――西暦1995年8月、研究所・食堂。

 

 

 

 暫く。誰一人とて口を開く事が出来なかった。

 静香はただただだ溢れる涙を拭う事も出来ず、唇を噛み締める他なかった。

悔しかったのだ。何一つ、何一つ。気付く事も、想像する事も出来なかった自分が。

 

 【セワシとのび太は同一人物である。】

 

 アルルネシアの宣言する赤を聴いた為、自分は一足先に真実を知っていた。

しかし、自分が知らされた真実など断片的なものでしかない。

セワシがいかに苦しみ、悲しみ、時を重ねてきたか。事実にはその感情は一切含まれていないのだから。

 

――そうよ。最初に疑うべきだったんだわ。

 

 セワシが現れた時。ドラえもんが現れた時。既に可能性は提示されていた。

タイムマシンがないとドラえもんが言った時点で、セワシが自分達の子孫である可能性はほぼなくなっていたのだから。

 そして単なる血縁と言うにはあまりに二人の顔は似すぎていた。

髪型と服装、纏う雰囲気にのび太の眼鏡。

それらが二人を全く別の人間であるように錯覚させていただけで。

 いや。未来人とはいえ、顔を合わせた以上別の存在というのも間違いではない。

だがその上で考えても良かった筈だ。二人が同じ顔を持って、そこに立っている理由を。

 双子か少なくとも年子の兄弟。

 あるいはクローン。

 最後の一つとして――パラレルワールドないし違う時間軸から来た、同一人物の可能性。

 どの可能性もゼロでは無かった。ただ、クローンは無いだろうと早い段階で思っていたのだ。

確立してはいるものの、今のクローン技術はあまりに不完全。遺伝子学上大きな問題があると指摘を受けている。

 ましてやセワシの外見からするに、十年は年を得ている。

十年前はもっと技術は未熟であった筈である。

 

――状況証拠。彼らの言葉。全てひっくるめて……セワシさんがのび太さんと同一人物なら、今までのいくつもの疑問が解決できる。

 

 何故聖奈やスネ夫を助けてくれたのか。

 当たり前だ。彼にとって自分達は確かに、過去共に戦った仲間だったのだ。

仲間を助けるのに躊躇いはない。自分達の知るのび太だって同じことをするだろう。

 そして何故あんなにものび太を憎んだのか。違うのだ。

彼が本当に憎んでいたのは、恨んでいたのは。

 

「ずっと、責めてたんだわ。のび太さんが憎いって……殺したいって言ったのは」

 

 なんて言えばいいのだろう。

 悲しくて苦しくて、死んでしまいそうだ。

 

「本当は全部、過去の自分に言いたかった事だから。自分さえいなければ。自分さえ存在しなければこんな事にならなかった筈だって……セワシさんはずっと、のび太さんを通して自分自身を責め続けてたんだ……っ!」

 

 自分自身が弱くなければ。不幸輪廻因子なんてものを持ってなければ。こんな悲劇は起こらなかったのではないか。

 野比のび太(自分)が全ての元凶。だから憎かった――殺してしまいたかった。

 

「……死ねなかったんだって」

 

 ぽつり、と。呟くドラえもん。

 

「セワシ君、何回も死のうとしたんだって。自分がいるせいで、もっと静香ちゃん達が不幸になったら嫌だからって。でも……死ねなかったんだ。T−ウイルスの再生能力は異常なほどだから」

「……そんな」

 

 スネ夫が呆然としたように、言う。

 

「そんなことって……そんな」

 

 何か言いたいのに、なんと言えばいいのかさえ分からない。目の前に突きつけられた絶望はあまりに深く、誰が覗いても底など見えなかった。

 静香はのび太を見る。のび太の顔からは完全に表情が消えていた。

 

「……放送室で見つけた日記。マジでセワシの奴のもんだったのか。“俺”ないし“僕”がセワシ。“彼”が出木杉。“彼女”が静香ちゃん。そして“君”が……ドラえもん」

 

