本当の1995年8月。当時『のび太』として生きていたセワシに分かった事は、そう多くない。

ただ、世界が壊れてしまった事を漠然と認識しただけだ。

十歳の自分は幼く、未熟で、そして弱かった。

 『ドラえもん』と二人、這々の体で辿り着いた学校の保健室。そこにいたメンバーは当然、この世界とは異なっている。

ヒロトと綱海がいる筈はないし、逆にこの世界にはいなかった人間もいたりする。

 静香、武、スネ夫。

 健治、聖奈、太郎。

 金田、そして――オリジナルの『出木杉』。そう、最初の世界ではそこに『出木杉』が仲間として存在していたのだ。

 このメンバーに加えて『のび太』と『ドラえもん』。スタートはそこからだった。

しかし、この世界とはある事が決定的に違う。

それは、『のび太』に勇気が無かった事。皆の中心になって奮い立たせるのは健治であったり『ドラえもん』であったり『出木杉』であったりした。

『のび太』はそんなみんなの勇気に必死でしがみつくだけで精一杯だったのだ。

 

――俺は、弱かった。銃が得意だったから全く役立たずじゃなかったんだろうが。ここ一番で勇気を持つ事が、出来なかったんだ。

 

 アルルネシアは物語の外からやって来た異分子だ。本来外からの存在は、異世界の歴史を大きく変えてはならないというのが暗黙の了解である。

だが相手はあの災禍の魔女。干渉値を律儀に守る筈もない。

歴史は狂いに狂った。自分達は魔女の望むまま、好き勝手に踊らされたのだ。

 脱出路を探すべく探索を始めた仲間達。絶望的な状況でも、なんとか生きる希望を捨てずにいようと励ましあった。

静香達はともかく健治達は出会ったばかりだが、彼らは皆優しく強かった。

仲間達に出逢えなければ、セワシは“こうなる”前に命を落としていたかもしれない。

 短い付き合いだったが。彼らは掛け替えのない仲間だった。時間よりも密度なのだ。

失いたくない大切な存在。危機的な状況だからこそよりそう思ったのかもしれない。

『のび太』は彼らと供に生きて脱出する事を心から望んでいた。

束の間とはいえ彼らは自分に、両親の死という悲劇を忘れさせてくれる存在だったのだ。

 けれど、シナリオは残酷だった。

 一番最初に死んだのはスネ夫。彼は資料室に追い詰められ、複数のゾンビにまるでリンチされるかのごとく食い殺された。

今でも忘れる事が出来ない。彼は無線で助けを求めてきたのに――『のび太』は間に合う事が出来なかったのだから。

 その次は廃旅館でやられた健治。

しかし当時の自分達は彼の死について何も分からなかった。自分達が行き着いた時には健治は身体を真っ二つに引き裂かれた死体と化しており、気が触れた太郎と共に残されていたのだから。

 その太郎も長生きは出来なかった。突然発狂し、武を半ば道連れにしてハンターに食われてしまった。

きっと健治が死んだ時、彼の中で何かが派手に壊れてしまったのだろう。

そもそも幼い太郎がこの世界で理性を保っているのがまず奇跡的なのだ。

 バイオゲラスにやられ、感染した状態で途中から合流した安雄。彼は生に執着するあまり、皆の足を引っ張り続けた。

同じく途中合流だったはる夫は安雄のせいで死んだと言っても過言ではない。戦闘中に彼らが揉めた結果、はる夫はブラックタイガーに食われたのだから。

 さらには聖奈と金田。彼らもまた安雄のせいで凄惨な末路を辿る。

最終的にアンデット化した安雄にウイルスを貰ってしまい、彼女と彼もまたアンデットにされてしまった。

安雄と聖奈と金田。三人を涙ながらに始末したのは『のび太』である。

まさか母についで仲間まで手にかける羽目になるなんて、一体誰が想像しただろうか。

 残ったのは『のび太』、静香、『出木杉』、『ドラえもん』。たくさんの犠牲を祓いながら、校舎を逃げ回る五人。

真相を究明する。そんな余裕は、誰にもなくなっていた。その危惧に気付いたのも、事態が起きてしまってからである。

 

『こうなるだろうなって、途中から気付いてたんだ。1995年の8月。ススキヶ原で殺人ウイルスのパンデミックが起きる。……こんな事件、22世紀の歴史には無かったから』

 

 物語は、身勝手な誰かの手によって修正不可能なほど改竄されてしまった。このままでは日本は壊滅する。それだけの事件が起きて、歴史が揺らがない筈がない。

 自分達の歴史が、本来の歴史と繋がらなくなった。それが決定的になった瞬間、『のび太』の目の前で――『ドラえもん』の消滅が始まったのだ。

 

『僕は確信したよ。誰かは分からない。でもこの世界の歴史に介入して全てを壊した奴がいる。これは時間犯罪か異世界犯罪のどっちかだ。結果僕の生まれた22世紀は今、消えようとしている』

『そんな……嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だっ!嫌だよドラえもん!!

