−−西暦1995年8月、野比家自宅・2F。

 

 

 どこでもドアは本当に便利だ。時空をすっ飛ばし、簡単に世界の裏側まで行く事が出来る。

これがあれば寝坊した日も遅刻知らずだ(と、ドラえもんに言ったら、そんな理由じゃ絶対貸さないからねと睨まれたが)。

民間人秘密道具人気ランキングがあったら間違いなく上位に入る事だろう。

 

「あー、楽しかったあ!」

 

 のび太はドアから飛び出すなり、うーんと伸びをした。たった三日の不在とはいえ、なんだか懐かしいと感じる我が家。

嗅ぎなれた畳の匂いに安堵する。旅行は楽しかったが、それでもやっぱり我が家が一番だ。

「まぁ、グアムには劣るけど。無人島ってシュチュエーションもオツなもんだね」

「ドラえもんさん、スネ夫さんがあんな事言ってますわよ?」

「そうですねのびさん。次からスネ夫さんは誘うのやめましょうかね?」

「わーわーっ!嘘です冗談ですってば!」

 スネ夫がまたイヤミたらしく言うので、ドラえもんとオネエ声で会話してやった。

まったく素直じゃない奴だ。連れて行って貰ってあんなにはしゃいでいた癖に、普通にお礼の一つも言えないのか。

「ドラちゃん本当にありがとう。楽しかったわ」

「これくらいお安い御用だよ。いい思い出は作れたかい?」

「ええ」

 静香の礼に、ドラえもんはにっこり。その返答に、些か引っかかるものを感じてのび太は首を捻る。

 いい思い出?なんだか、卒業式の前にでも言いそうな台詞だ。

まだ自分達は五年生だし、夏休みも半分残ってる。

ドラえもんさえその気になれば、何度だってまた旅行に行けると言うのに−−。

 

「畜生、南の島で俺様の美声を披露出来なかったのだけが心残りだぜ。なんなら今から空き地でリサイタルもいいな!」

 

 疑念は、武の爆弾発言により消し飛んだ。全員が瞬時にアイコンタクトを交わす。

最強音波魔神ジャイアン様のリサイタル(という名の公害)なんて冗談じゃない。なんとかやりくるめなければ。

「い、今からは駄目だよジャイアン!旅行から帰ったばっかりで出かけたりしたらママに叱られちゃうよ!」

「そ、そうよ武さん!宿題もやらなきゃいけないわ!」

「み、右に同じ!」

「以下同文!!

 おお、素晴らしきかな連携プレー。のび太の発言に静香が乗っかり、スネ夫とドラえもんが同意する。

なんと息があった仲間達だろう。拍手喝采ものだ。

 ジャイアン様のリサイタルは断固阻止せねばなるまいが、そこで怒らせるとタコ殴りにされるという理不尽極まりない結末が待っている。

ここで重要なのは穏便にジャイアン様に撤退して頂く事だ、そうだね諸君?イエッサーですとものび太隊長。

 

「ま、それもそうだな。母ちゃん怒らせたら怖ぇし」

 

 母親が最大の弱点である武はあっさり引いた。のび太の意見が正論だった事もあるだろう。

「とりあえず帰るぜ。だいぶ泳ぎ疲れたしなー」

「あたしも」

「ぼ、僕も!久しぶりにママのご飯食べたいし!」

 そのまま解散の流れとなる。また明日、なんて約束は必要ない。気付けば何気なく、空き地に集まって騒いでいる。

自分達はそんなメンバーだ。無論喧嘩やらトラブルやらも耐えないが、本当の友達ってそういうものではないだろうか。

「またね、みんな」

「おう。…あ、そうだドラえもん、タケコプター貸してくれよ」

 帰り際に、武がドラえもんに言った。

 

「…帰ったら買い物頼まれる気がしてんだよな。

母ちゃん御用達のスーパー遠くて歩くのめんどいんだよ。後でちゃんと返すからよ」

 

