――西暦1995年8月、研究所・地下2F食堂B。
血飛沫が舞った。目の前で、のび太の身体がぐらりと傾ぐ。ドラえもんはただその光景を見ているしか出来なかった。
唸り声がする。パラパラと落ちてくる天井の欠片。砂埃の中から姿を現したのは、具現化された悪夢だった。
「ティンダロス、そんな……!」
スネ夫が絶望的な声を上げる。呼んだか?とでも言うようにティンダロスが吠えた。
三首の魔犬。遺伝子を弄び、アンブレラが産み出したB.O.W。その前足の爪が、血に染まっている。
地下一階から床を突き破って降りてきたそいつは。自分達が認知するより早く、襲いかかり――その鋭い爪で、のび太の背を抉ったのだ。
「う、ぁ……」
すぐ傍にいたドラえもんはもろに返り血を浴びていた。悲鳴さえ上げなかったのび太。何が起きたのか、本人さえ分かっていなかったかもしれない。
血の海に沈む彼はピクリとも動かない。背中の傷は恐ろしく、深い。ドラえもんは恐ろしくて、その生死さえ確かめられずにいた。
頭の中が軋みを上げる。分からない。目の前の光景が何一つ分からない。自分は夢を見ているのか。ああ確かにこの世界そのものが夢のようなものかもしれないけれど。
冷静な自分が諦めの声を囁く。
一瞬で意識まで持ってかれたのだ。あの傷では、下手したら――即死だ、と。
「嘘よ……」
呆然と、静香が呟く。
「嘘、こんなの嘘!のび太さっ……のび太さんのび太さんのび太さんっ!お願い、起きて……起きてぇぇぇっ!」
「し、静香ちゃん……!」
「いやああああああっ!!」
捻子が外れたように絶叫する静香を、武が必死で押さえ込む。静香の甲高い叫び声に、ティンダロスが反応するのは必然だった。
がうあああっ!
吼えながら、大口を開けて魔犬が二人に迫る。静香はまだ現実が見えていない。その静香を落ち着かす事で精一杯の武は迫る脅威への反応に遅れた。
パァアンッ!
はぜる銃声。ティンダロスの鼻先、まるで牽制するかのような一撃だった。魔犬の意識がそちらへ向く。
「狼狽えるな!希望はまだあるっ!」
撃ったのは出木杉だった。ボロボロの身体で、それでも毅然とアンドロイドの少年は敵を見据える。
「のび太君はセワシ君と同じ存在……つまり完全適合者だ!ウイルスに感染・発症する可能性は限りなく低い!!」
そうだ。
ドラえもんははっとして倒れたままののび太を見る。幸か不幸かのび太はウイルスに感染しない。セワシのような実験は受けていないが、完全適合者というのは実験の結果ではなく元々持っていた体質だ。
そしてのび太がセワシと同じ存在である以上、もう一つの方も可能性がある。
「もしのび太君が適合者として完全に覚醒すれば……行き着く先はセワシ君と同じ、不老不死だ。ならこれくらいの傷で死んだりしないはず……のび太君の気力を、信じよう」
「出木杉さん……」
泣きはらした静香の顔に、戸惑いの色が浮かぶ。のび太が助かる可能性がある事は嬉しい。しかし理解できないほど彼女は馬鹿ではない。
のび太が覚醒するという事はつまり。彼がセワシと同じ奈落に落ちる事を意味するのだから。
――でも、のび太君なら。今ののび太君なら……きっと。
どんなに嘆いても。恐れる事があっても。
この運命を受け止めて、立ち向かえるのではないか。
――何でこんなに僕、のび太君を買い被るかなあ。
ドラえもんは苦笑する。分かりきった事。なんせもう答えは出ている。
まだ諦めないで戦っているセワシの為に。未来の自分のあり方を受け止めて立ち向かうのび太の為に。そして彼らを愛する、自分と仲間達の為に。
一番の選択が何であるか。のび太が示してくれたからだ。
