−西暦1995年8月、学校校舎・2F相談室。

 

 

 悩んだところで答えは同じかもしれない。それでも悩むのが人だ。

 のび太と武が保健室へ向かい、安雄は静香、聖奈、ヒロトの手で相談室に運ばれた。

意外に丈夫で柔らかいソファー。床で寝るよりずっと楽だ。正直有り難かった。

平気なフリを続けているが、傷のせいでさっきから目眩が酷い。鎮痛剤を貰わなければもっと辛かっただろう。

「…なぁ…聖奈さん」

「何ですか」

「…ウイルスの話。やっぱりこれ、ウイルスが原因だったんだな」

「……」

 のび太達から報告された、T−ウイルスの話。

資料が見つかった上ゾンビ達の様子を見れば、それが確定情報である可能性は極めて高い。

 自分もいずれ、ああなる。化け物の爪で傷を受けたのだから。

狂いそうなほど怖い筈なのに、安雄の頭はどこか冷えていた。

 

「このままじゃ、俺も化け物になる…確実に」

 

 どんなプロセスをえてゾンビと化すか。他の生徒で見たから知っている。

まず傷を受けたところから痒くなってくる。痒みに耐えられず掻きむしっていると、今度は皮膚が捲れるようになる。

本当なら痛い筈なのに痛みが鈍い。神経がやられていってる証拠だろう。

 嘔吐する奴も多い。内臓が腐ってどんどん機能しなくなるんだから必然だ。消化器官に入ってるもの全てが異物として扱われるんだろう。

そうしてやがて、脳までウイルスの浸食を受ける。

生きてるか死んでるか分からない体で、ひたすら腹がすくようになるのだ。

 だからゾンビは、食欲を求める。

新たに入手した資料によれば食べ続けないと急激な新陳代謝に体が追いつかなくて、体の表面も腐っていってしまうからのようだ。

連中のグロテスクな姿はそのせいである。奴らはあんなに食べるのに全然追いついていってないのだ。

異常分泌した胃液が強力すぎて一瞬で食べたものを溶かしてしまうから余計だろう。

 

−−潜伏期間が最低で三十分とか…短すぎじゃね?

 

 自分はいつまで自分でいられるのだろう。いつまで正気を保てるのだろう。

 

 

 

「死にたくないなぁ…」

 

 

 

 死ぬのは怖い。本当に怖い。

 

 

 

「でも…化け物になるのはもっと嫌だ…」

 

 

 

 どうすれば自分は、自分のままでいられるのだろう。

 

 

 

「まだ…望みを捨てちゃ駄目よ、安雄君」

 

 安雄の手を握り、静香が言う。

 

「抗ウイルス剤が見つかれば、きっと助かるわ。それまで頑張らなきゃ…!」

 

 本人は慰めてるつもりかもしれないが、少々無責任な言葉のように聴こえてしまう。

自分にもう少し理性がなければ、勝手なこと言うなと怒鳴っていたかもしれない。

悪気がないというのは非常に厄介だ。頭から責めたら自分が悪役扱いにされてしまう。

 皮肉で病んだ思考ばかり巡る。しかしまだ思考を巡らせていられるうちは、安雄はまだ安雄でいられているのだろう。

いずれ傷口が痒くなって、人の肉が食べたくなって−−そうして最期は、生きる屍と化すのだ。

 そうなるまで、僅かな可能性に縋って生きるか。あるいは人としての最期に希望を見出すか。選択肢は、二つに一つ。

 ならば自分は−−。

「生きてるってさ、何だろうね」

「え?」

 不意に、ヒロトが呟く。

 

「ちょっとね…思ってさ。何をしてれば生きてるって事になるのかなって。

…体が生きてても心や魂が無かったら死体も同然だって考え方もあるじゃない?」

 

 何となく−−耳に入ってくる言葉。特に何かを考えて言ったわけではないのだろうと思う。それでも安雄は、聴かなければならないような気がした。

 ヒロトはとても、大切な事を言おうとしてる気がして。

「…人生に滅茶苦茶失望してる人でもさ。生きたいとか、生きてる方がいいかなとか…そう思った瞬間は絶対ある筈でしょう?

