埃っぽさはさほど無かったが。薄暗い通路を這うのは少々疲れる。
音楽室に戻ってきたのび太は、そこでうんと伸びをした。やっぱり立って歩くのが一番だ。
「結局…何があったんだ?金庫の中には。またか空っぽだったって事はねぇよな?」
「それは大丈夫」
ほら、と。のび太は鍵を見せる。ゆらゆら揺れる“理科室”のタグに、喜ぶより先に訝しげな顔をする健治。
「おいおい…都合良すぎるだろ。まるで俺達が仕掛けを解くのもコレを欲しがってるのも知ってて、金庫に突っ込んだみたいじゃないか」
まったくもってその通りだ。しかしそんな事が出来る人間がいるかは怪しい。
もうモニタールームはスネ夫が押さえたのだ。
監視していた連中もそれ以降に自分達の動きを知る事は出来ない筈である。
そもそも楽譜のうち三分の二は、のび太と安雄が偶々見つけたものだ。
それを把握して、先回りするなんて。そんな事人間技ではない。
金庫の鍵である宝石が都合よく転がっていたのはさすがにおかしいと思うし、金庫なのに鍵以外何も入って無かったのも奇妙だが−−。
「まさか人間じゃない“誰か”が、俺達の先回りしてたりしてな!ははは」
武は気楽である。本人は冗談のつもりのようだが、のび太はあながち冗談とも思えなかった。
人あらざるモノ。生と死と、善悪さえ超越したモノ。
そんなモノも時には存在する。むしろこんな場所にこそ、いて然りではないか。
「まあ…罠だろうと何だろうと、行くしかねぇよな、理科室」
腹を括ってか、健治がため息を吐く。
「そうだ、さっきの譜面。もう使わないと思うし、俺貰っていいかな。久しぶりに真面目に音楽やりたくなっちまった」
「やればいいじゃない。勿体無いよ、あんなに弾けるんだから」
しかも、初見で。もしかしたらあちこちつっかかったのかもしれないが、少なくとも自分には分からないレベルだった。
のび太は改めて楽譜を見る。音符なんて線の上をおたまじゃくしが泳いでるようにしか見えない。
これが音色の素になるなんて俄かに信じがたい。
そして音符が読めないのび太でも、“おたまじゃくし”の数がやたらめったら多くて難しそうなのは分かる。
きっと健治には才能があるのだ。ただ素質だけではなく、努力ができる才能も。
何故音楽から離れてしまったのか知らないが、枯らしてしまうのはあまりに惜しい気がする。
「…何となくだけど。この曲も健治さんに弾いて貰えてうれしかったんじゃないかな」
誰が作ったかも分からない。誰に宛てたかも分からない曲だ。
けれど健治のピアノはただ音色をなぞるだけではなくて、想いがたくさんこもっていたように思う。
これからも健治に弾いて貰えるなら、製作者も曲もきっと本望である筈だ。
のび太にはまだ、自分だけの歌が分からない。どんな歌を歌いたいのか、ビジョンなんて曖昧で、先はまったく見えそうにない。
今までだってただ何となく幸せを享受して、ぼんやりしながら生きてきたようなものだ。それがいつ死んでもおかしくない状況にあって余計ぼやけてきてしまった。
しかし。健治の歌を聴いて、思ったのだ。
自分も自分の歌を歌いたい。
大切な人に、心からの気持ちを叫びたい。
自分は此処にいると、自分は自分だと証明したい。
その前に死んだら、間違いなく未練が残るだろう。
自分の歌を歌うまで、生きる。それが今の目標で、生きる目的だ。気付かせてくれた健治には感謝しなくてはなるまい。
「もしかしたらあと一分先の世界に、僕達はいないかもしれない」
今日を生き抜くどころか、数秒先の未来さえ保証されない。此処はそんな世界になってしまった。
「だからその、不確かな一分一秒が重なって…次の朝日が登る頃まで生きられたら。それはきっと凄い奇跡なんだと思う」
奇跡が起きますように。奇跡が起きてくれたなら。きっと昨日までののび太ならそんな風に祈っていた。
でも今は違う。自分はもう、人任せの願いは言わない。奇跡は待っていたって起きやしないのだから。
「僕達で奇跡を起こすんだ。そして奇跡が起きて…いつかまた町が平和になった時」
忘れない。当たり前で平凡で、心から幸せだった世界を。
「音楽、また始めてよ。それでまた…僕達に歌、聴かせて欲しいな」
健治は目を丸くしてのび太を見、次の瞬間破顔していた。
「おお。あんな音痴でよけりゃ、な。約束だ」
「だったら俺も一緒に歌ってやるぜ!ってか今からでも別に…」
「あああだからジャイアンはいいってば…少なくとも今は駄目だってばああっ!」
健治の演奏と歌は素晴らしかったが。明らかに余計な人の余計な意欲をくすぐってしまったらしい。
ゾンビを蹴散らしながら謳い始めてくれちゃったらどうしよう。絶対自分達みんな戦闘不能になるのだが。
こんなところでゲームオーバーなんて嫌すぎる。
「たらら〜たらりら〜」
そして太郎。さりげなくFFのゲームオーバー曲鼻歌で歌わないで下さい。縁起でもないったら!
