−−西暦1995年8月、学校校舎・3F理科準備室。

 

 

 化け物はまだ理科室にいる可能性が高い。戦わないで済むならそれに越した事はないが、戦闘になると思って作戦を練った方がいい。

 のび太は深呼吸をして、理科準備室と理科室を繋ぐドアの前に立った。

危険だけど、やるしかない。のび太のみならず、誰もが緊張しているのが気配で伝わってくる。

 一人にして欲しいと言うので、安雄には相談室に残ってもらった。

あとは金田と綱海も保健室で待機中。スネ夫は放送室だ。残りは今全員がこの部屋の中にいる。

 万が一の時も考えて、全員の突入は控えるべきだ。

よって理科室には、のび太と静香とヒロトで突入することになった。

太郎と、太郎を守らなければならない健治以外は、状況に応じて助太刀に入ることになる。

「…じゃあ、行くよ」

「うん…」

 ごくり、と唾を飲み込み。鍵を差し込んだ。ガシャリと手応えがあり、ノブが回る。

恐る恐る中を覗きこんだ。電気がついたままだ。

一見、硝子の破片が散っていたり椅子が倒れているくらいで、特に変わったところはないように見えるが。

 

「のび太君。天井にも気をつけて下さい」

 

 聖奈が言った。

 

「私達が出逢った化け物は、天井裏から現れたんです。

もしかしたら同じように上に潜んでいる可能性もあります」

 

 そりゃまた怖いこと。のび太は頷き、銃を構えたまま足を踏み入れた。

じゃり、と靴が破片を踏み音を鳴らす。どうやら窓ではなく棚の硝子のようだ。窓は割れていない。

外は真っ暗で、室内の電気のせいもありまったく見えない。

 周囲に気を配りながら、一歩一歩前へ。

それじゃあ意味がないと言われそうだが、安全が確認できるまで皆を呼びたくないのも本心だった。

棚の陰を覗き込む。特に何かが隠れてある様子はない。後ろのドアから静香の声がした。

「のび太さん…どう?」

「そうだね。今のところは…」

 異常はない。そう言おうとした時だった。

 

 

 

 ドスッ!

 

 

 

「ひっ…!!

 

 目の前の机に、何かが突き刺さった。悲鳴を上げ後ずさる。

 

−−上かっ…!

 

 多分この位置が一番不味い。椅子に躓きそうにながらも必死で走り、距離をとる。そして振り向いた。

 

「バイオゲラス…!」

 

 緑色の、大蜥蜴。資料で見るより実物は遥かに生々しく気持ち悪い。

粘液でぬめつく体表には、幾重にも太く青い血管が走っていた。

T−ウイルスのせいかこいつも体のあちこちが腐り、膿が噴き出していた。

三つに割れた鋭い爪は、前足にも後ろ足にもある。あれで傷つけられたら痛いなんてものではないだろう。

 何より脅威なのは、がばりと開いた巨大な口だ。

小柄なのび太など簡単に丸呑みできてしまいそうである。

ギザギザした歯が並び、異様なほど長い舌をでろんでろんと振り回す。

金色の瞳はまるで猛禽類のよう。これはもう“化け物”以外になんと形容していいか分からない。

 カメレオンが素体、なんだろうか。でもカメレオンに歯ってあったっけ。あまりの醜悪さと悪臭に脳が現実逃避をしそうになる。

 その隙が災いした。

 

「わあっ!」

 

 バイオゲラスが長い舌を振り回した。慌てて身を屈めて事なきことを得る。

舌が薬品や器具の入った棚を薙ぎ倒した。静香の悲鳴が聞こえ、ぎょっとする。

「静香ちゃん!」

「あ、あたしは大丈夫…でも…っ!」

 ガタガタと音がする。倒れた棚がドアを直撃したのだ。

ドアは歪み、おまけに重い棚が前を塞いでしまった。

最悪のバリケードである。これでは仲間達が入って来れないしのび太が逃げることも出来ない。

 多分、時間をかければ除去は可能なのだろう。

だがバイオゲラスがそれだけの時間をのび太にくれるとは到底思えなかった。

 

−−僕一人で倒せっていうの…こんな怪物を!?

