健治の指が鍵盤に触れる。
一つ息を吐き、彼の指先が素晴らしい早さで鍵盤を滑り始めた。
その曲の音色を僕らは知らない。
確かなのは、その時多くの者達が心を揺さぶられたという事実だけ。
−−西暦1995年8月、学校校舎・2F男子更衣室。
“幸せに気付けなかった日
崩れ落ちる僕等の現実
亡者だらけの景色の中
無力な僕は逃げるしか出来なくて”
誰かが歌いながらピアノを弾いている。
生のピアノの音の力−−スピーカーなど使っていない筈なのに、そのメロディーははっきりと俺達の耳に届いた。同時に、歌う声も。
「馬鹿な…」
俺は愕然として呟いた。
「何故だ。何でこの曲が…この時代にあるんだ…!?」
“不慣れな武器を片手に持ち
されど立ち尽くす暇は無い
最期の見えた世界でさえ
生きたいと願うのは何故なの?”
その曲の名前を、『End of the
nightmare』という。知らない筈がない。
だってこの曲の歌詞を書いたのは俺だったのだから。
俺に作曲の才能は無かったが、友人が曲を担当してくれた。
まだ俺が世界に希望を失っていなかった頃−−未来への希望と展望を祈って作った歌だった。
全てが奪われ、裏切られたと知った時。俺はこの情けない歌を捨てようと決めた。
メモリーチップも曲のデータも全て怒りのまま破壊し、忘れ去ろうと誓った。ところが。
「…楽譜の原本と歌詞カードを、どっかで失くした時があったでしょ」
友人が苦笑気味に言った。
「あの時君は頻繁にこの時代に偵察に来てたじゃない。その時この学校で落としちゃったんじゃないの?でもって音楽の先生あたりに拾われたとか」
「…趣味が悪ぃ。あんな偽善じみた歌」
「そうかな。…僕は好きだけどね」
“神様もう少しだけ勇気を下さい
何一つ無駄になどしたくないから”
「……すまない。曲を作ってくれたのはお前だったな。曲は嫌いじゃないぞ」
「違うよ。僕が言いたいのはそういう事じゃない」
友はどこか、遠い目をした。
「この歌は、君の想い。君の叫び。…君がいっぱい詰まったこの歌詞が…僕は本当に好きだよ」
俺はしばらく彼の顔を見たあと、ゆっくりと目を背けた。
友の声は驚くほど優しくて、それがとても辛かった。
彼は恨んでいないのか。勝手に希望を抱いて、勝手に希望を放り出した自分を。
こんなに尽くしてくれた彼を傷つけ、裏切るような真似をして。あげく存在さえ揺らがそうとしている自分を。
「…俺の想いだから……嫌なんだ」
俺はぎゅっと掌を握りしめる。
「惨めだった自分を思い出させる歌なんて…聴きたい筈、無いじゃないか」
“偶然のような必然の中
僕等は走り出した
この馬鹿げた運命に風穴を空ける為に
僕を裏切ると言うのなら
正面からぶつかってきて
まだ絆は断ち切れてないって信じてるから”
−−西暦1995年8月、学校校舎・2F相談室。
「健治さんが…歌ってる…」
ピアノと共に流れ出した歌声。相談室にもまたそれは響いていた。聖奈と静香が聞き入っている。安雄は目を閉じて、その歌詞の意味を考えていた。健治、という人のことを自分は殆ど知らないが。力強いのに、どこか優しい声だ。そう思う。
さっきは余裕が無かったので、あまりちゃんと歌詞を見なかった。聞いた事のない歌だ。音楽の先生あたりが作ったのだろうか。しかしそれにしては、なんだか。
「…そうだね」
ヒロトが呟く。
「終わりの見えた世界で…それでも生きたいって思えるなら。それは…“生きてる”から…“生きてる”って思えるモノがあるたら…だよね」
生きてると実感できる“ナニカ”。
