−−西暦1995年8月、学校校舎・2F音楽室。
暫く、身動きがとれなかった。健治が最後の後奏を弾き終わり、和音が空気を震わせたあと−−音楽室に満ちたのは、静寂だ。
「…のび兄ちゃん?」
太郎に服の裾を引っ張られ、のび太は我に返った。
「どうしたの?何で泣いてるの?健治兄ちゃんの歌上手だったのに」
指摘されて始めて、のび太は自分が涙を流している事に気付いた。今まで、泣き虫だなんだと言われて−−人より簡単に泣いてしまう質ではあったが。
こんな風に、無意識に頬を濡らすような泣き方をしたのは−−初めてだった。
「よく…分かんない」
眼鏡を外し、袖で涙を拭う。
「分かんないけど…なんか」
頭の中がぐるぐるして。胸の奥がぐらぐらして。何だろう。何て言えばいいのだろう。
残念なくらい自分の中に語彙が足らない事に気付く。感動した?そんな簡単な言葉で済ませていいものだろうか。
「なんか…なんて言ったらいいのかなあ…」
当たり前だが、のび太が作った歌ではない。昔は作文を誉められた事もあったのだ。
頑張れば歌詞は書けるようになるかもしれない。けれど曲は、一生かかっても無理だろう。
自分には音感もリズム感もないし、和音を聞き分ける技術も知識もセンスもない。
だけど。この歌はあまりにも−−のび太の気持ちに合致しすぎていた。
名前も知らない誰かの為に歌われた歌に、こんなに感情移入してしまうなんて。
馬鹿げていると言えばそれまでだが、単純な切り捨ては出来なかった。
−−僕は…幸せだった。幸せだって事にも気付けないくらいに。
それが罪だったのかもしれない。
今日突然、現実の全ては崩れ落ちた。あまりにも容易く、あっけなく。
−−亡者達…ゾンビだらけの町。化け物になっちゃったママと死んだパパの死体がある家から…逃げ出した。
それしか、出来なくて。
ただ、生きたいと。死にたくないと思った。何故そう思ったのか。
当たり前の感情だが、ひたすら生を望むのはつまり、希望を失っていない事も意味する。
『逃げるな!どんな恐ろしい景色でも…今こそが現実だ。目を背けるな。生きる為に、戦え!!』
誰かも分からない声。しかし自分はその声に導かれた。
神様なんてこの世界にはいない。
こんな不平等で残酷な神様なんている筈がない。それでものび太は願ったのだ。
神様どうか、もう少しだけ勇気を。誰かを守れる力を下さい。母の死を父の死を、たくさんの人の痛みを。
何一つ無駄にしたくないて、そう思ったのである。
何が偶然か。何が必然か分からない。それでも自分達は走り出した。否、今まさに走ってある。
この馬鹿げた運命に、風穴を空ける為に。
「…歌が世界を変えるって、信じてた時もあったんだよな」
手首をぽきぽき鳴らしつつ、健治が言った。
「けど、歌一つで変えられるほど世界は甘くないし。どんな奴にだって、自分の為だけに歌う歌を持ってんだ。
その他大勢の為の歌じゃ、そうそう響かないもんだろうよ」
「自分の為だけに歌う…歌?」
「おお。一部俺のお気に入りのロックバンドの歌詞から引用してんだけどな」
健治は嬉しそうに語る。よほど気に入ったフレーズがあるらしい。
「みんな、自分だけの歌を歌う為に生きてんだ。そいつを派手な舞台で歌えた時の感動っていったら無いからな。
…自分の為に歌う歌を、大事な誰かに捧げる瞬間。何より幸せだって、生きてるって思えるんじゃないかな」
俺もそんな風に生きたいなあ、と健治は言う。
歌に喩えるあたり、やはり彼は音楽が好きで、その為のスキルも持ち合わせているのだろう。
