地面に伏せたまま、セワシは繰り返し呪詛の言葉を吐く。
「畜生……畜生がっ!」
Blineの効果は直に消えるだろうが。手足の凍傷がかなりの痛手だった。
こちらも時間をかければなんとかならない事もない。しかしその前に先手を打たれるのは目に見えている。
傍に歩み寄ってきた聖奈が、すみません、と一言口にしてセワシの両手と両足を縛った。
腕力だけでは縄抜け出来ないのはバレているだろう。縄が傷に食い込み、地味に痛い。
「痛ぇ」
「すみませんねセワシさん。でもおイタがすぎる貴方もいけないんですよ?」
聖奈がにっこりと笑う。綺麗な笑みなのに空恐ろしいと感じるのは何故だろう。
「本当はのび太君の前に私が貴方をブッ倒したかったんですよ?言いましたよね、前に会った時に」
『どうしても貴方があの子を殺すというなら……静香さんより先に私が相手をしてあげますから』
「でも、貴方との決着がのび太君の意志だったから、それに従った。
……のび太君にとって貴方という存在そのものが、超えるべき試練だったからです。貴方は、どうですか?」
どうですか、も何も。
セワシにとってのび太は、憎悪の対象であり罪の具現化でしかない。
乗り越える試練?そんな綺麗なもんな筈ないだろう。何故ならのび太は自分。自分はのび太なのだから。
「……こいつは……俺は。共に消えるべき存在。『野比のび太』こそ罪の証」
ギリギリと唇を噛みしめ、言葉を噛み砕くように叫ぶ。
「視界に入れるのも煩わしい!だってこいつが……こいつがいるから!」
「のび太君がいるから貴方は罪を忘れられない。そうでしょう?」
「……ッ!!」
静かに吐き出される聖奈の言葉に、はっとするセワシ。
「最初、私は貴方とのび太君が同一人物だなんて思いもしませんでした。だから見えなかった。貴方の絶望も…憎悪の意味も。
貴方は本当はのび太君を憎んでたんじゃない。のび太君を通してずっと……自分自身を責めてた。そうでしょう?」
そうだ。
あの1995年の8月に、生まれ育った町を飲み込んだ悪夢。
不幸を呼び込む遺伝子−−自分がその持ち主だと知らされ、自分の存在がこの町の住人達に惨劇を齎したと気付かされた時。
次々と仲間達が死んでいくのに、自分一人生き残り続けるさだめを思い知らされた時。
そして、愛する女性が老いて死ぬまで、何も変える事が出来なかった時。
自分がどれほどの絶望を味わったか−−一体誰に分かるというのだろう。
「……赦せなかったんだ」
どうして認められるだろう。
何も知らずに幸せを享受する『野比のび太』など。
「俺もお前も産まれてくるべきじゃなかったのに……当たり前に愛されるのび太が!どうして許せると言うのか!!」
無理矢理立ち上がろうとして体に力が入らず、膝をついた。
のび太が顔を歪める。一丁前に傷ついたフリなどするな。痛い?そんなもの痛みのうちにも入らない。
史実の世界で。かつて繰り返された数多の世界で。理不尽に惨殺されていった仲間達はもっともっと痛かったはずなのだから。
「俺の世界では……この研究所に辿りつく事さえ出来なかった。出木杉と静香以外の全員が死んだ……理不尽に殺された!なのになあ、何故なんだ!?」
『……私を守る為に、のび太君やみんなに何かがあったら、きっと私は後悔する。死ぬほど後悔……する』
聖奈の言葉を思い出す。彼女はあの、高い確率で死ぬはずだった運命を自力で回避した。
自分の力で切り開こうとした。セワシの過去では助けて助けてとインカムに向かって泣き叫ぶばかりだった彼女がだ。
そして奇跡を起こしてきたのは聖奈一人ではない。
『来るなら来いっ……ゾンビ野郎ッ!!』
『僕の質問に答えろよ!人の友達を悪く言うなんて最低だぞ!!』
『でもまだ俺は俺だ。俺なんだ。此処にいて、息して立ってんだよ!』
『足掻いてやる。最期まで……あいつを泣き止ませる為だ。仕方ねぇ』
『もう嫌なことが起きないように……僕が自分で、たくさん、守れるようにするから』
『人間をナメるなぁぁ魔女ッ!!』
『見せてやる……これが私達の、魔法!魔女なんかに屈してなるものかっ!!』
『今、決着をつけるしかない。……ブラックタイガーとじゃないわ。弱いあたし自身を超えなきゃ……明日なんて来る筈ないのっ!』
誰もがのび太を信頼し、前を向いて戦ってきた。ヒロトと綱海というイレギュラーはあったが、それだけが理由とも到底思えない。
この世界の者達は誰一人、運命から逃げる事をしなかった。足手まといなどでは、無かった。
命を落とした安雄達ですら――未来を見据え、最期まで勇敢に戦い抜いてみせたのだ。
自分達は全て見ていた。だから思う。思わずにはいられない。
「お前達は何故諦めない!?俺達は皆諦めたのに……っ」
何が違ったのか。自分達と、彼らとで。
「諦めて皆命を落として……なのに何故お前達は生きてるんだ!?まだ笑っていられるんだよ!?」
野比のび太がいるから皆不幸になる。それが絶対の運命のはずだろう。なのに。
『のび太君は、どうしても死ななければならない存在ですか。それが“絶対”だと、貴方は言い切れますか』
もしそうでないのなら。
『いいえ。あの子はみんなを幸せにできる子です』
それが間違っていたというのなら。
『私には、貴方はまだ迷っているように見える。……貴方の予知していたシナリオは、だいぶ変わってきているんじゃないですか?』