 武の“後でちゃんと返す”はあまりアテにならない。以前あっさりと“お前の物は俺の物、俺の物はお前の物”宣言をしてくれた奴だ。

だがまあ、どこでもドアとスペアポケットを強請らないだけマシとも言えるが。

 

「…明日でいいからちゃんと返してよね。充電が長く持つ道具でもないんだから」

 

 ドラえもんも渋々と言った様子でタケコプターを出す。

武は満面の笑みでそれを引ったくると(絶対物を借りる態度じゃないだろう、アレは)ひらひらと手を振りながら下に降りていった。

「さて、僕はドラ焼きでも買って来ようかな。どうせ君は昼寝だろ」

「よくご存知で」

 ポケットを探り、本日二本目のタケコプターを取り出すドラえもんに、のび太は肩をすくめる。

しかしドラえもんもモノグサだ。商店街はすぐ近くなのに、わざわざ空を飛んで行こうだなんて。

 

「ほどほどの時間で起きて、偶にはママの夕飯の支度くらい手伝ってあげなよ。いいね?」

 

 最後にまた説教じみた事を言って、ドラえもんは窓から出ていった。全く、余計なお世話だこと。

バカンスに連れて行ってくれた事は感謝しているが、ここ数日のドラえもんは妙に口うるさくていけない。

 誰もいなくなった部屋。急激に襲ってきた眠気に欠伸をしながら、枕だけを出して横になるのび太。

なんだろう、何か大事な事を忘れているような。

 

−−そうだ…ドラえもんてば、みぃーちゃんを無人島に連れて行ってなかったっけ…?

 

 だが、たった今帰ってきたのは自分達五人だけだ。

ということはもしや、ドラえもんはみぃーちゃんを無人島に忘れてきてしまったのではないだろうか。

 みぃーちゃんを溺愛しているドラえもんに限って、まさかそんな事はと思うが。

帰ってきたら確認するべきだろう。自分に直接関係する事でないとはいえ、気になるのは間違いない。

 

−−あー…やっば。凄く、眠…。

 

 意識が緩やかに沈んでいき、ストン、とあっさり落下した。

それが最後となる、穏やかな眠り。

変異してしまった世界に、のび太はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、ススキヶ原・三丁目交差点(のび太が昼寝を始めて一時間後)。

 

 

 畜生、なんで。なんでこんな事になったんだ。

 見慣れた場所の見慣れない景色の中、金髪の高校生が走っていた。その手には折り畳み式のバタフライナイフ。

刃物を持った少年が必死の形相で駆けているのに、交番から警察官が飛び出してくる様子はない。通行人も悲鳴を上げない。

 世界は今、それどころではないからだ。

 

「くそがっ…!」

 

 角を曲がった先の景色に、少年−−片瀬健治は舌打ちした。真っ青な顔で銃を構える警官がいる。

青い制服。まだ若い、新米の巡査だろう。

彼も思ったに違いない−−自分が就いた職は警官であってモンスターハンターじゃない筈だ。

配属早々何でビビりながら銃を構える羽目になってんだ−−と。

 銃口の先には−−まるでトカゲのような姿をした、緑色の化け物がいた。

ぬめぬめとした体表が気持ち悪い。れろれろと伸びる下はそれ単体が生き物のよう。

何より、その大きさが尋常ではなかった。どこの世界に、普通乗用車サイズのトカゲなんてものが存在するというのだろう!

 

「うわああっ、来るな、来るなぁぁ!」

 

 警官はパニックになりながら発砲するが、当たる気配はない。あんな震えた標準で当たるとも思えない。

 大トカゲは、まるでねめつけるように警官を一睨みした後、じゅるんっと舌を伸ばした。一直線に、警官の体目掛けて。

 

「げほっ…!」

 

 “お巡りさん”の青い制服に、黒っぽい染みが広がっていく。

化け物の舌は、警官の腹から腰までを貫通していた。なんて威力なのか。

ヤバい、と健治の頬を冷や汗が伝った。化け物の、血のように赤い眼と、眼があった気がした。

 

「畜生ぉぉっ…!」

 