「……そうだね。諦めちゃ駄目だ」
空気砲を構える。この道具もショックガンと同様に、管理者権限ではないリアルの武器だ。オリジナル同様長年付き合った相棒である。ショックガンよりこちらの方が爽快で、その実大雑把なところがあるドラえもんの気性には合っていた。
「絶望が襲ってくるのは……僕らが自分に負けた時なんだから」
セワシが教えてくれた事。
のび太が教えてくれた事。
「セワシ君の所へ行って決着をつける!邪魔な奴はさっさと倒すっきゃないだろ!!」
自分はけして、無駄にしない。
「……ですね。絶望してる暇はありません」
聖奈がキッとティンダロスを睨み、銃を構えた。隣では同じくヘルブレイズ改・[型の撃鉄を起こすスネ夫の姿が。
「可哀想なワンちゃんに引導を渡してやりましょう。私達ののび太さんに傷を負わせた罪、万死に値します」
「聖奈さんがやたらカッコいいんですけど。男の立場が無いなあ」
「スネ夫君ってば何を今更。土壇場じゃ男の子より女の子のがずっと強いんです。……そうでしょう、静香さん」
静香に笑顔を向ける聖奈。静香は少し眼を見開いて沈黙した後――やがて吹っ切ったように、小さく笑った。
「そうね。……その通りだわ」
涙を拭って立ち上がる。
「のび太さんはあたしが守る。女の子の底力、見せてあげるんだから!!」
「その意気その意気。ぶっ倒しますよ、皆様方ッ!」
なんと豪快な。聖奈はいきなりティンダロスに向けてパイプ椅子をブン投げた。不意をつかれてか直撃を受けたB.O.Wは悲鳴を上げる。
確かに食堂のパイプ椅子はさほど重くない。重くはないがそれをあのスピードで投げつけるとなると――。
「うわぁお〜……」
「太郎、お前今すんごい間抜け面だぞ」
「だってさぁ武兄ちゃん……」
「いや、言いたい事は分かる。分かるけど黙ってた方が無難。死にたくないだろ」
太郎と武が漫才のような会話を繰り広げる。聞こえていたのか聖奈が満面の笑みで振り返り。
「何か言いましたかぁ、武君太郎君?」
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あれ、絶対零度って何度だったかな。今真夏のはずなんだけどなー、と凍えそうになりながらドラえもんは思う。ええ現実逃避ですが何か?
「い、いえ何でもねぇっす……な、なぁ太郎?」
「う、うん」
おお凄い、太郎はともかく武までガチでビビっている。
結論。触らぬ緑川聖奈に祟りなし。
「そこ!コントやってる暇ないからね!?」
出木杉が呆れ果てたように声をあげた。いやはや全くその通り。俺を無視すんじゃねぇよと言わんばかりにティンダロスがこちらに突進してきたので、ドラえもんは慌てて右に身体を転がした。
ふざける暇などないのは確かだが、戦場でジョークは欠かせないもの。皆の士気を高めるのに必要な挨拶に等しい。出木杉もそれを分かっているからこそ、それ以上は何も言わない。
「よっしゃ気持ちを切り替えっか!太郎、それっ」
武が刀を拾い上げ、太郎に投げる。太郎は見事にキャッチ。やはり小学一年生ながら運動神経や動体視力は悪くないらしい。
「さんきゅ、武兄ちゃん!」
「援護しろよ!!」
二人が駆け出す。全員だ。これで全員、戦う意志を思い出した。
勝利の女神は諦めない奴が好きなのだ。これだけ負けず嫌いが揃った盤面は初めてだろう。運命をひっくり返せるかもしれない。そんな時に、ティンダロスごときでモタモタなどしていられるものか。
「……静香ちゃん」
「なぁに、ドラちゃん?」
