【ドラえもんに、セワシの意志は越えられない。】

 それは既にアルルネシアから代理権限を得た静香に宣言されていることだ。

だから自分はセワシにはけして逆らえない。否、わざわざ宣言されるまでもない事。

セワシがいたから自分が生まれた。たとえそれが“本物のドラえもん”の代わりだっていい。彼を救いたい、その気持ちだけは真実だったから。

 彼が望むなら、消えても構わないとドラえもんは思っていた。ただ一つ心残りがある事を除けば。

 

「……君に、セワシ君の何が分かるの……って言いたかったんだけど」

 

 ぽつり、と呟くように落ちる言葉。

 

「でも……セワシ君は君、なんだよね。分かってなかったのは僕の方なのかな」

 

 セワシの苦悩を何度も見た。気持ちが荒れに荒れて、無理だと知りながらビルから身を投げた瞬間さえ見ていた。手首を切るたびに絶望していた事も、頭をかきむしるように声を枯らした夜も。

 彼はただ、終わらせてしまいたいんだと思っていた。世界が救われて自分も終われるならそれ以上の選択はない、と。

その考えは間違いなくあった筈だ。だが、それだけではなかったのだろうか。

 セワシの事は自分が一番よく知っているつもりだった。だけど自分はけしてセワシと対等にはなれない。

彼が何をどう間違えても、無茶をしても叱れない。ただ嘆いて同情して、慰めるだけ。だから見えてないものがあったのかもしれない。

 セワシが自分を見るたび悲しそうな眼をした理由は。自分達が偽物だから、それだけが理由ではなくて。

 

「僕がもっと早く、言えてたら良かったのかな」

 

 ドラえもんが本気でセワシにぶつかれる存在ではなかったから。オリジナルなら出来た筈のことが、自分には出来なかったから。

 

「死んじゃ嫌だよって。君の幸せな顔見る前に…消えたくないよって。泣き喚いてでも縋って止めたら……何かは変わったのかな」

 

 頬の生ぬるさに、自分がとっくに泣いていた事を知った。言えなかった言葉。そのせいで、こんなにも後悔させられるだなんて思ってもみなかった。

 

「まだ間に合うさ」

 

 そんな自分に、のび太が言う。

 

「答えはセワシ君に直接確かめに行けばいい。……まだ何もかも終わったわけじゃない。後悔するのは早いよ、ドラえもん」

 

 そうなのだろうか。

 まだ、間に合うのだろうか。

 

「『偶然のような必然の中僕等は走り出した。この馬鹿げた運命に風穴を空ける為に。僕を裏切ると言うのなら正面からぶつかってきて。まだ絆は断ち切れてないって信じてるから』」

 

 不意に、聖奈が謡う。

 

「『End of the nightmare』の最初のサビの歌詞です。この歌……作ったのはセワシさんなのではありませんか?」

 

 そうだ。それはこの世界の健治が弾き語りしたあの歌。セワシが作詞しドラえもんが作曲した――あの歌だ。

 でも何故それが自分達の曲だと分かったのだろう。ドラえもんはおずおずと頷く。

 

「そうだよ。この世界で譜面と歌詞カードをなくしちゃってさ。何で分かったの?」

「分かりますよ。……だってピッタリすぎるじゃないですか」

 

 苦笑する聖奈。

 

「歌詞の中にも、セワシさんの気持ちを知るヒントはあります。セワシさんがぶつかってきて欲しかった相手は……のび太君であり、ドラえもんさんでもあるんじゃないでしょうか。そしてぶつかり合ってでも前に進もうとした理由は……絆を信じていたから」

 

 はっとしてドラえもんは顔を上げる。そうだ、この歌は。

 立ち向かう為にセワシが謡った歌ではないか。

 

「諦めてる人がこんな歌詞、書く筈がないじゃないですか」

「そうね」

 

 聖奈の言葉を静香が受け継ぐ。

 

「そして歌詞は最後にこう終わるわ」

 

“逃げ場の無い世界の片隅 孤独な闇の果てに

「もしも全てひと夏の 夢に過ぎないのならば!」

 