生きたいと思える“ナニカ”。
それこそが−−生の証。
「俺にも…出来るかな」
安雄は想いを口にした。朧気だった感情が、次第にハッキリと形を持ってくるような気がした。聖奈の言葉に。ヒロトの言葉に。そしてこの歌に。
「こんな馬鹿げた運命に…でっかい風穴、空けられるかな」
生きたいから。
生きてる事を、“知りたい”。
“何処にも行けるドアがあったら
簡単に全て置き去って
逃げ出したいと願うほどに
臆病な根性は相変わらずだけど
魔法の道具には頼れない
でも君は教えてくれたね
人にしかなれない僕でも
奇跡起こす力はあるよって”
「なんだかドラちゃんの事、歌ってるみたい」
確かに、“どこでもドア”があったらすぐ逃げたいよね。静香は小さく笑みを浮かべる。
「でも…今ドラちゃんはいないから…“魔法の道具には頼れない”。でも…20世紀の人間であるあたし達にしか起こせない奇跡があるなら…」
彼女の言葉が、安雄の胸にも染みる。
「それは……とても素敵なこと。アテにして…頼るだけなら簡単だけど…それじゃ何も守れやしない。…ヒロトさんが言いたかったのは、そういう事なのよね?」
ヒロトは肩を竦める。やっと分かったか、とも取れれば好きに解釈すればいい、という表現にも受け取れた。
ただ、皆が一人一人、何かに向かって踏み出していっている。前に進む意志を持ったのは、確かだった。
“神様もう少しだけ時間を下さい
この偽物の歴史を終わらせるんだ”
前へ進む事、それは時にとても難しい事。逃げるな、なんて事本当は誰も言えない。逃げたことのない人はいないから。逃げた事があるから今の自分がそこにいる。
ウイルスに侵され、生きたまま死ぬのが自分の運命なら。その運命に、風穴を空けてやりたい。ちっぽけな人間にも奇跡を起こせると信じたい。
この為に生まれてきたと言い切れるような、瞬間が欲しい。
−−のび太と、話をしてみようかな。
安雄は思った。今ののび太なら、答を見つける手伝いをしてくれるかもしれないと。
“定められた不幸の連鎖
それでも僕は折れないよ
君と見た理想郷を未来を取り戻すんだ
こんな僕にだって生まれてきた
意味があるというのなら
まだこの手は繋がれてる筈なんだって信じて”
−−西暦1995年8月、学校校舎・1F教室。
バリケードが壊されないうちは安全だと思っていたが−−少々認識が甘かったらしい。
野比のび太の担任教師は、もはやため息をつくしかなかった。
恐怖や混乱といった感情も、どうやら限界点があるらしい。
「ぎゃあぁががぎゃがばっ…」
表記も形容もし難い音と共に、中年の女が白目を向いた。
彼女はのび太達がやってきた時に追い返した人物だった。必要以上に肉が乗った腹に、ゾンビが噛みついている。
幼い女の子のゾンビだった。皮を剥かれ、眼球が露出したその顔は腐り果てていた。
女性の腹からずるずると腸を引き出し、美味そうに食んでいる。
生きたまま腸を食われる女性は、激痛と恐怖に奇怪な悲鳴を上げ続けている。その目玉に、腐った烏が嘴を突き立てた。
−−…これが、末路…か。
教師は無言で銃を構え、立て続けに三発撃った。弾はそれぞれ烏、ゾンビ、女の頭を撃ち抜く。
女はまだ生きていたようだが、あれでは生きたまま延々と食われ続けるだけだ。
その挙げ句にゾンビとして起き上がってくる。ならば早々に慈悲を与えてやるべきだろう。
教室の中に、男の行いを咎める者はいない。狭い室内は死体と肉と血と汚物でいっぱいだった。
ゾンビどもに痛覚はない。奴らは狭い隙間からでも無理矢理身体をねじ込んで、這い出してくる。
