――西暦1995年8月、研究所・地下2F廊下。

 

 

 

 さっきティンダロスと戦った食堂まで戻れ。セワシはそう言って一方的にドラえもんとの通信を切ったらしい。

少し前の自分ならその態度にあっさり腹を立ててたんだろうな、と武は思う。だが今は不思議なほど苛立たなかった。

 知ってしまったからだろう。セワシの正体も、彼の思いも。

 

「武君、大丈夫ですか?なんなら代わりますよ?」

 

 ずっとのび太を背負って歩いている武を見かねてか、聖奈が声をかけてくる。人に気を使える優しい女の子だ。聖奈みたいな彼女がいたら毎日幸せだろうなあ、とは心の中だけで。

 

「聖奈さんじゃ無理だろ。いいって気にすんなよ」

「のび太さんならちっちゃいから私でも背負えますってば!もう、馬鹿にしないで下さいよう」

「はいはい」

 

 頬を膨らませるその様は、とても四つ年上とは思えない。実に可愛らしい。もうさっきから事あるごとに聖奈の株は上がりっぱなしである。

 

「俺なら平気だ。昔から力にだけは自信があんだよ」

 

 武は苦笑いして言う。

 いじめっ子なのは昔からだ。

言う事をきかない奴は力で黙らせればいい。自分がいつでもナンバーワンだ。その考えを隠しもせず、毎日当たり前のように拳を振るってきた。

女の子を殴った事こそないが、男ならどんなにちっちゃな子でも関係ない。

泣けば鼻で笑ったし、やめてと言われれば悦に浸った。我ながら最低だ。アルルネシアと大して変わらないではないか。

 今なら分かる。力にも意味はあるが、力だけで人の心は奪えない。

のび太や健治や、皆が教えてくれた。人の心を動かすのはいつだって、真摯に誰かを、何かを想う誰かの気持ちなのだと。

 そして何より。

 理由と誇りの無い破壊こそただの――暴力。そう呼ばれるものだと、知った。

自分がただ暴力を振りかざすだけの莫迦に成り下がるかどうか。多分今、それを試されている時なのだと思う。

 自分もなりたい。健治や安雄、金田や綱海やヒロト――そしてのび太のように。

大切な誰かを命を賭けて守れる男に、なる。いつか来る最期の時、胸を張って父や母の下へ逝けるように。

 

「それにな。のび太のプライドも考えてやってくれよ。目覚めた時女の子にオンブされてたらショックでけぇぞ」

「そういうものですか」

「そういうもんなんデス」

「はぁ……メンドくさいですねぇ、男の子って」

 

 本当に面倒くさそうに聖奈が言うものだから、みんなつい笑ってしまった。残念ながら否定できない、と太郎以外の男性陣は揃って思った事だろう。

 まあ武に言わせてみれば。女も別の意味で、同じくらいメンドくさいと思うのだが。

 

「……」

 

 セワシと通信してから、ドラえもんは黙り込んだままだ。スピーカーにしていたから会話は全て聞こえていた。セワシがドラえもんに何を言ったのかも、全部。

 

『お前も俺を裏切るのか、ドラえもん』

 

 裏切られたと、セワシはそう思うのか。武には分かるようで分からなかった。

のび太を殺し、その未来を確定させれば、セワシも消える。

つまりのび太を救えばセワシも消えずに済む。

ドラえもんがセワシを大切に思うがゆえの選択だと、彼に分からない筈がないのに。

 

「……僕、いまだに信じられないんだよね」

 

 ポツリとスネ夫が呟く。

 

「ドラえもんの話を疑ってるわけじゃないし、セワシを否定したいわけでもないんだけど。“この”のび太がさ、何をどうしたらあんな性格になるわけ?」

 

