−−西暦1995年8月、学校校舎・3F理科準備室。

 

 

「大丈夫。…もう少しですから、頑張って下さいね」

 

 聖奈は声をかけつつ、少年の手を握った。

 

「…ありがとう。アンタが来てくれて、助かったよ」

 

 少年は嬉しそうに笑った。彼は安雄、という名前らしい。この学校に通う小学五年生だそうだ。

彼も旅行から帰ってきたら、事件に巻き込まれたクチだという。

友達と一緒にこの学校に逃げ込んだはいいが、化け物に追われて離れ離れになってしまったそうだ。

 安雄の傷は酷いものだった。右肩から右胸にかけてざっくり切り裂かれている。化け物の爪で受けた傷らしい。

幸い内臓に至る傷では無かったが、少々範囲が広すぎる。

実際なら縫わなければならない傷だろうが、残念ながらこの場にはそれができる技術者もいなければ道具もない。

聖奈にできた事といえば、持っていた救急ポーチでの簡単な応急処置くらいだった。

 何より。傷以上に問題だったのは、彼が対峙した化け物が毒を持っていたということ。

安雄の顔色は真っ青だ。寒気と震えが止まらないのか、握った手が震え続けている。

 聖奈がこの理科準備室に逃げ込んだのは偶然だったが、結果としてそれは幸いだった。

丁度安雄が、這々の体で隣の理科室から這い出してきたところだったのだから。

 

「ホント…訳和かんねぇ…何でこんな事になっちまったんだ…?」

 

 荒い息の下、安雄が言う。

「みんな化け物になっちまった…学校に逃げ込んで最初に出会ったの誰だったと思う?

去年の俺のクラスの担任でさあ…美人で優しい先生だったのに、見る影もなくなっちまってさあ…」

「安雄君…」

「傭兵っぽい人の死体から武器盗んで、なんとか逃げてきたけど…あんな化け物どうしろって言うんだよ。…ちくしょ…ちっくしょう…!」

 本気で怖かったのだろう。痛くて怖くて、悲しかったのだろう。

聖奈はいたたまれなくなる。自分には仲間がいたが、彼は一人ぼっちで襲われたのだ。

まだ小学生の子供が、だ。しかも大好きだった先生の変わり果てた姿を見てしまうなんて。

 その心中は、察するに余りある。

 

「…俺も、化け物になっちまうのかな……」

 

 がくがく震える手を見つめる安雄。その眼には涙が浮かんでいる。

「…化け物に襲われた奴は化け物になるんだ、きっと。…俺実際に見たもん。嫌だよ…死ぬのもヤだけど、化け物になるなんてもっと嫌だ…」

「諦めないで下さい、安雄さん。まだそうと決まったわけじゃないんです」

 とっさに聖奈はそう言った。根拠があったわけではなく、とにかくこの死に瀕した少年を慰めたくて言った言葉だった。

 のび太が見つけてきた警官の手記の件もある。

これがウイルスか細菌兵器か、とにかくそのあたりが原因で起きた騒ぎなら、安雄もまたアンデット化してしまう可能性は十二分にあった。

 だけど、まだそうなると確定したわけではない。

諦めたら本当に可能性が絶たれてしまう気がして怖かったのだ。

もしかしたら聖奈は誰より自分自身に言い聞かせていただけかもしれない。

 

「聖奈さんって言ったよな。…なあ。もしあんただったら、どうする?自分がもし化け物になるって確定しちまったら」

 

 安雄は顔だけ動かして、聖奈を見た。

 

「もしくは…あんたの大切な人がさ。化け物なるのが分かっちまったら。どうするよ。何が、できるよ」

 

 とっさに、聖奈は言葉を返せなかった。安雄の眼は真剣だった。

真剣に、自分に対し答えを求めている。自分も責任を持った言葉で答えなければならないと思った。

−−無責任な事は、言えない。今自分が持ちうる最も相応しい言葉で、ありきたりでもいいから真正面に返したい。そう、思った。

 