 呼ぶ声に僕は目を覚ます その向こうに君がいた

 もう二度と失くさないよ この手の中の宝物を”

 

「逃げ場のない世界の片隅に追い詰められても……まだ未来を諦められない気持ち。この長い長い夢が終わって、“おはよう”って目覚められる瞬間がきっと来る筈だって……セワシさんはまだ、信じてるのよ」

 

 静香の声が震えている。悲しくて切なくて――悲痛なまでの決意に満ちた声は。のび太と同じもの。

 

「諦めちゃ、駄目だよ」

 

 そして太郎も。

 

「待っててくれる人がいるなら、諦めちゃ駄目だよ。セワシの兄ちゃんも……ドラえもんも出木杉兄ちゃんも!」

 

 健治の死を乗り越えた、彼だからこその言葉。その太郎の頭をくしゃりと撫でて、武が言う。

 

「不幸だかなんだか知らないけどな。“のび太”がいない世界なんざつまらねぇんだよ。苛められっ子は必要だろ」

「違いない。のび太ほど自慢しがいのある奴はいないんだ。すぐ羨ましがって張り合ってくれるんだもんな」

 

 スネ夫が頷きながら同意する。

 

「幸せだとかなんだとか、そんなの誰かに決められるもんじゃないだろ。少なくとも面白くない世界なんて嫌なんだ。だからのび太にもセワシにも、意地でも頑張って貰わなくちゃ困る!」

 

 ふわり、と風が動いた。ドラえもんはしばし何が起きたか理解出来なかった。自分が呆けたほんのわずかな隙に。のび太に距離を詰められ――抱きしめられていた。

 とっさに言葉が出ない。何を語ればいいのか、相応しいのか。精密なプログラムの一切が働かなくなる。

 

「捕まえた」

 

 すぐ傍でのび太の声がする。

 

「電光丸のセンサーが反応するのは敵意や害意だけ。……だから敵意のない行動には反応出来ない。そうだろ?僕は最初から、君を傷つける気もないんだから」

 

 馬鹿だね、と。ドラえもんは呟いた。声にならなかったかもしれない。顔が熱くて、喉が痛くて、言葉が詰まる。

 究極のお人好しだ。究極の馬鹿だ。救いようがない。自分がこのままの体勢でのび太を刺せば一発なのに。そんな事も考えが及ばないなんて馬鹿以外の何者でもない。

 それとも。ドラえもんはそんな事しないと−−信じてるとでも言うのだろうか。

 

「のび太君、僕は……」

 

 自分なりの精一杯を、伝えよう。そう決めた瞬間だった。

 獣が吼えるような声と共に――天井を突き破り、何かが飛び込んで来たのは。ドラえもんは絶叫する。

 

「のび太君――ッ!」

 

 目の前が、真っ赤になった。

 

 

 

 

 ***

 

 

――西暦1995年8月、研究所・某所。

 

 

 

 ヒロトは緩慢な動作で振り返る。自分には未来を予知したり、遠く離れた場所の様子を察知するような力はない。

 それでも、あるのだ。何かを感じるような瞬間は。

 

「これも必然」

 

 リュウジが呟く。

 

「決められた未来なんて殆ど無いけど。限りなくそれに近い運命はある。健治さんの死がそうだったように」

 

 限りなくそれに近い運命。魔女であるリュウジが言うのだから、確率は絶望的なまでに高いのだろう。それを人間の手で破ろうというのだから、更に難易度は跳ね上がる。

 

「……絶望だらけの未来でも、俺は信じてるよ」

 

 だけど。否だからこそヒロトは言うのだ。

 

「だってのび太君は……円堂君と同じ眼をしてる」

 

 かつて自分達は、あまりに強大な絶望に晒され、運命にコテンパンに叩きのめされた。負けた、と言ってもいい。

目の前に立つのはあまりに強固な壁であり、盤面は今とは別の意味で美しいものだった。余計な感情の一切を拒むかのように。

 でも。一度運命に負けた自分達だから。絶望を知って、打ち砕かれて、ドン底から這い上がった自分達だから。

 絶望の打ち砕き方を知っている。同じような強固な運命に晒されても、絶望せずにいられるのだ。

 