骨が砕けても肉が裂けても関係ない。首一つ転がりこめば、それはもう自分達にとっての脅威だった。
そして一人のゾンビが無理矢理にでも突入すれば、そこには穴が空く。
烏や犬どもは力任せにバリケードの隙間を広げる。
この惨状は、必然だった。自分のほかにはもう一人しか生き残っていない。
その青年も片腕を失い、床に座り込んで辛うじて息をしているだけ。いずれ彼もアンデットとして自分に襲いかかってくるのだろう。
「ははっ…結局こうなるんだなあ…」
青年が乾いた笑い声を上げる。
「何が間違ったのかな、俺達は」
彼は、のび太達が来た時、あの中年女性と喧嘩した人物だった。
なんと幼稚園で保育士をしていたのだという。来月、結婚予定だったのだと、薬指にはまった指輪を見せてくれた。
しかし、運命は残酷なもの。
彼女は彼の目の前で、頭から化け物に食われてしまったのだそうだ。
そして彼が愛した、幼稚園の子供達も。
「…間違ってたんだろうよ、最初から」
教師は目を閉じて、言葉を紡いだ。
「立ち向かう勇気がない奴が、生き残れるはずが無かったんだ。
私達の運命は…野比君達の手を振り払った時点で…決まっていたよ」
“この悪夢を終わらせる為なら僕は
アノ日アノ場所へ帰ル為ナラ僕ハ…”
ピアノの音色と、歌が、聴こえる。こんな酷い戦場で、それでも誰かが歌っている。
眩しい歌だった。臆病で怯えて逃げ惑いながら、それでも戦うと決めた少年の歌。
多分、音楽室の金庫を開けようとしているのだろう。
声は青年だからのび太本人ではないだろうが(そもそも彼は楽譜もまともに読めない。音楽の授業でも筆記はからっきしだと、教師を嘆かせていた)、きっとのび太の仲間だろうと思った。
彼らならきっとこの惨劇を打ち破る。
真実を解き明かし、奇跡を起こしてくれる。自分達には持ってない力が、彼らにはあるのだから。
「野比君達からの最期の捧げ物だ。君も受け取ってくれたまえ」
「そうするよ」
青年は苦笑する。
「目が覚めたら…これが全部夢になってたらいいな。
実は誰かの見た夏の夢で…あいつがいて子供達がいて…そんな事には、ならないかな」
胸が痛くなる。教師はもう、青年の顔を見る事はできなかった。
実際は、彼にも彼女にも罪などない。ただほんの少し運と勇気が無かっただけだ。
それは人として当たり前で、ほんの些細なものである筈だった−−こんな事にさえ、ならなければ。
悪いのは。
最たる悪は−−自分達。
「そうなる事を祈るよ。私は無力だが…君の夢に終止符を打つくらいは出来るんでね」
ガタガタとバリケードが揺らされる音を背中で聞きながら。教師は青年に向けて銃を構えた。全てを悟り、青年は笑った。ありがとうございます、と。そう言った。
“ねぇ神様もう少しだけ希望を下さい
記憶の中の笑顔を忘れないように”
銃声。死臭の漂う教室で、教師は一人天井を仰ぎ見る。
「野比君…私は」
T−ウイルスは、最初は確かに病を治療する為の薬だった。
自分もそう信じていた。何かが狂い、兵器転用されると聞いてもまだ信じていた。それが、間違いだった。
「世界の終わりが始まったこの場所で…最期を迎える事にするよ」
“逃げ場の無い世界の片隅
孤独な闇の果てに
「もしも全て一夏の
夢に過ぎないのならば!」
呼ぶ声に僕は目を覚ます
その向こうに君がいた
もう二度と失さないよ
この手の中の宝物を”
さようなら。
優しい君。
第二十一話
歌声
〜それは誰かの祈りのように〜
それだけが唯一の真実。