 

 泣き叫ぶしか出来ない『のび太』。ここにきて、一番の親友を失うなんて冗談じゃない。

彼はロボットだ。ウイルスには感染しない。だからきっとこれからも大丈夫だと――傍にいてくれる筈と、信じていたのに。

 

『ごめんね、のび太君。でも……どうか、諦めないで』

 

 一番辛いのは消えてしまう彼の筈なのに。涙を流しながらも、彼は。

 

『あの22世紀を知る君が……生き残ってくれたら。可能性は繋がる。一度消滅した未来をもう一度取り戻す可能性が』

 

 彼は、微笑っていたのだ。

 

『僕が持ってる未来への切符はこれだけだけど。君ならきっと、出来る。これをどうか秘密道具の開発に繋げて欲しい。そして真実を解き明かし、この偽物の歴史を終わらせるんだ』

 

 消える直前。『ドラえもん』は自分に一つのマイクロチップを託した。一部の秘密道具の開発データが入ったそれを、何故子守ロボットの『ドラえもん』が持っていたかは定かでない。

 しかし。理由など些末な事だ。秘密道具――特にタイムマシンを早急に開発出来れば、失われた未来をもう一度取り戻す事が出来るかもしれない。

このバイオハザードの原因を突き止め、歴史を修正する。そうすれば元に戻る筈だ。『ドラえもん』だけじゃない。この事件で犠牲になった人達、その全てが。

 

『僕に、本当に出来るの?頭だって悪いし、運動神経もないし度胸もないし……ダメダメな僕なのに』

『出来るさ』

 

 最期の握手。あの約束を忘れた事は、一度だってない。

 

『君は誰より優しい子だって知ってる。そりゃ大変迷惑はかけられたけどもさ……君に貰ったものは、それ以上にたくさんあったよ。君はみんなを幸せに出来る強い子だ。今はちょっとそれを忘れちゃってるだけだ』

 

 いつも、バカだとかノロマだとか頼りにならないだとか。散々毒を吐いてくれるくせに、何で。

 何でこんな時になって自分を誉めたりするんだろう。

 何でそんな事を、言うのだろう。

 

『こんなお別れになっちゃってごめん。でも、さよならは言わないよ。また逢おう。約束だよ』

 

 その約束は鎖だった。だけど多分その約束があったから、自分はまだこうして辛うじてながらに息をしていられる。心が完全に死なずに済んだと言っていい。

 

『……うん。約束』

 

 『のび太』は誓った。彼との約束を守ると。その為には生きなければならない。生きて、未来を繋ぐ他ない。

 自分の頭で出来るかどうかは分からないけど。幸い『出木杉』も協力を申し出てくれた。

彼の頭脳なら、不可能を可能に出来る筈だ。そして『出木杉』に及ばないまでも、静香もなかなか頭がいい。

無論二人だけに全て投げるつもりはないが、一人きりの挑戦ならきっとなんとかなる。その時はそう、信じていた。

 だが。誰かさんの描いた脚本は悉く身勝手で、残酷だった。

アンブレラの傭兵達が襲撃してきたのである。三人は連中に揃って捕まってしまった。

彼らは英語しか喋らなかった為、自分達には彼らの正体も目的も分からなかった。

 知らされたのは。研究所に拉致されてからである。

 

『君は、二つの大きな可能性を秘めている。野比のび太君』

 

 担当者と名乗った白衣の男は、日本人だった。彼は自分達の所属や名前を名乗ることもせず、ただ淡々と目的だけを説明した。

 

『ウイルスの完全適合者である可能性。そして不幸輪廻因子を持つ可能性。……どちらも興味深いことだ』

『不幸輪廻……因子?なんなの、それ』

『周りの人間に不幸を引き寄せる体質とでも言えばいいか。……もしかしたら君の町が実験台に選ばれたのも、君の仲間が次々と死んだのも……偶然ではないかもしれないな?』

『………っ!』

 

 その時の衝撃を、なんと説明すればいいのか分からない。頭を鈍器で殴られ、頸骨も叩き折られ、首が逆さまに捻れて――なのにまだ自分の身に起きた事が把握できない。

まさに、そんな感覚だった。

 

『僕のせいで……?』

 

 茫然自失のまま。『のび太』は生体実験に晒された。ウイルスを打たれ、他にもいろいろ薬を投与され。

ぐずぐずに溶けていく意識の中、その死にそうな罪悪感と後悔が脳髄を支配していった。

 

 僕ノセイ?

 僕ガイナケレバ?

 ままモぱぱモ、すね夫ヤ健治サンヤ聖奈サン…ミンナガ死ヌコトハナカッタ?

 

 僕ガイタカラ?

 どらエモンハ消エチャッタノ?

 

――眠っているか起きているかも分からない日々が続いた。壊れた意識の中で俺はひたすら謝り続けた。

 

『ごめんなさい』

 

――そんな事をしたってどうにもならないのに。

 

『ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい』

 

 その果てに、残ったのは――憎悪。

 この事件を引き起こした全てが憎かった。あの研究者達。傭兵達。

そして何より自分自身が。

 責める感情と憎む感情。はちきれんばかりにそれらが膨れ上がっていったのは、あるいは実験の影響だったのかもしれない。

正直なところ、『のび太』は自分が何をされたのか、よく理解していなかった。物凄く怖いことや痛い事をされた気もするが、どこからが夢で現実だったのか怪しい。

 あるいは。脳の自己防衛本能が記憶を封じてしまったのかもしれない。どっちでも良かった。大事なのは自分が受けた生体実験の内容などではないのだから。

 

――俺がはっきりと目覚めた時。そこは真っ白な部屋だった。

 

 患者の着る入院着のような服を着て、ベッドに縛り付けられていた自分。不思議な事に、周りには誰もいなかった。無理矢理点滴と拘束具を外し、ふらつく足でベッドを降りる。靴などないから裸足だ。

 長い間寝ていた割に、目眩がおさまるのは早かった。そしてやけに身体が軽かった。自分は一体、どうなってしまったのか。

 

――まだ何も知らなかった。どうして実験体の俺が、睡眠薬が切れるまで放置されていたのかも。

 

 既に全ては後戻り出来ない場所にあったのだ。厚く引かれたカーテンの向こう。窓の外を見た『のび太』は絶句する。

 そこは見たことのない異国の地。なのに何故だろう。

 ススキヶ原と同じ地獄が広がるのは。

 

百八

 懺悔

よりも深く、暗く〜

 

 

 

 

最期の時に、誰の名前を呼ぶの。