも受け入れ難くて、抗っているのかもしれない。
ヒントは全て提示されている。
のび太が消えればセワシも消える。二人はそっくりな顔をしていて、しかしセワシはのび太の子孫ではない。そして、セワシはのび太を憎む。のび太だけを、憎む。彼の仲間達の幸せは祈っているのに、何故?
「……宿命の魔術師、セワシの代理権限で赤き真実を執行する。【セワシ君は宿命の魔術師だ。】そう、のび太君と…同じ」
答えは、一つ。
「【セワシ君の正体は、未来ののび太君……君なんだよ】」
***
−−西暦1995年8月、研究所・某所。
本当はこんな場所では自重すべきと分かっているし、普段は吸わない。それでも、疲れを吐き出す為に煙草に手を出したくなる時はある。
メンソールを元に、匂いとニコチン度数をさらに下げた煙草に火をつける。セワシは小さく煙を吸い込み、そして吐いた。ドラえもんと出木杉が来てからは“いくら少なくても煙草は絶対駄目”と説教され、殆ど吸っていなかったのだが。
今二人は此処にいないし、自分の様子が把握出来る状態にもない。どうせのび太を消して自分も消えるのだ。少しくらい不健康な真似も許して欲しい。
この姿で成長が止まってから、百年は経過している。正直正式な月日は分からない。
荒廃した世界には辛うじて昼と夜があるだけで、月日の経過を示すものなど何も無かったのだから。本当ならとっくにヨボヨボになっているか、死んでいた筈なのに。
1995年の、8月。あの日が、地獄の始まりだった。
魔界を冒険したり。異次元を冒険したり。はたまた地底人の国や、雲の上の天上人、海の上だとか太古の恐竜時代だとか、ブリキの国だとか宇宙だとか。
大変な目にはたくさん遭ったが。そのどれもが今ではセピア色がかった幸せな記憶だ。あの頃誰もが当たり前のように泣いて、笑って、怒っていた。
幸せが幸せだと気付かない。気付かずにいられる。それがどれだけ恵まれた事だったか。あの頃誰一人――知らなかった。
始まりの数日前。まだ『のび太』だった当時のセワシは、いつものように『ドラえもん』に泣きついていた。イベントいっぱいの夏休み。
スネ夫にまたグアム旅行の自慢をされ、しかも“一週間後はハワイなんだ”と笑顔で言われたものだから――とにかく悔しくてたまらなかったのである。
財閥の息子であるスネ夫を比較対象にするのがまず間違っているが。いずれにせよのび太の両親は、あまり旅行に興味が無かった。
経済面の事情もあったのではと今なら思うが、当時まだ幼かった自分にそんな事情が分かるわけもない。
『相変わらずのび太君は我が儘なんだから。いつまでもそんな調子じゃ、僕がいなくなった時困るよ?』
『ドラえもん』は相変わらず保護者目線で説教する。だが自分は聞き流した。
説教とわかるだけで聴く気にならなかったのもあるし、何より想像出来なかったのだ。ドラえもんがいなくなる、なんて。
実際『ドラえもん』が未来に帰りかけた事はある。しかしあの時は感動的な別れをした筈が、道具の効果によりあっさり帰ってこれる事になって。
もう二度と離れたくない――そう思ったと同時に、盲信してしまった。『ドラえもん』は必ず、何があっても自分の元に帰ってくるのだ、と。
もしかしたらこれは罰なのかもしれない。喪失を、痛みを。忘れて甘え続けた、罰。
『仕方ないなあ。でもちゃんとみんなも誘いなよ?内緒にしたってどうせバレるんだから』
『う、煩いやい!』
やがて始まりの三日前が訪れる。
自分達は夏休みの半ば、『ドラえもん』にとある無人島に連れて行ってもらった。誰にも邪魔されず好きなことをやって思う存分バカンスを楽しんだ。
そして、帰宅の日。三日も見ていない家族の顔が見れると思うと、なんだかうれしい気分になる。
だけど、待っていたのは悪夢だった――。
「……本当に、タチの悪い悪夢だ」
帰宅した時にはもう始まっていたのだろう。しかし『のび太』は何も気付かず、いつものように昼寝をしていたのだから笑うしかない。
『ドラえもん』に起こされて、慌てて母に挨拶をしに行って――やっと事態は発覚する。愛する母はもう母ではなくなり。彼女の前には変わり果てた父が転がっていたのだから。
幸せに気づけなかった、日。
自分達の現実は、脆くも崩れ去ったのだ。
――俺は…俺達は。アンデットになったあの人を、殺した。
分かっている。アンデット化した時点で生物としては既に死亡していると。でも、だからといって納得できる筈はないのだ。
今でも、この手には残っている。パニックになって母を刺した包丁、その感触が生々しいほどに。泣き叫ぶ自分を支えてくれたのは、『ドラえもん』だった。
『のび太君は悪くないよ。大丈夫……僕がいるから』
彼も泣いていた。だけど泣きじゃくりながらも言ってくれたのだ。その言葉でどれだけ『のび太』が救われたか、きっと誰にも分かるまい。
『だけど逃げるちゃ駄目だ。どんな恐ろしい景色でも……今が現実なんだ。目を背けちゃいけない。生きる為に、戦おう』
出木杉がこの世界ののび太に言った言葉は。そのまま、かつて自分が『ドラえもん』に言われた言葉だった。
今こそが現実。生きる為には戦うしかない。
1995年8月。悪夢が始まったその日。
慣れない武器を片手に持ち、されど立ち尽くす暇などない。亡者だらけの景色の中、『のび太』は走り出した。逃げるように、同時に抗うように。『ドラえもん』に、その手を引かれて。
セワシは目を閉じて回想する。臆病だった過去を。
第百七話
真実
〜残酷無慈悲な、宴〜
どうしようもないくらい切実に。