−−西暦1995年8月、学校校舎・2F更衣室。
「のび太君達は鍵を手に入れたみたいだね」
計画通りに見えて、余計なイベントも起きている。さっきから彼は不機嫌極まりない。
僕は頭が痛くなった。彼のことは好きだが、頼むから不機嫌オーラを撒き散らすのはやめて欲しい。
「機嫌直してよ。どっちみち、理科室の鍵を渡すつもりだったじゃない。もう余計なものは回収出来たんだし」
「こんなにイレギュラーが起きて、冷静でいられるか」
ぎろり、と睨まれる。僕はつい、手に持ったモニターで防御してしまった。
モニタールームが使えなくなった以上、のび太達の様子は僕の力で彼に見せるしかないのである。もう少し感謝して優しくしてくれてもいいものを。
「…理科室の鍵は、用務員室に置いた筈だぞ。それがどうやったら音楽室の隠し金庫に転がり込むんだ」
理科室の鍵がどうあっても見つからないとなれば、次に彼らが向かうのは鍵を管理してそうな場所だ。
警備室か、用務員室。それを見越して、用務員の壁に鍵を引っ掛けておいたのである。
それなのに−−金庫に入っていただろう書類などが根こそぎ奪われ、代わりと言わんばかりに鍵が投げ込んであった。
どう見ても不自然。超常的な力を持つ何者かが先回りしたとしか思えない。
「…さっさとのび太に理科室を見て欲しい“誰か”が、僕達の他に…学校内にいる。そう考えるしかないよね、今のところ」
「その“誰か”だが」
書類をピン、と弾く彼。
「やはり気になるのはこの女だな」
それは、ある研究員の日誌だった。T−ウイルスを見つけた経緯、それがどのように研究され開発されていったか−−その一部が記されている。
一部、というのはどうにもこの研究員はあまり地位の高い人間では無かったようで、この人物が知る事もさほど多くなかった為だ。
「…あの時」
何かを思い出すように、彼は目を細める。
「俺は…俺達は無力だった。ただ何も分からないまま巻き込まれ、襲われ、逃げ惑い………真実が何一つ分からなかった」
そして、大切なモノをたくさん失った。ぽつり、と空虚に呟く声。僕は胸をかきむしられる想いだった。何度言っただろう。
君は悪くなかったよ。君に罪は無かったんだよ。
しかし何度繰り返しても、彼に想いは届かない。彼は憎悪と悔恨のまま、復讐と懺悔を繰り返すだろう。いつか、その命が尽き果てる時まで。
「…史実は、変わり始めているよ。実際彼らは独自に真実を探りあてている。僕達の狙い通りに」
「そうでなければ、何の為に生かしてやってるかがわからない」
フン、と彼は鼻を鳴らす。
「話を戻すぞ。…T−ウイルスが当初癌や筋ジストロフィー治療の為に開発・研究されていたのも確かだ。
…そして学校関係者の一部は、治療薬としての成果を期待して手を貸していたようだな」
かなりの礼金をアンブレラから貰っていたようだし、それを目当てに研究施設を見逃していた職員もいる。
しかし、T−ウイルスの可能性を信じて、裏方ながら研究に手を貸した関係者も多いのだ。
無論、後者の多くはT−ウイルスが兵器転用されると知り猛烈に反発した。
しかし、アンブレラが反対する者達を放置する筈もない。
反乱分子は悉く処罰され、口封じにあった。恐らく、ウイルスの被験体にされた者の中には、“元協力者”も相当数いた筈である。
「実際、成功例もあるらしい。筋ジストロフィーの少女にウイルスとワクチンの両方を投与して経過を見たところ、完治にまでこぎつけたという」
元々、T−ウイルスの原初であった始祖ウイルスは、現在ほど破滅的な威力は持っていなかったのである。
少なくとも、他者への感染力は今とは比べものにならないほど低かったそうだ。
さらに、人間があんなグログロのアンデットになる事も無かった。
確かに、下手に投与して失敗すれば死を招く事もある危険なウイルスだったのは間違いないようだが。
「研究は難航していたが、アンブレラの殆どの者達は希望を捨てていなかった。実際、じりじりとだが前進は続けていたみたいだ」
しかし。そんな状態も、ある時突然終わりを迎える。研究が飛躍的に進む発見があったらしい。
それが何かはここには記されていない。この研究者もよく知らなかったようだ−−どうにみても話がおかしい。
僕は眉を寄せる。研究者なのに、この人物は自身の研究について知らなすぎる。
否−−知らされてなさすぎる、と言うべきか。
「その発見を契機に、アンブレラは180°方針を変えた。
始祖ウイルスを改良…否、改悪し、T−ウイルスを作った。人々を大量虐殺出来る兵器を」
始祖ウイルスを、薬ではなく生物兵器に。戦争の道具に、金の成る木へのビジネスに。
そんな恐ろしいプロジェクトを提案し、指導した人物こそ−−この“二ノ宮蘭子”という女だ。
この女は、研究を躍進させる発見をした本人であり。
なんとアンブレラの研究チームに入って間もない人物だったという。
彼女が何者かは誰も知らない。ただ明晰な頭脳と知識を持ち、その素晴らしい手腕で一気に幹部クラスまで上り詰めたという事だけだ。
「元よりアンブレラには黒い噂があった。大企業の宿命とも言えるがな。
だが、それでも医療や慈善事業に熱心な会社で、かなりの実績も持っている。
…何もかもが変わったのはこの女が現れてからだ。少なくともこの研究者はそう考えていた」
資料にあったのはここまでだ。
その研究が何故最終的に、このようなバイオハザードに至ったのか。アンブレラはウイルス兵器の恐ろしさを熟知し、しっかりした管理を行っていた。
これが閉鎖空間以外で撒かれた場合、人類滅亡さえ招きかねない事に気付いていた。
その危険性ゆえ、まだ実戦投入を見送られていたのである。
それなのに−−それなのに何故。
「まだ僕らが知らない事は多い…か」
僕が言うと、彼は呻いた。判断を迷っているのだろう。野比のび太を、まだ生かすべきかを。
第二十三話
鮮烈
〜暗闇で、嗤うケモノ〜
それだけが唯一の口実。