「私は……考えたいです」

 

 死にたくない。死ぬのも、痛いのも怖い。だけど、死ぬことより怖い事がこの世にある事を知った。

 それは、愛する人を失うこと。

 そして、自分という誇りを奪われることだった。

 

「どうすれば、化け物にならずに済むのか。最後の最後まで考え続けたい。…そうすればきっと、後悔しないで済むから」

 

 少し前の自分なら、何も出来なかっただろう。あるいは気が狂って早々に自ら命を絶っていたかもしれない。

 今だってそう、大きく何かが変わったわけではないのだ。

それでも、自分の力で運命に立ち向かうのび太達の姿を見て、何かが呼び起こされたのは確かである。

後悔だけは、したくない。自分を助けてくれたリュウジに胸を張って再会できるように。

 

「それでも無理なら、私は私の納得のいく最期を選びたいかな。…私自身でも、愛する人でもそれは同じです」

 

 本当のところ出来るかどうかは分からないけど、自分はそれが“出来る”と言おう。

言葉は魔法だ。健治やヒロトの言葉は確かに自分達の何かを変えた。

時としてそれはどんな銃より強い武器になり、人を傷つけ人を守る。

 だから聖奈は、自信はなくても言葉にする。自らに誓いを立て、自らに魔法をかける為に。

あらゆる残酷な想像をして備えなければ生き残れないのだ。

同時に、いざという時みっともなく生にすがりついてしまいそうな自分を打ち砕く手段でもある。

 

「誇りを捨てたら、それは死んだも同じことだから」

 

 戦わなければならない。

 何より、自分自身と。

 

「…納得のできる最期……か」

 

 安雄は復唱し、ふう、と一つ息を吐いた。

 

「そうだな。どうせ死ぬなら…誰かを護って、誰かに託して…死にたい、よな」

 

 ありがとな、と安雄。掠れた声ではあったが、穏やかだった。

本当は彼もまだあらゆる恐怖と戦っているのだろうが−−それでも、少しは答えに近づけたのかもしれない。そうであって欲しいと願う。

 既に通信機で助けは呼んだ。仲間達の多くが保健室に戻ってきていたのは幸いだった。

安雄が受けた毒物に効く薬があるかは分からないが、持ちうる限りの薬は持ってきてくれるという。今はそれに賭けるしかない。

 ヒロトと静香がどれだけ戦えるかは分からないが、彼らならきっと無事にここまで来てくれるだろう。

問題はそれまで安雄が持ちこたえられるかなのだが。

 

「安雄君は、隣の理科室で襲われたんですよね?」

 

 理科室と理科準備室を隔てる壁をドアを見る。ドアは沈黙していた。向こうから体当たりしてくる気配もない。

安雄の血で汚れてはいたものの、まるで何事も無かったかのように沈黙している。

 聖奈は立ち上がり、そのドアの前に立った。

 

「…あら?」

 

 違和感。ノブを握り、回す。安雄がぎょっとしたように声を上げた。

「ちょ…あんた何して…!」

「開きません…」

「え?」

「開かないんです、ドアが」

 このドアはこちらから鍵をかける事ができない。だから安雄が入ってきたあと、聖奈は鍵をかけてはいない。安雄もだ。

 なのに何故かドアが開かなくなっている。隙間を覗く。どう見ても向こう側から鍵がかかっている。

 

−−向こうから誰かが鍵をかけた…?でも。

 

 化け物やゾンビに、鍵をかけるだけの器用さと知恵があるだろうか?答えは否、だ。

少なくとも聖奈が今まで出逢ったアンデット達には到底無理だろう。

 しかしそうなると、鍵をかけたのは人間でしか有り得ないという事になる。

化け物がいる筈の部屋の内側から、鍵をかける人間がいた?そんな馬鹿な。自分が化け物に食われてしまうだけじゃないか。一体何の為に?