 それはのび太をよく知る者ほど感じる事だっただろう。確かに顔も声も同じだ。体格も変わらない。

しかし、自分達が一番最初に“のび太=セワシ”の同一人物説を考えなかった最大の理由は――姿と声以外の何もかもが、似ても似つかなかった為だ。

 あんな“のび太”なんて、知らない。

 想像さえ出来なかった。

 なのに彼はそこにいる。一人称も喋り方も、目の奥のギラギラした光もまったくのび太と違うのに。未来の可能性の一つとして、そこに存在しているのだ。

 まさかこんな事が、あるなんて。

 

「……人間の性格を形成する最大の要因は、環境だ。勿論元々持っていた素養や、他にも要因はあるけど。人の心は、誰かと触れ合って初めて生まれるものだからね」

 

 出木杉が静かな声で語る。

 

 

 

「ある時までのセワシ君は、のび太君と同じ人生を歩んでいた。この“悪夢の日”まではセワシ君だって確かに“のび太君”だったんだよ。

そんな彼をねじ曲げたのは……アンブレラに捕らえられ、世界を逃げ回り、世界と仲間の滅びを見つめた……そんな体験だ」

 

 

 

『俺が大切なら、願いを聴いてくれるべきじゃないか?』

 

 

 

「そのままの彼では、いられなかった」

 

 

 

『なあこの論争は何十回やったと思う?お前は頷いてくれた筈だ。俺の願いを聴いてくれると約束した筈だ。それは全部、嘘だったと言うんだな?』

 

 

 

「生きるしかない世界で、死さえ叶わない世界で。変わるしかなかったんだ」

 

 

 

『俺を愛してくれるなら解放してくれ。終わりにしてくれ。もううんざりなんだよ!』

 

 

 

「それだけの絶望を……セワシ君は、見たんだよ」

 

 

 

 

 

『野比のび太は……俺は。この世界に生まれてくるべきじゃなかったんだ』

 

 

 

 

 

 生まれてこなければ良かった、なんて。

 本気でそう思うしかなくなってしまったなら。それはどれだけの不幸だろうか。想像を絶する絶望。武には考えることさえ苦痛だった。

 だってそうだろう。

 このまま行けばのび太に待つのも、同じ未来なのだから。

 

「君達はさ、ある?」

 

 ドラえもんが重い口を開いた。

 

「何で自分が生まれてきたんだろうって。本気で考えたこと、ある?」

 

 とっさに、武は言葉に詰まった。

 何で生まれてきたのか。何で今生きてるのか。この町が悪夢に呑まれてからは、ほんの少し考えたけど。

それまでの日々の中では一度たりとも無かった事に、気付かされたのである。

 いや。考えた事がない、というより。

 考える必要が、無かったのだ。考えなくてもいいくらい、自分は今まで満ち足りていたから。幸せを幸せだと自覚できないほどに。

 

「僕はあるよ。……多分出木杉君も」

 

 ドラえもんの言葉に、出木杉は苦笑いで返す。それは肯定したも同じこと。

 

「既に話した通り、僕達はセワシ君の孤独を埋める為に作られた。それが最初の目的だった筈だ。

…同時に、いなくなった彼の“本当の友達”の代わりでもある。不満がなかったわけじゃないけどね。僕はそれでも構わないと思ってたんだよ。

誰かの身代わりだろうと僕達が傍にいてセワシ君が癒やされるならそれでもいいって。だけど」

「だけど?」

「……偽物は所詮、偽物なんだ」

 

 苦悩にまみれた声で、ドラえもんは言う。

 

「セワシ君にだけは分かる……僕達と“オリジナル”の違い。小さな事でもそれが見つかる度、セワシは傷ついた。

僕はセワシ君を傷つけた。僕達がどんなに近くで支えても……セワシ君が毎秒擦り切れていくのが分かるんだ。僕達が目を離した隙に自殺を図った事もある。

見ていられたもんじゃなかったよ……だって」

 

 血を吐くようなドラえもんの叫びが。

 この場にいる全員の心を、引き裂いた。

 

 

 

「セワシ君を傷つけるだけなら……僕は何の為に生まれたんだよ……っ」

 

 

 