 武が呻くような声を出す。

 

「何であの日記の…字とか書き方が全然違うのか気になってたんだけどよ。そりゃ書いた時期が何十年もまたいでりゃ、字も変わるよな」

「一番最初の文章は、研究所を逃げ出して間もないのび太さんが書いたもの。当時はセワシさんが本当に11歳だった頃のものだから……子供の字だったんだわ」

「ああ」

 

 自分は日記そのものは見ていない。しかし文章の内容は聴いている。平仮名だらけの日記が漢字になり、しっかりした文章になるほどの時間。子供が大人になるよりずっと長い時間――セワシは仲間と、戦い続けていたのだ。

 

 

 

−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 彼女にも、置いていかれた。

 世界にはもう、俺独りだけだ。

 独りは、嫌だ。これは俺のエゴ。

 偽物の君を作ることを。偽物の彼を側に置くことを。

 どうか、どうか赦してくれ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

 

 

 そしてまだ、彼の絶望は終わっていない。

 出木杉が死に、静香が死に。生き物の殆どが死に絶えた世界に、たった一人取り残されてしまったセワシ。

死にたくとも死ねない身体。いつまでも子供のままの自分。気が狂いそうだった筈だ。否――自分ならきっと、そうなっていただろう。

 

「世界でひとりぼっち……」

 

 太郎がぎゅっと服の裾握りしめる。

 

「そんなの、寂しすぎるよ」

 

 寂しすぎる。悲しすぎる。感情の針はきっと振り切ってしまう。

 だけど気をやってしまえば、友との約束は果たせない。セワシには発狂する事さえ許されていなかったのだ。

 

「偽物の、君を創る」

 

 やがて。ずっと黙りこんでいたのび太が口を開く。

 

「そうしてセワシ君は作ったんだね。未来と一緒に消えてしまったオリジナルの『ドラえもん』と同じ姿の……君を。君と出木杉君を」

「……そうだよ」

 

 ドラえもんが悲しそうに微笑む。

 

「僕達は、あくまでコピーなんだ。セワシ君が逢いたくてたまらない本物の『ドラえもん』と『出木杉英才』じゃない。たった一人きりになってしまったセワシ君を助ける為に、セワシ君の為だけに生まれたロボットなんだ」

 

 今までバラバラだった欠片が、驚くほど簡単に繋がってゆく。

ドラえもんが何故セワシに逆らえない、否逆らいたくないのか。

それはただ単にセワシが創物主だからというわけではあるまい。

 

「セワシ君は僕達に何も強制してない。ただ頼んだだけだ。傍にいて欲しいって。僕達はそれに応えた。……僕達は僕達の意志で、セワシ君の傍にいる」

 

 感情を堪えるように。抑えるように――ドラえもんは一つ、息を吐いた。

 

「僕達にはオリジナルの記憶もある。人格もオリジナルのそのままだ。だから、元々『のび太』君への情はあったけど、理由はそれだけじゃないよ」

「そう。僕達はずっと傍で見ていた。セワシ君の絶望も、孤独も……全部」

 

 ドラえもんの言葉を、出来杉が引き継ぐ。

 

「だから彼を救いたい。彼の望みなら何だって叶えてあげたい。

その為ならどんな犠牲でも払う。どんな酷い真似もする。……安雄君を殺したのもそう。

彼が長く生きると他の仲間達の足を引っ張るのが分かっていたから……死に追いやった。

全部セワシの望みを叶えたい、僕達自身の為だ」

 