 

 忘れかけていた恐怖が喉元からせり上がる。生理的嫌悪に脂汗が流れる。

一人でも戦うつもりではいた。その勇気もあったつもりだった。

しかしいざ目の前にすると、怖くてたまらなくなる。

自分が本来弱虫で泣き虫な野比のび太なのだと思い出しそうになる。

 シャアッと。まるで猫が獲物を威嚇するような声を上げ、蜥蜴野郎が口を開いた。

そのまま突進してくる。ビビッてる場合じゃない。噛みつかれたら一巻の終わりだ。

 

「わああっ!」

 

 無様に床を転がり、なんとか回避する。掌に痛みが走った。

見れば赤い線が引かれ、じわじわと血が染み出している。割れた破片で切ってしまったらしい。

 ドアの方から、どんどんと何かを叩きつけるような音がする。

「静香ちゃん、よせっ!」

「だってのび太さんが…このままじゃのび太さんがっ!」

 武の慌てた声と静香の泣き叫ぶ声。ガタンガタンとかなりの騒音だ。

なんと静香が、準備室内にあった椅子か何かでドアを殴っているらしい。

のび太は心底驚いた。自分の中での静香は大人しくて大和撫子で優しくて−−こんなに激しいものを隠してたなんて、思いもしなかったのだ。

ひょっとしたら焦がれる気持ちが無意識にフィルターをかけていたのかもしれない。

 しかし。のび太はそんな彼女に失望したりはしなかった。

むしろ−−自分の為に一生懸命になってくれる姿に、強く胸を打たれた。

感激というのか。そこから湧き上がる強い使命感が、先程までの恐怖を緩やかに塗りつぶしていく。

 

−−そうだよ。安雄に言ったじゃないか。

 

 怖いけど。その恐怖を無理矢理忘れる必要はない。

そもそも臆病な自分にはそんなこと最初から無理な話なのだ。

 恐怖があるから、その恐怖に大切な人を晒さない為に−−戦うことができる。

静香にこんな怖い思いはさせたくない。彼女を、皆を守りたい。その想いが、崩れ落ちそうなのび太の足を支えるのだ。

 

 

 

「弱くたっていい…でも!」

 

 

 

 皆の、静香の頑張りに応えたい。

ここで応えなきゃ男じゃない。根性見せろ、野比のび太。

 

 

 

「戦うんだ…これ以上悲しいことが起きないように!」

 

 

 

 傷ついた手がビリビリと痛くて、涙が滲みそうになる。だけどここで諦めたら、もっと痛い。体以上に、心が痛い筈だ。

 ヘルブレイズ改・Z型を構える。落ち着いてやればできる、自分なら。唯一誰かに誇れる取り柄なのだ。

 

 

 

「僕だって……戦える!」

 

 

 

 再び突進してきた化け物の顔面に、立て続けに五発撃ち込んだ。

ごぎゃああ、と濁った悲鳴を上げて化け物が仰け反る。ダメージは与えられた。だがまだ足りない。体の表面が随分と堅いようだ。

 ヘルブレイズ改・Z型は一発こそ弱いが装弾数の多さがウリである。

まだ装填せずともあと十五発撃てる。素早く距離を取り、残りを撃ち込もうとする。

あの舌のリーチの長さは厄介だ。ただ距離をとるだけでは意味がない。

バイオゲラスの口元から目を離したらその時点で敗北が決まるだろう。

 しかし。

 

「なっ…!?

 

 バイオゲラスの姿が揺らめき、陽炎のごとく空気中に溶けた。

「き、消えた!?

『ステルス能力だ、のび太!』

 インカムからスネ夫の声が入る。

 

『バイオゲラスの特殊能力、資料に書いてあっただろ、忘れたのかよ!』

 

 そうだった。コイツは自在に姿を消せる。正確には、体の色と模様を自由に変化させて、景色の中に溶け込めるのだ。

資料を見た時は思った−−いくら体の色を変えたところで、質感は誤魔化しようがない。

明るい場所でなら簡単に見破れそうなものなのに、と。

 甘かった。そもそもバイオゲラスのようなB.O.Wは、殺人兵器として生み出されたものだ。

実際に戦場で役に立たなかったら何の意味もない。目視であっさり居場所が知れるようなら、失敗作だとしか言いようがないでないか。

 既にのび太にはもう、バイオゲラスの位置が分からなくなっていた。

慌ててさっきまでバイオゲラスがいた位置に銃弾を撃ち込むが、弾は空を切るばかり。のび太は焦る。どこだ。どこにいるのだ。

 

 じゃり。

 

!!