 こんな時。武は心の底から、自分の不器用さと無力さを呪うのだ。

 のび太ならきっと、ドラえもんをほんの僅かでも救済する言葉が言える。

だって彼は魔術師。のび太の言葉には白き魔法が宿ってる。いつの間にか皆を救ってる。ささやかで、しかし他の何より貴い力を、彼は持っている。

 だけど自分には――そんな力なんて、無い。力任せに殴り飛ばしても解決にはならない。

そもそも殴れるような対象もいない。もしかしたらこの酷い後悔が自分の罰なのかもしれなかった。

誰にとっては理不尽でしかない暴力を振りかざし、誰かを虐げ続けてきた――その罪への。

 

――引っかかってた事があった。セワシは何故、出木杉とドラえもんだけを作ったのかって。

 

 最後に生き残ったのは、セワシと出木杉と静香だった筈だ。なのに何故セワシは静香のアンドロイドを製作しなかったのだろう。

 

――ひょっとして……これ以上絶望したくなかったから?

 

 セワシは偽物のドラえもんと出木杉を作り。しかしオリジナルとの違いに気付き、傷ついた。だから、もうこれ以上絶望しない為に――愛する人達のレプリカを作る事を断念したのだろうか。

 多分それだけが理由ではないだろう。今ののび太を見ても、彼がどれだけ静香を大切に想っているかは見てとれる。

そんな愛しい相手を、再び残酷な世界に連れ戻すような真似は出来なかった。そういう解釈も可能だ。

 だがきっと。ドラえもんは後者のようには考えられなかったのだ。

 

「意味はきっと、あるよ」

 

 言葉を紡いだのは意外にも太郎だった。

 

「健治兄ちゃんが死んじゃった時、僕も思ったよ。何で僕じゃなくて健治兄ちゃんが死んじゃったんだろうって。僕は何で生きてるんだろうって。……でも。そんな僕にのび兄ちゃんは言ってくれたんだ」

 

『……誰だって、生きるのは辛いけど。でもどんな人だって与えられた意味があるから生きてるんだって……僕はそう、思う事にした』

 

「意味はあるよ!絶対ある!!セワシ兄ちゃんにもドラえもんにも出木杉兄ちゃんにもみんなみんな!だから……生きてちゃいけないなんて、言わないで!!

 

『健治さんの本当の気持ちがなんだったのか。真実を決めるのは、君だよ太郎』

 

「セワシ兄ちゃんの本当の気持ち、そんな風に決めつけちゃっていいの?セワシ兄ちゃんはまだ生きてるよ。まだお話できるじゃない!!

 

 わぁっ、とついに太郎が声を上げて泣き出した。今までこんな風に泣き喚くことなどなかった彼が。まるで、涙を流せない者達の代わりに泣くのだと言わんばかりに。

 静香が黙って太郎の頭を撫でる。ドラえもんと出木杉は俯く。武は滲みそうになる視界をごまかすように、天井を仰いだ。

意味はある。どんなモノにも、必ず。ならばきっと、自分だってそうなのだ。

 

――そんな事を言ったのか、のび太。お前そうやって、太郎も救ったんだな。

 

 そうだ。健治の時とは違う。まだドラえもんと出木杉は間に合う。セワシの心を訊く機会がある。何故なら彼らはまだ息をやめちゃいないのだから。

 

「うぅ……」

!!

 

 太郎の泣き声が大きかったせいだろうか。背中で呻く声がした。のび太が身じろぐ。武は思わず歓喜の声を上げた。

 

「のび太!お前、無事で……!!

 

 いや重傷だったのだから無事も何も。心の中でツッコミは入ったが、言葉を訂正する余裕は無かった。のび太が死なずに済んだ。それがあまりに嬉しすぎて。

 地獄のような世界。存在理由さえ危ぶまれる世界。しかし自分達はけして、忘れてはならないのだろう。

 パンドラの箱には必ず希望は遺されていて。自分達さえ望めばすぐ手の届く場所に用意されているという事を。

 

百二十

 落日

ちる感情〜

 

 

 

 

色褪せてく 世界の歌。