 安雄の死を思い出し、静香は何も言えなくなる。

ほんの少し前まで、どんな理由があろうと安雄を死なせた件だけはセワシを許さないつもりだった。

理不尽に犠牲になっていい人間などいない。

何より自分達の知る彼は仲間の為に命を捨てる事も厭わぬ、とても勇敢な少年だったのだ。

 しかし。全てを聴いた今、ただ彼らを責める事はできなかった。同情では断じてない。

それでも自分には彼らを責める資格がないと静香は分かってしまっていた。

 愛する人の為なら何だってしたい。どんなものもあげたい。誰かの死さえ献上しよう。

愛の意味は違えど形は同じ。自分がドラえもんの立場ならきっと同じ事をする。

 傷ついてボロボロになった大切の人を前にしては。他のどんなモノも二の次に変わってしまう。それが――人間。

ドラえもんも出木杉もロボットかもしれないが、心は悲しいまでに人間だった。つまり、そういう事だろう。

 

「……まだ話は終わりではないですよね。この箱庭の世界について、が説明されてませんから」

 

 感傷を振り切るように口を開く聖奈。

 

「貴方達は、タイムマシンの開発に頓挫した。でも過去を“箱庭”に移して再現する技術は得た。……結果、別の手段で世界を救う事を考えついた。そうですね?」

「そう。僕達はたった一つだけ、歴史を変える方法を確立させたんだ。ただし、それはタイムマシンを使うより遙かに難しいこと」

 

 ダイニングキッチンの横にあったメモ帳とペンを持ち出し、ドラえもんが説明する。

 

「この世界は過去を再現したもの。僕達や他の誰かが何も干渉しなければ、歴史はセワシ君の知る世界とまったく同じルートを辿る。

でも……箱庭の中なら歴史は変えられるんだ。今この世界が既に史実とは全く異なる歴史を歩んでるのは君たちも知る通り。

史実ではとっくにセワシ君と僕と出木杉君以外全滅してたし、研究所に辿り着く事も無かったんだから」

「それがお前らやヒロト達の干渉で全然別物になった?」

「うん。僕達はこの過去を再現した世界で、僕達の望む歴史が作れるか、実験を始めたんだ」

 

 ドラえもんの字は上手ではないが、丸っこくでわりと読みやすい。名は体を表すとはまさしくこの事か。

 

「この箱庭はただの箱庭じゃない。たった一度だけ、歴史を上書きする事が出来る箱庭なんだ。セワシ君が血のにじむような努力をしてやっと生み出したチャンス。この世界で望み通りのシナリオを描き出し、上書きすれば……歴史をあるべき姿へ戻す事も、不可能じゃない」

 

 たった一度だけ。それがネックだったのだろう。段々と静香にも話の流れが理解できてきた。

 セワシが何故自分達の行く末や健治や聖奈の危機を察知出来たのか。それは彼が過去実際に歴史を体験したからだけではない。

 この箱庭の世界で、何度も繰り返したからだ。悲劇が起きた過去を――何度も、何度も。

 

「セワシ君はこの箱庭の世界を繰り返し、最善の歴史を作り上書きしようと考えた。でもそれにはいくつも問題があるんだ」

 

 のび太、静香、スネ夫、ドラえもん――と皆の名前を書いていくドラえもん。

そして書き終わって次にしたことは、ドラえもんと出木杉の名前の上にバッテンをつける事だった。

 

「歴史が不当に歪められた結果、いくつも矛盾が起きた。まず22世紀が消えた以上、過去の世界に“ドラえもん”は出現出来ない。そして出木杉君のオリジナルも存在を抹消されてしまった」

「どういうこと?」

「歴史は全て地続きなんだよ。確かに事件が起きたのは出木杉君が生まれた後だけど、根本から不正干渉により未来が歪められた結果、過去まで歪んでしまう事もあるんだ」

 

 ドラえもんは一人一人を見回し、苦しげに顔を歪めた。

 

「この世界に神様なんかいない。セワシ君の願いはいつまで経っても叶わなかった」

 

 シナリオは一度もセワシの思い通りになっていない。静香はアルルネシアの赤を思い出す。

 世界は残酷だ。何度自分達はそれを思い知ればいいのだろう。

 

百十

 絶望

〜言さえ遠いほどに〜

 

 

 

 

切望のフリージア。