 震える足を一喝して走り出す。恐怖の針はまだ振り切れてくれない。

さらには恐怖にも勝るほどの生理的嫌悪が、腹の底からこみ上げてきて吐きそうになる。

 死体。死体。死体。どこもかしこも死体だらけだ。それだけならまだいい。

死体の中には“まるで生きているかのごとく闊歩している連中”が大量に存在している。

 腕は千切れ、眼球がはみ出し、向こう側が見えそうなほど腹に大穴を開け、まるでアクセサリーのように傷口から臓物を垂らし−−腐った身体を引きずる“ソレ”。

人間の面影はある。しかしそれが何故人間などと呼べるのだろう。

 最悪なのはそいつらがただ歩き回るだけでは済まないことだ。

リアルゾンビどもは、生きている人間を見かけては腐臭を放ちながら緩慢な動作で襲いかかり、生体の肉を引きちぎる。

どうやら自分達を餌と認識しているらしい。おまけに半端に食われた連中は起き上がり、奴らの仲間入りして新たな獲物を求めるようだ。

 冗談じゃない。

 生きたまま食い散らかされるのも、奴等のオトモダチになるのも御免だ。

 しかし、何処に逃げればいいのか。町中がこんな有様だ。安全な場所なんて素敵なモノが残っているかも怪しい。

動きを止めればその時点でゲームオーバー。それが分かっているからひたすら走っているが、体力だっていつまでも続くわけじゃない。

 どうしてこんな事になった。

ゾンビなんて映画の中だけの存在ではなかったのか。つい昨日まではなんともなかった町が、今日になって何故−−。

 

「くすん…くすん」

 

 不意に聞こえた、泣き声。健治はつい立ち止まってしまった。

道路脇で子供が泣いている。赤い帽子の、小学生になったかなってないかの小さな男の子だ。

 怖くて足が竦んでしまったのか、電信柱の陰に座り込んでいる。あれでは隠れた事にもなっていない。

偶々この道にまだゾンビは来ていないが、見つかったら一巻の終わりだ。

 

「おい、ガキ!」

 

 我ながら本当にお人好しだ。子供なんか好きじゃない。

好きじゃないのに、このまま見殺しにしたら寝覚めが悪いと思ってしまう。

 断じて重ねられたわけじゃない。泣き虫で、いつも怯えて自分に引っ付いていた、あいつになんて−−。

「男なら、そんなとこでウジウジ泣いてんじゃねぇ!こっち来い!」

「え…え?」

 子供は泣くことさえ忘れて、ポカンとこちらを見た。

大きな眼に、眉を跳ね上げた自分の顔が移ってる。忌々しい。そう思いながらも健治は子供の腕を引っ張った。

 

「立て。立って走れ…生きてぇなら!」

 

 健治の剣幕に驚いたのか、一瞬びくりと肩を震わせた子供。

けれどそこからはされるがままだった。死にたくない。一人でいるのは怖い。

例え赤の他人の怖いお兄さんでも一緒にいた方がマシ−−そんな所か。

 引きずるように手を引いて、ゾンビの群れで蠢く商店街を駆け抜ける。

手を伸ばしてきた奴はナイフで振り払った。多少なりにも喧嘩慣れしていたのが幸いと言える。

 

「…ガキ。てめぇ、名前は?」

 

 いつまでも“ガキ”は気まずい。名前を聞くと、子供は泣きはらした眼で見上げ、嗚咽混じりに言った。

「たろ…う。…山田、太郎」

「……今時珍しいくらい田舎くさい名前だなオイ」

 まさかこんな子供が偽名を使うとも思えないし。健治は素直に信じておく事にした。

 河川敷の向こう側に、小学校の建物が見える。

中も化け物だらけかもしれないが−−他に生存者がいるなら、あのような場所に立てこもっているものではないだろうか。

 当面の目的地を定めて、健治は走るスピードを上げた。

 

 

 

 

悪夢

〜平穏は今ち殺された〜

 

 

 

 

 

踊る準備はよろしいか。