軽音をやっていたというが、今はやめてしまったのだろうか。そうだとしたら非常に勿体無い。
「…ただ…不思議なんだ。この歌は俺の為の歌じゃねぇのに…なんか作った奴に乗り移られたっていうか。そいつの気持ちで歌えた気がする。…なんか繋がるもんもあったんだろうけどな」
ああ、それはあるかもしれない。
ゾンビの群に囲まれ、逃げて、その上で走る事を選んだ自分達。
その想いは、きっとみんな同じなのだ。
どこでもドアが欲しいと、今でも心の隅で祈ってる自分。
けれどしっかりしなければ。ドラえもんもいなければ秘密道具もない以上、アテにしてはいけないのである。
だけど、自分達には秘密道具より大きな武器がある。
それを時に絆と呼び、信念と呼び、誇りと呼び、諦めの悪さとも呼ぶ。
ここまで酷い悪夢では無かったけれど−−今までの冒険だって、危ない目に遭うことは何度もあった。
肝心な時にドラえもんの道具は使えなくなったりする。そんな中にあっても、自分達は悉くピンチを覆してこれたではないか。
魔法は使えない。空を飛ぶ翼はない。人間でしかない自分達。だからこそ奇跡を起こす力もある。
ドラえもんはそう、教えてくれた。
「…あー、俺様もみんなに美声を聞かせたくなったぜ。でもピアノは弾けないんだよなあ。健治さん伴奏やってくれね?」
「じゃ、ジャイアン!?」
ヤバい。真剣にガチで本気でヤバい。すっかり武のことを忘れていた。彼の前で歌の話なんてしたら自殺行為ではないか!
確かに武の歌ならゾンビも化け物もぶっ飛ばせそうな気がするが−−その前に自分達が死ぬ。絶対死ぬ。
なんでこんな時にまでリサイタルの恐怖に怯えなくてはならないのだ!
「い、今はそんな時間ないよ今の健治さんの演奏で隠し扉とか開いたかもしれないし急いで探さないと駄目だし
早くしないと手遅れになるかもっていうか理科室以外も調べなきゃいけないわけでそもそもここで歌ったらゾンビ達が寄ってきて危ないのに
今まさに危険を侵したところなわけでさらにジャイアンが歌ったらゾンビがいっぱい来ちゃうかも
下手したらバイオゲラスみたいな化け物も来るかもだからやめた方がいいと思うんだけどどうかなジャイアン!?」
「…分かったけどまずのび太が落ち着こうか…な?」
超早口でまくしたてると、健治がひきつった笑顔で言った。
「そんなに俺の歌が聴きたくないってのか、あぁ!?」
「めっ…滅相もございません!暴力反対っ!」
青筋立てた武に一発殴られた。ああ、ちゃんと正論で返したつもりだったのに、どうやら少々焦りすぎたらしい。
タンコブのできた頭をさすりながらのび太は涙目になる。
だって本気で聴きたくないんだもん、どうしろっていうの。っていうかジャイアンさんはいい加減自分の音痴と馬鹿でかい声量を自覚して下さい(涙)
「ねーねー、なんかガチャコンッて音がした気がするんだけど」
「…へ?」
「……のび兄ちゃん達、趣旨忘れてない?」
趣旨、なんて難しい言葉をよく知ってたもんだ−−とそういう事ではなくて。
太郎の言葉に、のび太は本来の目的を思い出す。
そうだった。何の為に危険を犯してまで健治にピアノを頼んだと思ってるのか。
ええ忘れてませんとも!−−忘れかけていた事は否定しないけど。
「あ…確かに、なんか絵がズレて…うわっ!」
壁にかけてあったバッハの絵が、がたりと動いた。一瞬、定番の怪談を思い出してしまい背筋が寒くなる。
音楽室にあるバッハやベートーベンの絵は、いつも睨まれているようで怖いものだ。
それが夜中に笑ったらさらに怖さMAXだよね、と。まあ、よくある話である。
確かにあたりはだいぶ暗くなってきたし、そろそろ夜と呼んで差し支えない時間だろう。