 

 殆ど本能だった。のび太は横に体を転がす。今度は割れた硝子で肘を切ってしまったが構ってなどいられない。

バイオゲラスが長い舌で攻撃してきたのだ。風を切る音と共に、壁に穴が空いた。

 

「痛…っくっそぉ…」

 

 左手の手首と肘を伝う血。おかげで手がぬるぬる滑る。

今のは半分奇跡のようなものだった。バイオゲラスが硝子片を踏んでくれなかったら、位置など全く分からなかった。

 しかしこのままではいずれ餌食になる。

仮に避け続けられたところで、蜥蜴野郎が姿を現してくれない以上こちらからは攻撃できない。

弾だって無限にあるわけではないのだ。

 

「のび太君!」

 

 その時。どこからともなく声がした。のび太ははっとして顔を上げる。

この声は、町で自分を導いてくれたのと同じ声だ。一体何処に。キョロキョロあたりを見回すが、それらしい影はない。

「そいつは蟒蛇野郎だ。弱点を突け!」

「うわばみ?な、何それどういう意味?」

「アル中なんだよ。バイオゲラスはね!ここは理科室だ。ならいくらでもやりようはある!!

 アル中−−アルコール中毒?アルコールってのはお酒に入ってる成分で、でも今ここにお酒なんかなくて−−。

 いや、待った−−理科室?

 

−−そうだ…アルコールって、お酒以外にもあるじゃないか!!

 

 のび太は棚に飛びついた。悠長にしてる暇はない。

バイオゲラスの次の攻撃が来る前に、終わらせなくては。

 理科の授業をちゃんと聞いていればもっと早く見つかったかもしれないが。今はそんなことを言っても仕方ない。

幸い、目的のブツは使用頻度が高いせいかすぐ手前に置かれていた。

 のび太は“それ”を四つばかり掴み、部屋の中心に向けて放り投げた。

 

「ご褒美だ…蜥蜴野郎っ!」

 

 力いっぱい投げつけたのは−−アルコールランプだ。

硝子の入れ物は床にぶつかると、粉々に砕けた。中から溢れたアルコールが零れて床に小さな池を作る。

 途端。がたんっと大きな音がした。

 

「ぎゃおおぅぅぅ!」

 

 バイオゲラスが歓喜の雄叫びを上げて、アルコールの池に飛びつく。

アルコールを舐める、ねちゃねちゃという音が聞こえる。

大好物を目の前にして、大蜥蜴は油断しきっていた。体の色がゆっくりと、元の毒々しい緑色に戻っていく。

 

「見えた!」

 

 

 

 引き金を、引け。これがラストチャンスだ。

 

 

 

「いけぇぇぇぇっ!!

 

 

 

 食事中のバイオゲラスの目元に、残り十三発を全て撃ち込んだ。

さすがに眼球は柔らかいのだろう。バイオゲラスが凄まじい悲鳴を上げる。

 腐りかけた脳漿と体液が飛び散り、大蜥蜴の巨体が傾いだ。どう、と音を立ててアルコールまみれの床に倒れる。

もうバイオゲラスの両の眼球は潰れて、顔の上半分がミンチの状態だ。

これならもう起き上がってくる事もないだろう。ほう、と息を吐いて弾を込め直そうとした時だ。

『のび太!まだだ、まだそいつ死んでないぞ!』

「え…」

 インカムから、スネ夫の切羽詰まった声。スローモーションのようだった。気がついた時には、その巨大な口が−−のび太の眼前にまで迫っていた。

 

 

 

二十六

大蜥蜴

イオゲラス〜

 

 

 

 

 

それぞれが行けるところまで。