でもその人生がその人にとって“生きてる”って思えないものだったら、やっぱり悲しいじゃない?」

「む…難しいこと言いますね」

「そうかな。理屈は至ってシンプルだと思うけど」

「うーん…」

 微妙な顔で、互いに顔を見合わせる聖奈と静香。彼女達はけして頭は悪くない筈だった。少なくとも安雄よりは。けれども−−彼女達でさえ悩むその理屈が、安雄にはよく理解出来る気がしたのだ。

 自分の納得出来る最期がいいと、聖奈は言っていた。その言葉が再び、頭の中で回り始める。

 

「…俺もさ。生きてたくないって思った時があるよ。

こんな筈じゃなかった。こんな事の為に生まれてきたんじゃないのに…って」

 

 そうだ。自分も思っていた。

 こんな筈じゃなかった。こんな目に遭う為に生まれてきたわけじゃないのに、と。

 

「でも、生きてても良いかなって…そう思わせてくれる人達に出逢って。

その人達の役に立ちたいって思えるようになって…今は、生きてたいって思えてる。

…要はきっかけ一つなんだよね。それを時に人は運命とか、必然って呼ぶんだろう」

 

 穏やかなヒロトの声が、胸に染み渡っていく。

ヒロトとは出会ったばかりだ。彼がどんな人間で、どんな人生を歩んできたかなんて全然分からない。

あまりにも自分達の付き合いは短い。

 それでも、これだけは分かる。彼は今、幸せなのだ。

こんなヒドい事件に巻き込まれても、幸せだと言い切れる何かに出会えたのだ。

その眼は微笑っていた。生きていて良かったと、そう言っていた。

 

「自分は幸せだったって。生きてて良いんだって…そう思える何か。

人との出逢い、言葉との出逢い、歌との出逢い、夢との出逢い…とにかく何だっていい。

そういうものに出会えたら、何より俺達は“生きてる”って事になるんじゃないかな」

 

 何かとの出逢い。運命と呼ばれる不思議で、残酷で、時に奇跡のような−−“ナニカ”。それが生きている事の実感。生きている、“証”。

 安雄は考える。選択が出来る時間は、あと僅かだ。その僅かな時間に、自分は希望を見いだしてもいいのだろうか。

 運命はまだ自分を見捨ててはいないのだと。奇跡は確かに、起こるという事を。

 

 

 

 

 

 

 

−−西暦1995年8月、学校校舎・2F音楽室。

 

 

 のび太、武、太郎と共に、健治は音楽室にいた。

のび太と武が保健室に迎えに来た時、健治は金田に相談を持ちかけた。

保健室の方より放送室の方が頑丈ならば、ベースをあちらに移した方が良い。金田もあちらに籠城するべきだと。

 しかし彼は首を縦には振らなかった。

 

『此処にある薬を全て、放送室に運べるわけではあるまい。

保健室を完全に捨てるのはあまり賢い選択ではないだろう?』

 

 それも間違いではないが。だからといって、危険を増やすわけにはいかない。健治は言い募ろうとしたが、金田はさらに続けた。

 

『それに私は君に頼んだ筈だ。もし脱出経路が見つかっても、私は此処に残る。

救助隊に私の居場所を知らせて欲しい…と。そのつもりで、信じて待っていては駄目かね?』

 

 彼も何か、決意する事があったのだろう。

まだまだ言いたい事はたくさんあったが、健治はそこで退いた。なんとなく、深く言及しても無駄な気がしたのだ。

 そう思ったのは自分だけでは無かったのかもしれない。

綱海もとりあえずは保健室に残ると言い出した。

彼がいるならば、当分金田の身も安全だろう。綱海の戦闘力なら、並のゾンビがいくら集っても関係あるまい。

 

「本当に…理科室に入る気なのかよ」

 

 音楽室の棚を探しながら、健治は言う。

 