だが、絵が動いたのは断じて音楽家の霊のせいなどではない。
外れた絵の向こうに、細い通路があった。立って歩くのは難しいが、這っていけば通れなくもないだろう。
「ジャイアン、健治さんと太郎をよろしくね」
「おう。…って、一人で大丈夫かよ?」
「残念だけど一人でしか通れそうにないもの。行ってきまーす」
気持ちが高揚しているのかもしれない。健治の歌を聴いたせいだろうか。
不思議と恐怖は薄れていた。今なら、多少何かが出てきても何とかなる気がしてる。今までビビリながらも無傷で切り抜けてこれたのもあるかもしれない。
入口に体を突っ込み、這腹前進でじりじり進むのび太。通路はさほど長くない。こんな体勢で長く動くのは非常にキツいので助かる。
−−なんかこの隠し通路、最近使われたばっかりみたい…。
埃が積もってるなんて事はない。最近誰かが通ったのか、あちこち擦れたような後がある。
釘の頭が少しでっぱっていて危ない箇所。のび太は赤い何かがついているのに気付いた。
血かと思ったが、よく見ると布である。肌触りが良い、赤い絹だ。
ドレスなんかに使われてそうな素材である。なんでこんな布切れが。前にここを通った人間が引っ掛けたのだろうか。
「わっ…」
突然広い空間に出た。転びそうになりながら、なんとか着地するのび太。
一体何がどう繋がっているのやら。確かに音楽室に窓はないが、まさかこんな部屋が隠れていたなんて。
辺りを慎重に見回す。人の気配も化け物の気配もない。薄明るいのは、奥に二つ電球が下がっているせいだった。
灯りが煌々と照らすのは、鉄の重たい金庫である。
「これが…隠し金庫?」
のび太は恐る恐る近付く。その両隣には、女性を象った二体の石像が鎮座していた。
胸に何かを嵌めるような窪みがある。もしや金庫を開ける鍵だろうか。
金庫そのものには、取っ手こそあるもののダイヤルや錠前はない。にも関わらず、いくら引っ張っても開く気配は無かった。
もし石像に何かを嵌めなければならないなら−−実に面倒くさい。
楽譜の次は宝石探しか。何のロープレだと言いたい。これ以上の遠回りはウンザリである。
「ん?」
かつん。
何かが落ちるような音。小部屋の隅で、何かがキラリと光った。のび太はそれを拾い上げる。赤い宝石と、青い宝石だ。この大きさ、さすがに模造品だろう。
しかしその光彩はなかなか綺麗で、一瞬見惚れてしまう。赤と青の光の中に、のび太の顔が映っている。
もしやコレが、金庫を開く鍵なんだろうか。どっちがどっちか分からないが、適当に嵌めてみる。
青を左に、赤を右に。するとガチャン、と音がした。再び金庫の取っ手を引っ張ってみれば、今度は呆気ないほど簡単に開く。
中は殆ど空だった。あったのはただ一本の−−小さな鍵だけ。
「まさか…」
のび太の予想は的中する。鍵には『理科室』というタグがついていた。
これで理科室に入ることが出来る。今までの労力は無駄では無かったというわけだ。
けれど。流石ののび太も、ここまで都合良く事が運ぶと不信感を抱かざるをえない。
何で理科室の鍵が金庫なんかにあるのか?そもそも金庫の鍵を開ける為の宝石が、すぐ近くに転がっているのがまず不自然だ。
何者かに誘導されてる?そんな、まさか。
「と…とにかく健治さん達の所に戻ろう…」
きびすを返す。振り向かなかったのび太は気付かなかった。石像の陰に、佇む人物がいた事に。
赤いドレスを着たその女が、ずっと嫌らしい笑みを浮かべてのび太をねめつけていた事に。
第二十二話
誓
〜想い、繋いで〜
それだけが唯一の現実。