「……と、緑川。君が表に出れるまで、どれくらいかな?」

 

 くらり、と出血による目眩を起こし、壁に手をつくヒロト。思いの外怪我が深刻である。特に首の傷からの出血が酷い。やり方を失敗した、と今悔やんでも仕方ないのだが。

 まだ辛うじて戦えるが、普段通りの力はもう出せないだろう。

 

「もう少し。……大丈夫。のび太君達がアルルネシアと戦う時は、手助けできるよ」

「でも君は今回アルルネシアと直接戦っちゃいけないってルールじゃなかったっけ?」

「そうだね、でも」

 

 くるり、とリュウジが振り向く。

 

「“彼ら”を祝福する事は出来る。補助魔法において俺の右に出る奴はいないよ」

 

 なんと頼もしい言葉か。ならば自分も、こんな場所で油を売ってる暇はないなと思う。ボロボロの体でもまだ出来る事はある。もっと酷い怪我をしていた健治だってあれだけの頑張りを見せてくれたのだ。

 自分もまた答えなければならない。彼の想いに、彼らの心に。

 

――アルルネシアとの最終決戦は無理かもしれないけど。その前にありそうな中ボスバトルくらいなら…力を貸せそうかな。

 

 この世界で死なない自分達だからこそ、出来る事がある筈だ。

 

「……そして敵が空気を読んでくれない件」

 

 はぁ、と溜め息を吐くリュウジ。その視線の先を辿って、ヒロトは苦笑した。明かりの消えた階段の裏で、もぞもぞと何かが蠢いている。何だ、と思った途端“そいつら”は這い出してきた。

 異様なまでに充血した肌。全身の穴というから腐った血を垂れ流しながら、まるでゴキブリのように四つ足になって這ってきたのは――アンデットの突然変異、クリムゾンヘッドだ。

 折れ曲がった手足を絡ませあい、三体が仲むつまじく団子状になっている。センターを務める髪の長い女の眼が、血を垂れ流す眼でギロリと睨みつけてきた。まるでどこぞのホラー映画のヒロインのようである。

 

「リアル貞子来ちゃったけど」

「怖すぎだってば。……まあいいや、俺が片付けるからヒロトは下がっててよ。もうスネ夫君の監視もないし、この場所ならいくらでもやりようはある」

 

 んー、と伸びをして、リュウジが一歩前に出た。クリムゾンヘッドは、その肉体を燃やし尽くすか粉微塵にでもしない限り復活する。ならば大技で一気に粉砕する他ない。

 負傷したヒロトを気遣ってくれたのもあるだろうし。いい加減彼も派手にブチかましたかったのだろう。

 

「異界を統べる神官。我が正義に則り、審判を下せ」

 

 リュウジの身体を紫色のオーラが包む。オーラが人の形になり、最上級クラスの化身が姿を現す。

 いつ見ても圧巻だ。ヒロトはつい見とれてしまう。

 

「召喚、我が化身……神官ジャッジ!」

 

 異界の審判者が、ニヤリと笑みを浮かべた。その裁きは独善的で、無慈悲極まりないもの。ただ主の敵となるものを、一方的に断罪する。圧倒的な武力でもって。

 

「ブラッディ・アンコール」

 

 ぐしゃり、と。ジャッジの杖が巻き起こした風が、クリムゾンヘッド達を引き裂き、碧い焔で焼き尽くした。彼らに理性が残っていたところで理解など出来なかっただろう。

 蒸発したその場所には、血の一滴も残っていなかった。

 

「少し休んだら、俺達も行かなくちゃね。仕事はたくさんあるし」

「そうだね」

 

 リュウジは何事も無かったように嗤う。ヒロトと同じように。

 

百十四

 撃墜

を撃ち落とす日〜

 

 

 

 

幸せのためにどれだけ努力していいのだろう。