「理科室の鍵が見つかるとは限らねぇし。そもそも…化け物と戦う羽目になるぞ」

 

 安雄を襲った爬虫類野郎は、高い確率でまだ理科室に潜伏しているだろう。

資料を見る限り、あいつはアンブレラが生み出したB.O.Wの一体、バイオゲラスである可能性が高い。

 バイオゲラスは身体の色を自在に変え、景色に溶け込む特殊能力を持つ。

さらには安雄を苦しめた毒と爪、舌による攻撃も脅威だ。特に舌の攻撃はかなりリーチが高い。無傷で倒すにはあまりに分が悪い相手と言える。

 

「手が無いわけじゃない…と思う」

 

 のび太は青ざめながらも、しっかりした口調で言った。

「それに、この事件の真相を解き明かす鍵が…脱出の手がかりがあるかもしれないなら。理科室は避けて通れないよ、やっぱり」

「お前…」

「なんてさ。…本当は滅茶苦茶怖いんだけどね」

 誰も、“のび太一人で戦え”とは言っていない。寧ろ“のび太が戦え”とさえ言っていない。

 しかしもう、彼は自分で戦う決意を固めているようだった。

保健室で、彼が近くのトイレに行く事さえビビっていたのを健治は見ている。のび太との付き合いは浅いが、本当はとても臆病で優しい少年なのだろう。

 それでも。立ち向かえる、その優しさゆえの強さなのか。健治にはまだ分からない事だった。

「楽譜なんてよー…音符読めない人間からすると、暗号にしか見えねぇんだよな」

「分かる分かる!」

「おおっ、意見が合ったな太郎!」

 ゾンビ達がいないのをいい事に、武と太郎はのほほんとした会話を繰り広げている。

緊張感が段々薄れてきてやしないか。健治は頭痛を覚えた。

 

「真面目に探せよーお前ら。時間はいくらあっても足りないんだからな」

 

 はーい、と良い子の返事が二つ。本当に分かってるのやら。

確かに楽譜が見つかったところで、それが解決になるとも限らないのだけど。

 頭痛を抱えながら、ピアノの周りも探してみる。音楽室のグランドピアノは、よく手入れされているのかピカピカだ。

グランドピアノというとどうしても黒い部分に指紋がつきやすく、それがまた悪目立ちするのである。

自分達が今触ってしまった分くらいしか汚れはない。音楽室にはゾンビも入らなかったのだろうか。

 試しにぽろん、と鳴らしてみた。定期的に調律されているのだろう。

気温が暑いので若干音が高い気もするがそれはもう仕方ない。

こんな時管楽器や弦楽器はその場でチューニングできるから、ピアノのような不自由がない。管を伸ばしたり弦を長くすればいいのだから。

ピアノは調律師がいなければどうにもならない。

 

「あ…もしかしてコレじゃない!?

 

 太郎が声を上げた。

「僕英語教室行ってるから、アルファベットは読めるよ!C−3って、あっちの楽譜にも書いてあったよね?」

「でかした太郎!」

 どうやら三年生の音楽の教科書に挟まっていたらしい。

健治はその譜面を受け取り、確認する。前後の音符の並び、指の動き−−ちゃんと繋がる。恐らくこれで間違いない。

 ただ。

 

「…この音符の量でテンポ180とか…かなり鬼じゃね…?」

 

 聖奈や静香が音を上げるのも頷ける。改めてみたらかなりの難易度だ。

というか本来は連弾で弾くべき曲を無理矢理一人分に収めたような印象を受ける。

「頑張るよ俺……絶対初見で弾くような曲じゃないけど」

「ガンバッテー健治サーン」

 のび太が棒読みで声援を送ってくる。まったく、他人事だと思って!

 曲名は『End of the nightmare』。歌詞を見て、健治は眉を寄せる。見た事のない曲だが、これは誰が作ったのだろう。

 何だか怖い。あまりにも歌詞が、自分達の境遇に合いすぎていて。

 

 

二十

窮地

の上、人は選ぶ〜

 

 

 

 

 

それだけが唯一の証明。