分からなくなってしまう。
何故自分達は。みんなは。
あんな理不尽な死に方をしなければならなかったのかが。
「理由が、欲しかったんだろ」
口を開いたのはスネ夫。
「何でこんな事が起きたのか。何で自分や仲間がこんな目に遭ってんのか。その理由を……お前は全部自分のせいって事で納得したかったんじゃないか?だって何の理由もなきゃそれこそ……理不尽なだけだもんな」
「俺、は……」
ああ、そうなのか。そういうこと、だったのか。思っていた以上にすんなりと、スネ夫の言葉は胸に落ちていった。
そうだ自分はずっと――この残酷で理不尽な運命の理由を求めていたのだ。多分それが“他人のせい”でも“自分のせい”でも同じことだった。
ただ感情の行き場が無いこと、ひょっとして一番耐え難かったのはそれかもしれない。
この事件を招いた元凶が、自分自身の生まれにあるかもしれない。そう知らされた時、確かにセワシは絶望した。しかし同時にこうも思ったのだ。
自分さえ消えれば、きっと全てが上手くゆく、と。
「君が今日まで戦ってきたのは……解放されたかったから、終わりを望んでいたから……それもある。でも、それだけじゃないよね?」
眼前に立つのび太の姿。ひょっとしたら、真っ直ぐ彼を見たのは初めてだったかもしれない。
漸く気付く。自分はのび太を睨み据えているつもりで、まったく彼自身を見ていなかった事に。その向こう側にある過去の幻に踊っていた事に。
そして。寧ろその全てから目を背け続けていた事に。
「僕を殺して……自分を消して、それで全て解決する筈。そう信じる事が、君の希望だった。そう」
その通りだ。
それだけに。自分はずっとそれだけに縋って生きてきた。百年もずっと。
なんて惨めな男なんだろう。
「君が生きる為の、希望だったんだ」
自分は。こんなになってもまだ。
生きて幸せになる事を、諦めきれていなかったんだ。
「セワシさん」
ハッとする。背中が温かい。優しい香りのする髪が鼻先を掠めていた。静香に後ろから抱きしめられている。気付いた時セワシは泣きそうになった。
今はもういない、愛する人と同じ匂いだったから。
「ありがとう。……今日まで、諦めないでいてくれて」
何でお礼なんか言うんだ、と。口にしかかった言葉は言葉にならなかった。涙が声を遮っていた。ああ、何で泣いているんだ、自分は。
何年――何十年?自分は泣いていなかっただろう?
「貴方は頑張ったわ。たくさんたくさん……頑張った。だからもう、いいの」
静香の優しい声が、嗚咽を溶かす。
「ね……“のび太さん”。もう貴方は……貴方を赦していいんだよ。貴方を世界で一番愛していた人もきっと同じ事を言う。だって……自分の大好きな人に、幸せになって欲しくない筈ないじゃない」
セワシの脳裏に蘇る。
自分の世界の静香が言った、最後の言葉が。
『全てを救って。生まれ変わったら今度こそ……』
ねぇ、もう、いいの?
『一緒に幸せになりましょうね』
本当にいいの、生きていても。
「……いいのか」
――ねぇ、僕頑張ったよ静香ちゃん。勉強なんて大嫌いだったけど、怖くて怖くてたまらなかったけど。
「赦されてもいいのか、俺は」
――君も、誉めてくれるかなぁ?
「もう意地張るのもヤメにしようぜ、セワシ。シナリオを変えたかったのに……変わるのが途中から怖くなったんだろ?よくある話だよなぁ」
やれやれ、と言わんばかりに肩を竦める武。なんでこう、この仲間達は鋭いのだろう。
そうだ、自分は怖くなった。前に向かい、生きる事を諦めなくなった彼らを見て。のび太を殺す意味が、希望が失われてしまいそうで怖くなって、意地を張ったのだ。
もっと簡単な答えが、目の前にあったのに。
「みんなで幸せになればいいじゃねぇか。その方法だってあんの、お前だって分かってんだろ」
「簡単に言ってくれるな」
「おう、だって簡単だし」
武が豪快に笑う。記憶にあるそのままの顔で、笑う。
「お前も一緒幸せになっていいんだ。アルルネシアを倒せば、希望は繋がんだよ」
もう鍵は手に入れている。この研究所を脱出した後で、もう一度その時まで時間を巻き戻し――アルルネシアを倒せば。この事件の発生そのものを防ぐ事が、出来る。
分かっていたのだ、そんな事は。それでものび太を殺したかったのは他でもない、不幸輪廻因子が本当かどうか、誰にも立証されていなかったから。
アルルネシアを倒せばそれで何もかも終わるのか、未だ自信が持てなかったから。
何より。
セワシの自己満足の為、だ。自分自身に償わせる方法を、他に知らなかったから。 だけどもう、いいのだろうか。
「それで俺は……償えるのか?」
セワシがそう言うと、聖奈がむくれたように笑った。
「そもそも貴方が何を償わなきゃいけないんです?少なくともこの中に、のび太君のせいで不幸になった人間なんていないのに」
『みんなが不幸になる。みんなが死ぬ。のび太君がいるせいで、そうなる。……貴方のその考えは、私が生き残って……幸せになれば、否定されますよね?』
「私達はまだ生きてる。証明終了ですよ」
『私が必ず、証明する。この覚悟、貴方は見届けてくれますよね?』
そうだった。まったく、この少女達ときたら。
「……恩に着る」
セワシは微笑む。夢みたいだ。自然に泣いて、笑える日が、またやって来るだなんて。
第百二十七話
兆
〜闘いの果てに見えたもの〜
最後は、ひとり。