とっさに、側にあった椅子を引き寄せた自らの判断力を誉めたい。
そうしなければのび太は今頃、怪物に丸呑みされていた事だろう。
あるいは、上半身と下半身が泣き別れしていたかもしれない。
バイオゲラスの大きな口が、バリバリと音を立てて木製の椅子を噛み砕く。
その隙になんとかのび太は化け物から離れたが、頭の中はパニックだった。
バイオゲラスの顔はぐちゃぐちゃで、眼球がどこについていたかも分からない。
半壊した脳みその一部が頭からはみ出して、だらだらと脳漿を零している。
なのに、こいつはまだ死んでいない。脳か脊椎を破壊すれば死ぬ筈だったのに、生きている。それともまだ脳へのダメージが足りないのだろうか。
−−弾はまだある…でも。
椅子を盾代わりにしながら後退る。こんなものでもないよりマシだ。
−−それを込める時間が…ない!
さっきので、弾装は空になってしまった。新たに弾込めしなければどうにもならない。
だが、この怪物相手にいかにしてその時間を稼ぐか。アルコールランプはもう使ってしまった。さっきと同じ足止めは無理だろう。
何よりコイツ−−怒っている。
眼球が残っていたら、ギラギラと眼を血走らせていたことだろう。
前にスネ夫の家にあったゲームを思い出す。ひたすら怪物を狩って狩って狩りまくるゲームだ。
怪物達はダメージを蓄積されるほど怒り狂い、暴れまわった。中には火を噴く奴もいた。
バイオゲラスはゲームの中の架空の存在ではない、今のび太の目の前にいるれっきとした悪夢だが。
それでも、その怒気は目に見えて伝わってくる。ぎぃぎぃと気色悪い鳴き声を上げ、尾を振り回す。
眼がないからのび太の位置は分かっていない筈だった。しかし運悪く振り回した尾が、のび太の方に飛んでくる。
「わああっ!」
のび太は吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられた。
椅子でガードしなければ肋骨が粉微塵になっていただろう。バラバラに吹き飛んだ椅子にぎょっとさせられる。
立たなければ。立って手を考えなければ。そう思うのに、足に力が入らない。
さっきの衝撃で頭がぐらぐらする。脳震盪でも起こしたのか、バランス感覚がおかしい。目眩が酷くて、とてもじゃないが立ち上がれない。
「のび太ぁ!」
「のび太君っ!!」
「返事をしろっ、のび太!!」
「いやあああっ!」
仲間達の悲鳴が、呼ぶ声が遠い。バイオゲラスがのび太を探し、手当たり次第に暴れまわっている。
まだ遠いが、あれではいずれ無差別攻撃に巻き込まれるだろう。
その前になんとかしなければ。それとも−−これが自分の天命だとでも言うのだろうか。
−−僕…此処で死ぬのかな。
静香の顔が浮かぶ。出来る事なら、最後にちゃんと想いを伝えたかった。
答えてくれなくたっていい。振り向いてくれなくてもいい。ただ一言、君が好きだよと言いたかった。
−−頑張ったつもり…だったけど。まだ僕には、何かが足りなかったのかな。
ドラえもんを思い出す。何処で今何をしているかも、生きてるかも分からない親友。
出来る事なら最期に人目逢いたかった。いつもありがとう、そう言いたかった。
−−相変わらずの弱虫だけど。僕…ちょっとは強くなれたかなあ?
ドラえもんにその姿を見せたかったのに。そうして安心させてあげたかったのに。今はもう、それさえ叶わないのか。
悲しいなあ。呟いた先、バイオゲラスが振り向く。これで全部、終わり。何もかも。何もかも。
「みんな……ごめんね」
役に、立ちたかっ−−。
「食らいィィィやがれェェェ!!」
怒声と共に、爆発音が聴こえたのはその時だった。のび太は目を見開く。バイオゲラスの体が燃えていた。炎の中、もがき苦しむ大蜥蜴の姿が見える。
そしてその前に、グレートランチャーを構えて立っているのは−−。
「安雄…?」
重傷を負って保健室にいた筈の、安雄だった。
武器は、それなりに持っていた。警察官からかっぱらった武器だけではない。
何故かロッカーに保管されていた、現代日本にはありえない武器の数々。それらは、この学校が大きな犯罪の温床になっていた事を意味している。
自分の体格と力では、扱えないと諦めていたグレートランチャー。
しかし今、安雄はそれを抱えて化け物の前に立っている。一発だ。一発だけなら何とか撃てる。
残念ながら自分の腕力では、一発撃つとしばらく腕が痺れて動けなくなってしまうのだが。
「安雄!おま…どうして!?」
のび太が信じられない、といった様子で叫ぶ。色々な意味があるんだろう。
いつも当たり前のように安雄がのび太を苛めていたせいもあるし、何より相談室で寝ていた自分が、理科室のドアを破壊して押し入ってきたのもビックリだったに違いない。
「手榴弾のストックがあってさ。入口のドアを吹っ飛ばしちまったぜ」
「そうじゃなくて!お前…そんな酷い怪我してるのに…!!」
「はは…優しいな、のび太は」
本気で心配してくれている。それが本当に嬉しかった−−涙が出るほどに。
のび太は本当に、優しくてお人好しだ。今だって自分が来なければ絶体絶命の大ピンチだったろうに、人の心配ばかりして。
なんて馬鹿で、心が綺麗なんだろう。
「…世界を変えるのは、お前みたいな優しい大馬鹿野郎かもしれねぇな」
安雄は思う。自分には、世界を変える事など出来なかった。
自分自身の事だけで精一杯で、変わってしまった世界を嘆く事しかできなかった。
