――西暦1995年8月、研究所・地下3F電気室。
欲しかった“鍵”と一緒にパスワードも見つけていたのは幸運だった。
セワシの指が、キーボードを滑る。地下3Fのあちこちに降りたシャッターを、手早く解除していく。
「………」
ふう、と一つ息を吐いた。これでこの世界での最低限の目標はクリアされた。あとは箱庭の外へ戻り、時間をもう一度巻き戻し――アルルネシアを倒せば、それで終わる。
だから、セワシがまだ此処にいる理由は二つだけだ。
一度箱庭にダイブすると、自分、ドラえもん、出木杉の三人はある一定条件を満たさない限り帰還出来ない。一定条件とは、この“悪夢が始まった日”の日付が変わることと、この町を脱出することだった。
今まではのび太達が研究所に辿りつけなかった為、危険を犯して町の中を突っ切ってきたわけだが(管理者権限を多様した極めて裏技的な方法である)。
今回はもう少しマシな手段がとれそうだ。マップを見る限り、地下から脱出する事が可能そうである。
ただしアルルネシアのことだ。
地下の脱出用の列車やシステムにも、何か仕掛けていそうな気がする。どこまで向こうの手の内を読み切れるか。
そしてもう一つの理由。それは、まだのび太を殺せていないという事である。
――ドラえもん……何故連絡してこない?
握りしめた拳が、嫌な音を立てる。
――まさかお前まで、情に負けたというのか。
ドラえもんもそう。出木杉もそう。彼らが悲しいくらい優しいのは、自分が一番よく知っている。そうでなければとっくに見限られていた筈だ。
確かに彼らを創ったのは自分だが、“必ず主に従え”なんてプログラムは組み込んでいないのだから。
出木杉ならまだ分かる。彼はドラえもんよりずっと理性的だ。実際、のび太を殺すのは余計なリスクを背負うだけだと言われれば否定出来ないのである。
もう鍵を持って無事脱出すれば済む段階だ。リスクと、仲間殺しの責を両方負うのは割に合わない。彼がそう考えても、仕方ない。
だけどドラえもんは違う。
彼は出木杉のような事が出来る質じゃない。
オリジナルも今の彼も同じ。感情を切り捨てて最善の手段を取るなんて真似、絶対に出来ないのだ。
何より。
彼はいつも言ってくれていた。
『忘れないでね、セワシ君』
その言葉に、何度支えられただろう。
『僕はいつだって、君の幸せを一番に願ってるよ』
自分はその彼の言葉を信じていた。
信じていたのに。
「……結局。お前は俺ではなく……のび太をとる訳か」
滑稽すぎて笑える。暫くセワシは一人、肩を震わせていた。
今更語るまでもない。自分の幸せは、己の安らかなる消滅。そして自分以外の皆の幸せだ。
それが分からないドラえもんではないのに、何故今になって自分を裏切る?この願いを、捨てさせようとする?
理由は一つ。
ドラえもんもオリジナルの感情と記憶には勝てなかったのだ。最初から裏切るつもりで近付いた筈ののび太に、情が移ってしまったわけだ。
なんて愚かな。わかっていた筈の罠に嵌まるとは。
ミイラ取りがミイラになったというより、起き上がったミイラに頭にバリバリ食われてしまったようなものだ。
「だが。一番愚かなのは、この俺か」
その可能性を予想していなかった訳じゃないのに、防ごうとしなかった。
ドラえもんに任せず、セワシ自身の手でのび太殺害を強硬していればこんな事にはならなかったのだろうか。
「結局俺は……独りきりだ」
ドラえもんと出木杉がいたから、ほんの少し忘れていた。忘れていた傷を、思い出した。
孤独。
老いた静香を看取り。世界にたった一人取り残されたあの瞬間の絶望を――セワシは今、思い出していた。
もうあんな想いはしたくなかったのに。結局世界は自分を孤独へ追いやろうとする。
不幸を背負って生まれたこと、それそのものが罪だと言うように。さっさと諦めろと、運命に囁かれ続けている。
死んでしまいそうだ。
どうして人は、絶望だけでは死ねないのだろう。
『……ワシ君』
「!」
耳に取り付けた通信機から聞こえた声に、セワシははっとして顔を上げる。この通信機で連絡してくる奴は二人しかいない。出木杉か、あるいは。
『連絡、遅くなってごめんね』
ドラえもんしか、いない。
『今少しだけ話、いいかな』
ほんの一瞬、何かを期待した自分を知った。失望した事で、それに気づいた。
目的を達成したよと、ドラえもんがそう言ってくれるんじゃないかなんて――思った自分自身に、失望した。
その声だけでセワシには充分だったから。ドラえもんがどんな決意をしたかなんて。
「お前は……いや」
それでも訊いてしまうのは、自分が弱いから。
「お前も俺を裏切るのか、ドラえもん」
向こうが息を呑む気配があった。何をそんなに驚くのだろう。自分が気付いたことか?そんなに浅い付き合いだと思われていたなら心外だ。
だって自分は――今も昔も。ドラえもんが思う以上に、彼に依存しているのだから。
『……裏切るわけない』
やがてドラえもんが口を開く。
『僕に君を裏切れると、本気でそう思ってるの?』
「残念ながら、お前がそちら側につくなら、そう解釈せざるをえない」
きっと傷つける。
それが分かった上で、セワシは言った。
「お前がのび太の首を持って現れたら、信じてやるけどな」
出来るわけもない事を。敢えて冷静に、冷徹に、容赦なく口にした。
ドラえもんは優しい。優しすぎるくらい優しい。
たとえのび太を殺せても、その首を切り落とすなんて100%無理だ。
その“出来るわけもない”事を要求したのはつまり。これ以上ないほど明確な、決別の意志表示に他ならない。
『昔の君は、そんな酷いこと、言える子じゃなかった』
苦悩にまみれた声でドラえもんが言う。
『君の危惧した通り、僕にのび太君は殺せなかったよ。でもね……それはのび太君に情があるからだけじゃないよ。どんなに君が変わってしまっても、君が大切だからだ。のび太君が消えれば結局君も消えてしまう。僕にはそんなの…耐えられない』
大切。彼は心の底からそう想っているつもりかもしれない。しかし今のセワシに、そのまま彼の言葉を受け取る事など出来る筈もなかった。
信じられないからというより。彼の想いが本物であるからこそ赦せないのかもしれない。自分を想ってくれているなら何故、自分の願いを邪魔しようとする?