 理科室の入口は安雄に会う前に確認している。あれはまず絶対開かないだろう。内側から板と釘で打ちつけられていたのだから。

つまり鍵を掛けた後、正面の入口から外に出たとも考えられない。

 

−−いや…待った。それ以前に…唯一の入口であるこの理科準備室には、ずっと私達がいたじゃないか。

 

 そもそもその“誰か”は、どうやって理科室に“入った”のだ?安雄が襲われる前から理科室にいたとしか考えられないではないか。

 

−−ひょっとしたら…私達の敵は、化け物やゾンビだけじゃない…?

 

 ノックがした。ドアの向こうから声が聞こえる。

 

「遅くなってごめんなさい!聖奈さん、いる?」

 

 静香の声だった。聖奈は疑問を振り払い、慌てて入口に走っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 放送室、と書かれたプレート。それをまじまじと見た後、スネ夫はドアの前に立った。

 よく考えてみれば、この学校には放送委員というものがいない。

従兄弟や学校外の友人から話を聞くに、普通は生徒の中から放送担当者を選ぶのが通例だという。

無論例外はあるが、この学校のようにただ給食中有線を流すだけというのは珍しいようだ。

 その疑問も、放送室に生徒を立ち入らせない為だったなら納得がいく。

この中にある機材はどう見たって普通の放送機材ではない。音声を流すだけならあんなにたくさんのモニターなんて要らない筈だ。

普段は暗幕がかかっていて中が見えなかったから気付けなかった。

 

−−これも…アンブレラが校内を監視するため?

 

 のび太には聖奈達の方へ先に合流するように言って、一人でここに来たはいいが(のび太にはかなり反対されたが無理矢理押し切った。

これ以上彼に頼るのはプライドが許さなかったのだ)。前通った時は鍵がかかっていた。鍵を見つけなければ、中に入るのは難しいだろう。

 しかし物は試しである。間に隙間を差し込んで、とか、見よう見まねのピッキングとか−−とりあえずやってみても損はないだろう。

化け物達が彷徨いている以上、体当たりは控えたいが(そもそも自分の体格と力で体当たりしてもあまり効果はないだろう)

 スネ夫はドアノブに手をかけ−−あっ、と声を上げた。

 

「え…開いてる!?

 

 ガチャリ、と。いとも容易くノブが回った。混乱するスネ夫。

さっきは確かに鍵が閉まっていたのに。誰かが開けたのか?一体、誰が?

 ゾンビどもにそんな知恵や器用さはないだろう。

というか、あんな膿だらけの手でドアに触ったらノブがえらいことになってる筈だ。しかし無論、そんな様子はなく。

 

「……」

 

 ごくり、と唾を飲み込み。恐る恐るドアを開ける。電気はついていない。

ただ多数あるモニターだけが煌々と光を放っている。椅子がぽつんと一つ。あとは殆どコードが張り巡らされているばかりだ。一歩ずつ中に踏み込み、内部を探索する。

 ころん、と何かが転がった。なんだろう、と見るとそれはペットボトルだ。

まだ中身が少し残っている。見慣れた緑茶のパッケージ。手に持つと、まだひんやりと冷たい。

 

−−間違いない…。

 

 確信する。同時に背筋が寒くなる。ついさっきまで確かにこの部屋に誰かがいたのだ。だから鍵がかかっていた。

バイオハザードが起きた校内を、この部屋から何者かがモニターで観察していたのである。

 まさか。まさかこの惨劇は。ここにいた人間というのは−−。

 

「動くな」

 

 スネ夫は細く悲鳴を上げた。ごり、と後頭部に何かが押し当てられたのだ。確認するまでもない−−銃口だ。

 

「動いたら、撃つ」

 

 くぐもった声がした。誰かがスネ夫の後ろに、立っていた。

 

 

 

十六

いにまみれた、密室で〜

 

 

 

 

 

諦めない事に、きっと意味がある。