不安と、まだほんの少しの猜疑心が残る眼で静香は自分を見た。これが今の自分達の関係。ドラえもん自身の手でブチ壊したのだから致し方ない事である。
それでも、そんな眼にちくりと胸が痛む理由。ずっと見て見ぬフリが最善だと思い込もうとしてきたけど。
今なら分かる。自分はただ眼を背け、本当の願いから逃げていただけなのだと。
また昔のように笑いあいたい。そう願ったって良かったはずなのに、セワシを言い訳にして耳を塞いでいた。
何も犠牲にする必要などないのに、それを本当に望んでいたのは他でもないドラえもん自身なのに。
「君は、のび太君の傍にいてあげて」
この最期の夢が醒まして。
また笑顔で彼らに“おはよう”と言おう。あの頃と同じで違う、本当の歴史をもう一度始めよう。
「大丈夫。僕ももう、迷わないから。必ずあいつらを倒すよ」
その為の障害はどんな手を使っても排除してみせる。
ティンダロスも、アルルネシアも。立ちはだかる者全て。
「……分かった。信じてる」
静香は微笑み、悪戯っぽく言った。
「全部終わったらどら焼き十人前奢ってあげるわ。ずっと貯金してたんだけど、使い道なくて悩んでたのよね」
「じゃあ僕は焼き芋を……って季節的に無理か」
「もう、それは秘密だって言ったのに!」
「あはは、ごめんごめん」
焼き芋好きを隠してる(本人はそのつもり、なのだろうが実はみんな知ってたりする)静香はぷう、と可愛らしく頬を膨らませた。ドラえもん笑って、小さく手を振るとティンダロスに向かっていく。
会話の間にも戦況は進んでいた。聖奈、出木杉、スネ夫の三人がティンダロスの顔目掛けて銃弾を浴びせている。うまい、とドラえもんは素直に感心した。三人はお互いのペースを図り、弾を補充するタイミングがダブらないように気をつけている。
弾幕で怯ませ、その隙に太郎が斬りつける。さらに彼らが稼いでくれた時間を使って武がランチャーのタイムラグを埋めぶっ放す。
作戦は悪くない。俄か仕込みのコンビネーションとは思えぬ出来映えだ。だが。
――やっぱり正攻法じゃ無理…か。
装甲が堅い。顔や腹の下は大抵の生き物の弱点になるはずだが、あまり効いている様子がない。また、最大の問題として、聖奈達のコントロール力がさほど高くない事が挙げられる。
弾数に比べ、命中率がさほど高くないのだ。一般人にしては大健闘だろうし、のび太の射撃レベルと彼らを比べるのは些か申し訳ない事ではあるのだが。
命中率が低いということは弱点に当たらないだけでなく、仲間に流れ弾が飛ぶかもしれない危険性も孕んでいる。
おかげで太郎が思い切った攻撃に行けていない。聖奈達の標準もブレがちだ。
また。ティンダロスにはパワーがある。突然突進したり身体を振り回して暴れたりするのだ。
そのたびに攻撃を中止する羽目になり、武のロケットランチャーの攻撃はまだ一度も当てられていない。
暴れ出したティンダロスの動きは予測が困難で、かつ素早いのだ。
「このままじゃ弾切れでやられるんじゃないの、僕達!」
とうとうスネ夫が悲鳴を上げる。それでも攻撃の手を休めないのは流石だが。
「ドラえもん、なんか役に立ちそうな秘密道具ないの!? いっそ独裁スイッチでもいから!」
「固有名詞のない相手にアレは使えないってば!ってか何で君があの道具を知ってるのってツッコミたいんだけど!?」
「げ、原作無視ってことで…」
「ちょっとぉ!?」
「ドラえもん!君まで漫才始めるのはやめてくれる!?」
ついに出木杉の雷が落ちた。いやいや分かってますよ。分かってますって。
真面目に考えなければ。今あるカードでいかにして魔犬を倒すかを。
第百十五話
挟撃
〜争いのラプソディー
私はまだ望んでいたいの。