「俺が大切なら、願いを聴いてくれるべきじゃないか?なあこの論争は何十回やったと思う?お前は頷いてくれた筈だ。俺の願いを聴いてくれると約束した筈だ。それは全部、嘘だったと言うんだな?」
『セワシ君……!』
「俺を愛してくれるなら解放してくれ。終わりにしてくれ。もううんざりなんだよ!」
どんどん口調が荒くなる。一息に吐き出したところで、ほんの少し頭が冷えた。
落ち着け、とセワシは自分に言い聞かせる。喚いたって何もならない。
感情を爆発させた後にあるのは、何も変わらない空しさだけ。その結果なんど自殺を図ったか分からないのだ。
「野比のび太は……俺は。この世界に生まれてくるべきじゃなかったんだ」
アンブレラに捕らえられ、不幸輪廻因子の話をされた時。すぐに彼らの話を信じたわけじゃなかった。
というより、無理矢理否定しようとした。そもそも敵なのだ。自分達に都合の良い真実を刷り込むなど容易に有り得る。
けれど。家族や仲間の死、目の当たりにした悪夢、度重なる実験は――まるで鉋でガリガリやるように、理性と心を削りとっていく。
偶然とは思い難い数々の事象。悲劇。聴かされ続けたセワシの精神は、奴らに屈してしまった。奴らの話には確かに筋が通っていたのだ。信じるなという方が無理な話だろう。
自分のせいで、皆が不幸になった。
一番の親友も。共に戦った仲間も。世界で誰より自分を愛してくれていた両親も。大好きだった女の子も。そして、世界そのものも。
全てが自分が生き残ったばかりに、不幸になったのだ。
「お前がどうしてものび太を殺せないなら」
セワシは声を絞り出す。
「お前が俺を、殺してくれよ」
そして教えてくれないか。
どうすれば世界が救われるのかを。
「もう、限界なんだ」
今まで何度、終わりにしようとした事だろう。世界中を逃げ回り、犯罪に手を染め、月日の中に置いて行かれそうになりながら這いずるように生きて。生きるしかなくて。
世界が死んでいくのを、ただ見ているしか出来なかった。
不幸の元凶だと言うなら何故世界は自分を最初に殺してくれなかったのだろう。そうすればこんな絶望を知らずに済んだ筈なのに。
心に罅が入って、どんどん自分が壊れていくのが分かる。
骨が見えるほど手首を抉っても、血が噴水のように噴き出しても、みるみる傷が塞がっていく。
高層ビルの残骸から飛び降りてミンチになっても、ガソリンを被って炭屑になっても同じだった。ただ痛くて苦しいだけで、死の安楽が訪れる事は無かった。
静香が大人になり、老いていくのに自分は子供の姿のまま。終ぞ愛する人を抱き上げる事さえ叶わなかった。ドラえもんには分かるまい。否、他の誰にも分からないだろう。
自分が今、どんな景色を見ているかなんて。
『……僕も、そう思ってた。君を解放してあげることが最善だって。それが君の幸せなんだって』
ドラえもんの声が震えている。
『だけど。……やっぱり僕は、君に不幸なまま死んで欲しくない。エゴだと言うならそれでもいい。僕は君に幸せになって欲しい』
「戯言を言うな。俺の幸せはただ終わることだけ。皆が幸せになってくれる事だけだ」
『みんなの幸せを願うなら、そこに君を入れてあげたっていいじゃないか!』
張り裂けるように、ドラえもんが叫ぶ。
『……君には君の正義がある。ただ言葉だけで議論しても無意味なら……対決するしかないよね』
対決。
やはり、避けようがない運命はあるらしい。
『セワシ君。…僕は、僕達は君を、救う。必ず、救う。僕達の決意を見て欲しい。判断を下すのは、それからだっていいじゃないか』
彼の言葉に、セワシは思わず声を上げて笑っていた。こういう所が馬鹿正直なのだ、
ドラえもんは。
セワシを放っておくという事も、力ずくでねじ伏せるという事もろくに考えやしない。愛すべきお人好しで、清々しいほど莫迦だ。
「いいだろう。決着をつけよう。今更手を汚す事に躊躇いなどない。のび太は俺が殺す。お前達の目の前でな」
ジャキン、と愛刀が鋭い音を立てた。
心を通わせた相棒もまた、早く戦わせろと急かしているように感じる。いい加減ウイルスに侵され腐った肉では物足りないのだろう。
「そうとも」
場所を指定し。通信を切って、セワシは呟いた。
「幸せになんてなれる筈がない」
普通の人間として生きたかった。
今更そんな事、どうしようもないけれど。
第百十九話
再確認
〜終わりの始まり〜
心の中なら 恐れることなど何もない。