この悪夢を自分でなんとかしようと思えなくて。死にたくないと怯えて、弱すぎる自分に嫌悪して、絶望したらまた怖くなって。
無限ループだ。救われない、ただ奈落の底に落ちるばかりの。
しかしのび太は言ってくれた。弱くたっていいのだと。
怖いと思うのは当然だと。その上で−−出来る事が必ずあると、自分に教えてくれたのだ。
「…俺にはもう時間がない。T−ウイルスに感染して…多分もう発症してるんだ。体が痒くて堪らない。吐き気がする。なのに…やたら体が軽いんだ」
「安雄…」
「でもまだ俺は俺だ。俺なんだ。此処にいて、息して立ってんだよ!」
まだ自分は、人間としての誇りを忘れていない。
まだ化け物になんかなっていない。だったら−−花を咲かせるのは、遅くない筈だ。
のび太と話して、安雄は考えた。生きることを。生きる意味を。自分に今出来る事は何で、すべき事が何であるかを。
決意は固まっていた。自分は“生きる”。友達を守って、最期に一番綺麗な花火を上げてやるのだ。
自己満足でもいい。それで仲間を救えるなら、これ以上の幸せはない。
体は死んでも、魂は死なない。
それが自分の選んだ、“生”のカタチだ。
「俺は俺のやり方で…生き抜いてみせるっ!」
グレートランチャーを放り出し、駆け出す。
バイオゲラスは自らの飲み込んだ、あるいは付着したアルコールのせいでなかなか景気良く燃えている。
しかしそれだけでは決定打にならない。火が消えたら丸焼きトカゲな状態でも怒りに任せて襲ってくるだろう。
ならば。二度とそんな真似が出来ぬよう、バラバラな消し飛ばしてしまえばいい。
「ゴガァァ!」
苦痛に悶えながらも、安雄の接近に気付いたのだろう。あたりに散らばった木片やら何やらを踏みまくってれば当然か。
バイオゲラスは必殺技と言わんばかりに大口を開けた。安雄はライターに火をつけて、その口に自ら体をねじ込む。
鋭い牙が足に食い込む。激痛が、走った。
「安雄ぉぉ!」
のび太の悲鳴。痛くてたまらない筈なのに、安雄は笑っていた。
−−俺の人生って、何だったのかな。
まだ十一年しか生きてない。生きられなかった。本当はまだたくさんやりたい事があった。
大人になった時の夢もあったし、可愛いお嫁さんも欲しかった。
生まれた子供達に“格好いいパパ”と思って貰えるような、素敵な大人になれたらと思っていた。
その全ては。この町が何か不幸なものに選ばれてしまった瞬間、潰えていたのかもしれない。
悪夢のような現実。何故こんな酷い事になってしまったのかいまだに分からない。否、真実を知ったところで誰も納得はしないだろう。
それでも。自分は、選んだ。選ぶ事を決めた。
−−俺は此処にいたよ。生きてたよ。
その証と、意味の為に。最期に友達を助けられた−−自分自身だけでもいい。格好いい人間になれたんだと思う事が出来る。
「地獄に付き合ってやるぜ、蜥蜴野郎」
安雄は最期の言葉を吐いて−−自分の体に取り付けた小型の爆弾に、火をつけた。そして全ては、光の中、跡形もなく消し飛んだ。
どうやら安雄は−−爆発物を使ったらしい。死ぬつもりで戻ってきたのだ、彼は。
「どうして…安雄!」
のび太に分かったのは、たったそれだけ。
「どうして僕なんかの為に…!!」
やっと体から痺れがとれてきた。しかしのび太は座りこんだまま、立つ事が出来なかった。
安雄が来なければ自分は助からなかった。きっとバイオゲラスに食われてしまっていた。
しかし、自分がいなければ−−安雄が死ぬ事は、無かったのだ。
まだ炎は燃え盛っている。このままここに座りこんでいるのがマズイのは分かっている。
しかし、心の奥で何かがガラガラと崩れ落ちていった。どこかで楽観視していたのかもしれない。
これ以上仲間が死ぬことはない筈だ、もうこんなに悲しいことがたくさん起きたのだから−−と。
分かっていなかったのは、自分だ。これ以上悲しい事を起こさない為に戦っていた筈だったのに。
いざそれが起きてしまった時、自分は簡単に立ち上がれなくなってしまう。
覚悟が、足りなかった。いや、自分に一人でバイオゲラスを倒す技量さえあれば。安雄が命を賭ける必要は無かったというのに。
悪いのは。弱かったのは。
「あ…」
ふと、安雄のグレートランチャーに何かが引っかかっているのに気付く。
白い紙だ。のび太はよろよろと立ち上がり、近づく。まるで誘われるように紙片を拾い、開く。
そこにあったのは、ほんの僅かな言葉だけ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
のび太。お前に逢えて良かった。
俺最期までカッコ良く生きたぜ!でっかい花火だ。お前には真似できないだろ?
本当にありがとう。これで俺は化け物にならずに済んだんだ。
生まれ変わったらまた一緒に野球やろうぜ。ジャイアンに殴られるのはごめんだけどな!
安雄
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「のび太!今、安雄の声、が…」
「…ジャイアン」
皆がドアをぶち破ったらしい。先陣を切って突入してきた武に、のび太は紙片を見せる。
そして微笑った。無理にでもそうしなければと思った。
「安雄…カッコ良かったよ。嫉妬するくらいにね」
−−ありがとう、安雄。忘れないからね。
涙が溢れて止まらない。全てが吹っ切れた筈もないけれど。
もう立ち止まる事は赦されないのだ。生きる、その為に。
第二十七話
安雄
〜ベスト・エンディング〜
これはそういう旅だ。